今日は岩戸の中を静かに散歩した
ふすまをあけ いくつもの部屋を通り過ぎた
時に珍しい調度品や古めかしい油絵の額など見つけることもある
絵はどれも技術を衒うことなく 素直で奔放で
色合いも優しく 美しい
みているだけで 胸の痛いものが溶けていくような気がする
いくつかのふすまをくぐっていくと
ふとどこからか 海の音が聞こえた
わたしは その音に引き込まれるように
またふすまを開けた
かすかに潮の香りがするような気がする
海がどこかにあるのだろうか
わたしがそう思いながらふすまを開けると
そこには今まで見たこともないような
洋風のサンルームがあり
大きな硝子戸の向こうに青い海が広がっている
空はすきとおるほど青く
天の暖かき神は おしげもなく明るいまなざしを注ぎ
部屋は金色の暖かな光に満ちているのだった
わたしはサンルームに入っていくと
硝子戸に近寄り そこから青い海を眺めた
硝子戸は決して開かなかったが 風はかすかに吹いてきて
潮の香りでわたしの髪をなでる
波の音がここちよい
わたしは何かとても暖かなものに包まれているような気がして
しばし赤子のような気持ちで安らいでいた
そして笑いながらふと空に顔をあげると
そこに大きな女神がいらっしゃった
わたしは特に驚かなかった
驚くと言う情動を 制御されているからだ
女神は明るい色の髪を清楚に結い
白い簡素な服を着ておいでだった
その瞳はやさしくも憂いに満ちていた
わたしはただ呆然とそのお顔を見つめていた
美しいが青ざめたお顔が どこか自分に似ていると感じて
あわててわたしは自分の不遜をわびた
すると女神は 口の端をかすかにくぼめて微笑んだかと思うと
ゆっくりと空の向こうに消えていったのだ
右手を開いてごらんなさい
と 彼の声が言う
それに従い 右手を開くと
わたしはいつしか 瑠璃の十字架を握っていた
あ とわたしは思わず言った
白い義指が 花弁が落ちるようにほろりととれたかと思うと
わたしの指がいつの間にかよみがえっていた
女神の贈り物ですよ
あなたは 不遜を恥じる必要はありません
この地上に生きるものは あの神を見たとき
だれもが思うのです 自分に似ていると
何か 母のような 遠い親戚の親切な女性のような
どこかであったことのあるやさしいひとに似ていると
とにかく 何やら深い血脈で
あの方と自分がつながっているような気がすると
ああ わかります
とわたしは答えた しみじみとそう思ったからだ
そして同時に彼に言った
どうかわたしを 岩戸の女神と呼ぶのをやめてくださいませんか
とても恥ずかしい
すると彼は かすかな悲しみの吐息をわたしに聞かせた
だがそれ以上は何も言わなかった
わたしも 聞いてはいけないのだなと思った
わたしは 瑠璃の十字架を左手に持ち替えた
すると 何分かの時をおいて
また義指がはらりと落ち
わたしの指がよみがえった
十字架はそのまま わたしの手の中に沈んでゆき
しばし青いあざのような模様になったあと
ゆっくりと手にしみ込むように 消えて行った