自分が理想とする母親像、父親像は、ある時期は反面教師であっても、いつしか自分の希求する大元は自分の父であり母であることに気付くのは、自分の人生50年間が過ぎてからでした。
そんなわけで、両親が生きているうちに、自身の中で腑に落ちるまで親子関係をみつめる作業ができてよかったと思っています。
家族のそれぞれが精神的に希求しているものが見えてくると、自分の感情の取り扱い方にも変化がでてくるのです。
こうして欲しかった、ああして欲しかった、という子の要求は、あくまでも子供自身から働く感情であり、親に求めに応じてもらうことは、親であっても他者であるわけで、無理な話なのです。
希求する思いが強くなれば強くなるほど、自分の欲求は強くなりますが、求めに応じてくれない親、またはこの世にいない親の理想を求めても叶わない思いが、感情転移となって第三者に向けられると、向けられた方はたまったものではありません。
このことは難しい問題ですが私達が抱える普遍的な問題であると思います。
自分が希求していることが叶わないために、その要求を他者に求めていることに気付く人はそうそう居ないし、他者に求めていることが自分の生育史の問題であることを自分自身受け容れることもそう簡単にはできないと思います。
自分の個性、自分の傾向は一夜にしてできるものではありません。
「自分が求めて、叶えたい何らかのこと」は、果たして本当に叶うものなのでしょうか?
叶わないことを他者や世間にに希求していくことで、他者を傷つけていないでしょうか?
自分の求めに応じて欲しい人は、本当にその人なのでしょうか?
ほんとうに解ってもらいたい相手に言語伝達し、求めていることが叶う日がくること祈りつつ、自分の理想を時々検証してみると、解決や納得に繋がるかもしれません。
どんなに人類の文明が発達しても、人の心と身体の生育は、いつの世も同じなんだと思います。
しみじみと、「人の身体は神の神殿」とは、よく言ったものだ、、、と、思うのです。
ミネルバの神は、暗闇と共に飛び立つ。。。(ミネルバは知恵の神)
いつもこの言葉を胸に留め生活しているのも、私の生きる知恵と言えそうです。
クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
そんなわけで、両親が生きているうちに、自身の中で腑に落ちるまで親子関係をみつめる作業ができてよかったと思っています。
家族のそれぞれが精神的に希求しているものが見えてくると、自分の感情の取り扱い方にも変化がでてくるのです。
こうして欲しかった、ああして欲しかった、という子の要求は、あくまでも子供自身から働く感情であり、親に求めに応じてもらうことは、親であっても他者であるわけで、無理な話なのです。
希求する思いが強くなれば強くなるほど、自分の欲求は強くなりますが、求めに応じてくれない親、またはこの世にいない親の理想を求めても叶わない思いが、感情転移となって第三者に向けられると、向けられた方はたまったものではありません。
このことは難しい問題ですが私達が抱える普遍的な問題であると思います。
自分が希求していることが叶わないために、その要求を他者に求めていることに気付く人はそうそう居ないし、他者に求めていることが自分の生育史の問題であることを自分自身受け容れることもそう簡単にはできないと思います。
自分の個性、自分の傾向は一夜にしてできるものではありません。
「自分が求めて、叶えたい何らかのこと」は、果たして本当に叶うものなのでしょうか?
叶わないことを他者や世間にに希求していくことで、他者を傷つけていないでしょうか?
自分の求めに応じて欲しい人は、本当にその人なのでしょうか?
ほんとうに解ってもらいたい相手に言語伝達し、求めていることが叶う日がくること祈りつつ、自分の理想を時々検証してみると、解決や納得に繋がるかもしれません。
どんなに人類の文明が発達しても、人の心と身体の生育は、いつの世も同じなんだと思います。
しみじみと、「人の身体は神の神殿」とは、よく言ったものだ、、、と、思うのです。
ミネルバの神は、暗闇と共に飛び立つ。。。(ミネルバは知恵の神)
いつもこの言葉を胸に留め生活しているのも、私の生きる知恵と言えそうです。
クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング