五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

もし違う概念に出合っていたら・・・

2009年07月15日 | 第2章 五感と体感
死んだらどうなるんだろう?

昨晩、ある番組を食い入るように見ました。
ある物理学者の闘病生活から生まれる「思考と感情と行動」に興味を抱きました。

私は素人なので感覚で捉えることしかできませんが、分子や素粒子は「神の領域」であり、「華厳の思想」だと感じています。「宇宙の仕組みを描いたような曼陀羅」を思い浮かべたりもします。

私と心を繋げる「意識」。意識が感情や思考、行動となって「私は私である」ことを体感していきます。
「私が私でない」と感じるときは、何かの違和感を感じたときかもしれない、と思います。
「死んだらどうなる?」
昨日の番組では、仏教者と対話したすえ、「無」になるという解釈を素直に「無」と解釈した物理学者の素直さ、正直さに、ちょっとした衝撃を受けました。

恐れとか不安を何かに置き換えることで安心立命を図ろうとする傾向が人にはあります。現実をそのまま受容することは、よくよく考えてみたら至難の業・・・
私は、「無」を「無」とは捉えていません。「無」という意味を見出そうとあがいているかもしれません。でも魂は信じています。
昨晩は、番組を見終え、旧約聖書の詩編103・14~16を読みました。
「私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる。」

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思考と感情と行動

2009年07月14日 | 第2章 五感と体感
思考と感情と行動の一致とは何でしょう?

人は、不安が本質、といわれています。

いくら明るく捉えていく傾向のある私でも、最初に湧き出すのは不安感です。
自分を成り立たせている「考え方、湧き出す感情、そしてしぐさや行動」は他人とは違います。
だから、自分の「思考と感情と行動」から他人の発言や行動を解釈していくまでの間は、不安な状態であると言っていいと思います。

「納得」「腑に落ちる」「しっくりする」「ピピッとくる」「なるほど!」「これだ!」等々、安心感を得た感情が湧き上がる時の状態を日常の言葉で表すと、こんな感じでしょうか・・・
違和感を感じるときには、上記のような気持にはなれません。

常に「思考と感情を行動の一致」をいちいち感じ取ることを意識していたら、疲れてしまいますが、何かの出来事に遭遇したとき、自分は一致しているのか、それともバラバラなのか、自分の中で吟味してみると、何かの意識化に繋がるのではないかな、と思います。

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お題は日本神話

2009年07月13日 | 第1章 意識と知覚
週末、二泊三日の勉強会でした。

テーマは日本神話。

「古事記や日本書紀が長い歴史を経て、日本人のアイデンティティにどのように影響されているのか。」それを自己分析する三日間でした。

特に「穢れ」と「禊ぎ」について、思索しました。

幼い頃は、紙芝居や絵本で触れていた「いなばの白ウサギ」や「ヤマタノオロチ」「ウミヒコ・ヤマヒコ」・・・確かにお話はわかりますが、それが穢れと禊ぎにどうつながるのか?

「けがれる」ことによる「みそぎ」。
「けがれている」ことによる「みそぎ」
・・・陰と陽・・・

「恥」と「清め」にも関係していきます。

映画「おくりびと」に「死に触れた職業を始めた夫」に妻が「穢らわしい!」と叫ぶ場面があります。この場面はとても印象的でした。

「死」は穢らわしいという日本の文化思想は、確かに生きています。仏教の葬儀に参列した後は、塩で身を清める風習があります。
穢らわしい自分を清めてから神社に入ります。そのために水で清める場所があります。

「恥」もそうです。「恥をさらす」「恥を知れ」・・・

ユーロ圏のホテルのアンケートで、日本人の客が一番マナーを守り、部屋を綺麗に使い、クレームが少ない、という結果が出たそうです。
日本には「旅の恥はかき捨て」という言葉も生きています。海外の人たちが相対的にそのように感じていることが、逆に私自身のアイデンティティを客観的に捉えるきっかけにもなります。

自己主張に乏しい、無口?、おもてなしの心?配慮?気遣い?察する?
おとなしい、謙遜?謙虚?

繊細な心遣いか?恥の文化か?自信が無いのか?気が弱いのか・・・???

とりあえず、他人のことは分からないので自分の中で考えてみることと致します。

三日間、思索に更けましたが、まだまだ思索が足りません。始まったばかりです。
そんなわけで数日、「穢れ」「禊ぎ」について触れていこうかと思います。

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景気のよい会話

2009年07月12日 | 第2章 五感と体感
行きつけの美容院で、旅の話に花が咲きました。
その流れで、美味しいカルボナーラと、トリュフにチーズ、横須賀の猿島のアサリで作ったボンゴレビアンコの話題に・・・

旅と食べ物はひとつです。そして、生活に食事はかかせません。

美味しいトマトの味といえば、函館の郊外の畑で作られた太陽の甘味のトマトを思い出し、採れたて胡瓜といえば、東北に住む友人が作った採れたての味を思い出します。

確かに不景気。。。でも、会話まで不景気にすることはありません。

不景気な態度と言葉は、自分の心のベースにある楽しい思い出まで、貧乏くさくなっていきます。
美味しい旅の思い出と、美味しい食べ物は、お金でははかれない幸福感をもたらします。

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いま、ここでの感情

2009年07月11日 | 第2章 五感と体感
人は、揺れながら立つ姿勢を保っているのだそうです。

それを知り、「揺れ動く感情で人が成っているのは当たり前なんだなぁ」
と、改めて頷きました。

だからこそ、悩みが深い時は、いろいろな感情が一層渦巻、いま、ここでの感情が見えにくくなるのかもしれません。

「いま、ここでの感情を大切にする」、

あやふやで、モヤモヤばかりが募るのであれば、そのモヤモヤを何かに置き換えてみるのも一つの感情表現です。

梅雨の空のように、暗い雲が空を覆っているようだ・・・とか、
果てのない宇宙を考える時のような不安感だ・・・とか、
頭に重たい石が乗っかっているようだ・・・とか・・・

わけがわからないときは、そんな抽象的な表現の方が、しっくりしちゃいます

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無理せず、いじらず、

2009年07月10日 | 第1章 意識と知覚
「こんな解釈だとだめ!もっと楽に考えようよ!」
そう言われて励まされても、あるがままの感情が暗いのをスグに明るく出来ないから落ち込んでいるわけで、「あなたには、そんなこと言われたくない!」
そんな経験は誰しもあるように思います。

暗い暗いあるがままの感情を意識化できているだけでも、光の可能性を感じます。

自分が疲れていることが意識できていなかったり、感情が湧かず、何に接しても喜怒哀楽が表現できないと、もっと深刻な状況かもしれません。

「あるがままの感情」を無理していじくらないで、自分自身でそっと見つめることで、自分の内にある答えが見えてくると信じています。

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揺れ動く感情

2009年07月09日 | 第9章 愛
好き、嫌い
安心、不安
行く、行かない
欲しい、欲しくない

よくよく考えてみると、毎日毎日、ほんとうにいろいろな選択肢に迫られながら生きています。

私の場合、朝起きて、冷蔵庫を開け、出すものは毎朝ほぼ同じです。
メニューをパターン化しておくのは、忙しい時間に迷う手間を省くためです。

でも、夕食は違います。朝から「夕食のおかずはこれにしよう!」と決めていれば楽なのですが、行きつけのお肉屋さんで「何にしよう。。。。」と迷いだすと、次に出てくる言葉は「あ~あ、、、食事作り放棄したい!」とぼやくこととなります。行きつけのお肉屋さんでぼやく分には突っ込みをいれてくれるので、結果的に互いをいたわりあう楽しい会話が成立しますが、スーパーでそれをやれば、ストレスの溜まったあやしいオバサン・・・・・・

さて、今朝も、揺れ動いています。
明日から勉強会があり、来週も一週間忙しく過ごします。
美容院に行くか、行かないか。。。行けば、すっきりするし、行かなきゃ気持ちを引きずったまま勉強会に出かけることになります。

すっきりするか、気持ちを引きずるか。。。

揺れ動く感情、こんなことから自己の感情を見つめてみると、自分の思考の傾向が見えてきます。

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あるがままの感情

2009年07月08日 | 第3章 無意識の世界
昨日、理性と感情について書きました。

理性は、動物に備わった経験(遺伝も含む)による抑制力や、倫理道徳、社会規範の概念からくる「感情を抑える力」だと私は解釈しています。

感情は、自然と湧き出す自己の感情です。思考とは違います。思考は湧き出す感情から派生する、その人の経験による考え方や思いのことであると解釈しています。
だから「感情」と「思考」は、分けています。

では、「あるがままの感情」ってなんだろう?

倫理道徳に囚われることなく、あるがままの感情を感じとる作業は「あるがまま湧き出す感情を意識」していなくては、意識化することができません。
意識化する、ということは、ある意味理性で読み取ることだとも云えます。
矛盾するようですが、理性なくしては、あるがままの自己感情を意識することができません。

「あるがままの感情」
単純に表現すると、「好き」「嫌い」、「怖い」「怖くない」、「安心」「不安」そのような対極的な感情の意識化から始めてみるのもよいと思います。

「好き」であるのに、わがままを言って相手に嫌われるような言動や行動を起こしたり、「嫌い」であるにに、倫理道徳に惑わされ好きであると思いこんでいたり・・・または、「嫌いである」感情を表出できず、意識に上げていなかったり。。。そんなこんなで、自分自身も「感情」から派生するあらゆる「思考」を経験しながら生きているわけです。

「好き」「嫌い」の感情を思考操作する前に、それらの感情を瞬間でも良いから、自分の中で一旦落としてみると、「意識化」が計れます。

今日も「あるがままの感情」を大切に・・・

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理性と感情

2009年07月07日 | 第3章 無意識の世界
腰越勉強会、早くも第六回。年間の中間地点となりました。
海から吹く風が湿度の高さを抑えてくれたので、下界よりは過ごしやすかったと思います。そうはいっても、梅雨の蒸し暑さからは、いい加減解放されたい気分です。

今日のお題は「理性と感情」について。

このテーマを自問自答していくには、自己開示の訓練が必要かもしれませんが、今ここでの感情を最も大切にしながら、今現在の自分の現実吟味力の範囲で考えていくことが一番ふさわしいかな、と思いました。

自分の感情と自分の理性は、私という中でのどのように使い分けているか?または、自分の思考と行動において、どちらが優先されるか?

そのような内容をブレーンストーミングしていきました。

私は根本的には、「感情」優先です。でも感情が湧きあがりながらも、行動や思考するときに、理性が働いています。それが、抑制の利いた大人の理性ならば、気に留めることはありませんが、ある事例に出合うと理性的に思考すべく無理に抑制することもままあります。それが防衛機制のなかのなんであるかは、これから考えようと思います。

あるがままの感情が、あるがまま意識の上に上げられれば、別に言語化する必要もありません。意識の上にあがってきたものを意識的に抑制したとしても、一回は意識の上に確かに上がっているのですから、抑圧とは云い切れません。

私自身「理性と感情」を考える前に、「抑制と抑圧との関係」を今一度、吟味してみようかな、そう思った勉強会でした。

気候に相応しく、じっとりと重たいテーマであったことは確かのようです。

皆さま、お疲れ様でした。
ご師匠様、ありがとうございました。

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草茫々の原っぱ

2009年07月06日 | 第2章 五感と体感
近所の空き地が、いますごいことになっています。
野趣の富むとは、このことでしょうか。
雑草生育の勢いが激しく、背丈以上の高さの草が生い茂り、いろいろな草の葉を眺めることができます。日を追うごとに草が成長し、著しく変化していきます。
子供連れの若いお母さん方が「うわ!、先週まではこんなじゃなかったよね!!」
と驚いていたり、子供たちが虫集めに夢中になっていたり・・・

「昔はこのような空き地がたくさんあったなぁ~」と思いながら久しぶりに幼い頃の風景を思い出させていただいています。

「原っぱ」という言葉を使うのも久しぶりです。

売り買いの対象となっている土地は、原っぱなんかにしていたらもったいないわけで、このご時勢、売りたいけれど売れない土地。
でも、毎日通る私は、今日はどのくらい草が育っているかひそかに楽しみながら通り過ぎています。

さて、今日もどんなことになっているか楽しみ楽しみ

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かきた立てるもの

2009年07月05日 | 第2章 五感と体感
やりたいこと、見たいこと、聴きたいこと、知りたいこと、触ってみたいこと、嗅いでみたいもの、味わってみたいもの、、、それらをかきたてる気持ちは、どこから湧き上がってきたんだろう?
国内外問わず、行きたい気持ちが湧き出ると、行かずにはいられない衝動が起こります。固執障害のようなものです。そこに行かなくては生きてはいけないくらいに思うからです。

想像の中だけでは、どうしても成り立たない自分がいます。

南フランスを旅したとき、人の豊かさとその土地に宿る雰囲気から長い歴史に育まれた厚みのある安定感を感じました。表面をなぞりながら生活しているといつかは崩れていきます。

週末、毎年お楽しみのボルドー音楽祭のコンサートを聴いてきました。
ほんとうにほんとうに楽しんで演奏する演奏家達。ヴァイオリンとヴィオラとチェロ、そしてピアノ。音に色が付き命が宿り、息遣いが交わり、いたわりながらおおらかに、優しく幸福に奏でる彼らの音楽は、コンサートが始まると当時に、観客をもその雰囲気に巻き込んでしまいます。
観客のどの人も、顔がほころび、心の奥底から幸福感を味わっているのが空気で伝わります。

魂を信じて、人との交わりに愛を感じ合いながら暮らしている人たちの音は、正真正銘、人に感動を与えます。来年も楽しみにしています。

オリーブオイルの料理、チーズと太陽の香りのする野菜、新鮮なお魚、焼きたてのバケット、ハーブの香り、、、、たまらなく行きたくなりました。
頭の中は梅雨の日本じゃなくて、乾燥したカラッカラで太陽いっぱいのコートダジュール

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他人と自分が見えているもの

2009年07月04日 | 第2章 五感と体感
自分の感情は、他人と共有できません。

自分の感情を他人が察して心配してくれることはありがたいことです。
でも、その感じ方もそれぞれの人の解釈と感じ方で「私」の解釈と感じ方ではありません。

「深刻な悲しみや悩みを抱えているとき、自分はどうだったんだろう?
その時の自分は、どのくらいの感情を持っていたのだろう?その時、見えていたものって、何だったんだろう?」
人との対話が始まると、自分の持っているスケールは、大きく役に立ちます。
ただ、それを相手に口にすることはほとんどありません。(仕事上の話です)
人と他人とは、見えているもや感じているものが違うからです。

ここで云う「見えているもの」とは、「現象の先にある何か、もしくは心の奥にある何か」のことです。

現象に左右されて、評価したり、相手と比較したり、自分のことと比べて言語化したりしても、なーんにも解決には至りません。

他人と自分は、「見えているもの」が違うからです。

人に何かを言われ、落ち込んだとき、そんなことを思い出してみると、凹みにくくなるかも。。。

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自分の信じ方

2009年07月03日 | 第9章 愛
自分の大切な人が云う言葉を信じることができるか?

見えているものばかりに囚われて、ついつい追いうちをかけるような言葉をかけていませんか?

時々、胸に手を当てて、とある学校の校訓を意識しします。

「信・望・愛」

だいじょうぶ、だいじょうぶ、と。

自分以上に考えているのは、振り子のように揺れ動いている自分の大切な人なのだということを忘れないこと。信じること。



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西の魔女の続き

2009年07月01日 | 第2章 五感と体感
人は必ず自分のフィルターを通して物事を見ています。

その人が「そう」見えるものは、その人の概念であって、それが正しいか否かは、とんとわかりません。

人の本質は「不安」と言われています。

「西の魔女が死んだ」に登場するおばあちゃんが孫に言います。

「魔女になるには、物事の正しい方向をキャッチする力と何事も自分で決める力を訓練することよ」

「魔女になると、見たいと思うものが見えて、聴きたいと思うものが見えてくるの」

「毎日のちょっとした変化が楽しいから変化を前もって知る必要はないわ」

この本を書いた作家は、魂を信じて見えてくるものを語っているように想います。私が作家に対して「共有感」を持つことが、俳優に語らせることで、互いのフィルターに暖かい絆が表れてきました。
暖かい絆は言葉を通して「体感」に響きます。

悲しい感情を表出させた孫がおばあちゃんと一緒に寝るシーンでは、孫とおばあちゃんと囁くように語りあいます。

孫は、死んだらどうなるのかおばあちゃんに聞きます。
おばあちゃんは言います。「じつは、死んだことがないから私にはわからないわ。」
そして、魂と心と身体の関係を、おばあちゃんは、孫にわかりやすく伝えます。

あんまり、具体的に言うと、つまらないので、このへんでやめます。

魂の会話をしたおばあちゃんと孫のラストシーンから「信じて見えてくるもの」の統合感が伝わります。

この物語を語りあうきっかけをつくってくださった方に感謝します。

さて、今日は私たちの大切な人の命日。二年経ちました。ここに在る魂とどんな会話ができるか、楽しみです。


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