90年代の競馬界を賑わせた個性派ホースの訃報が次々と届きました。1991年のオークス馬・イソノルーブルが7日に死亡。その翌日の8日には91年の有馬記念で歴史的番狂わせを起こしたダイユウサクが老衰で死去。そして現役時代に重賞4勝を挙げ、「名脇役」と言われていたマチカネタンホイザが7日に亡くなっていたことがわかりました。
まず、イソノルーブルは今月7日、余生を過ごしていた北海道浦河町の村下農場で老衰のために死亡。25歳でした。村下農場代表の村下公典さんの話によると、「7日も放牧地で普通に過ごしていたが、夜に様子を見に行ったら、眠るように息を引き取った」とコメント。報道などによると、10年前から蹄葉炎(馬の蹄に細菌が侵入し、血行障害が起こる病気)を患っていたという事です。
イソノルーブルは現役時代、1990年9月に中京競馬場での新馬戦でデビューし、3戦目の「ラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス」で重賞初勝利を挙げると、3月の桜花賞トライアル・4歳牝馬特別(現在のフィリーズレビュー)でも快勝。デビュー5連勝で迎えた桜花賞では1番人気に支持されましたが、落鉄の影響で5着と敗れました。牝馬クラシック2戦目のオークスでは、桜花賞馬・シスタートウショウの追撃を振り切り、大外の20番枠から逃げ切り勝ち。しかし、8戦目のエリザベス女王杯で16着と大敗し、レース後に故障が判明して引退。通算成績は8戦6勝でした。引退後は繁殖牝馬となり、第1子のイソノウイナーなどを輩出し、2009年に繁殖引退しました。
彼女と言えば桜花賞での「落鉄事件」が思い浮かびます。発走10分前に鞍上の松永幹夫騎手(現・調教師)がルーブルの右前脚の蹄鉄が落ちているのに気付き、あわててが装蹄師が蹄鉄を打ち直しますが、作業中に馬が興奮状態に陥ってしまい、結局打ち直しを諦めて裸足で走る事になったのです。レース後に「テレビの中継の時間内に収まるようにスタートを強行したのではないか」という批判の声が上がり、民事訴訟まで起こったのでした。その後、彼女には「裸足のシンデレラ」というあだ名が付けられたのでありました。もし落鉄さえなければ、普通に勝っていたと思うし、その後無敗で牝馬2冠を制していた事でしょう。
91年の有馬記念馬・ダイユウサクは、8日の夕方に老衰のため北海道浦河のうらかわ優駿ビレッジAERUで亡くなりました。28歳という大往生でした。現役時代は7歳だった91年にスポニチ賞京都金杯で重賞初勝利を挙げると、年末の第36回有馬記念では15頭中14番人気のブービー人気でしたが、圧倒的1番人気だったメジロマックイーン、宝塚記念馬・メジロライアンなどを破って優勝。単勝で13,790円の高配当。しかし、翌年は6戦出走するも成績が奮わず現役引退。引退後は種牡馬になるも目立った産駒が現れませんでした。
GⅠレースを1回勝った後、目立った成績を残せない「一発屋」の馬は何頭かいましたが、ダイユウサクこそ「一発屋」に相応しかったです。91年の有馬記念は、無敗の2冠馬・トウカイテイオーが骨折で離脱し、メジロマックイーンの「一強ムード」でしたが、ダイユウサクが1着でゴールしたときは本当にビックリしました。同時に「マックイーンが当然のように勝つだろう」と思っていたので、まさかの敗戦に子供ながらショックを感じました。
そして、10日にはマチカネタンホイザが12月7日に疝痛(馬の腹痛)で死亡したというニュースが届きました。24歳でした。この馬はミホノブルボン、ライスシャワーと同年代で、92年の皐月賞で7着、日本ダービーで4着、菊花賞で3着。古馬になってからは、93年のダイヤモンドステークスと目黒記念、94年のアメリカジョッキークラブカップ、95年の高松宮杯(当時は2000mの中距離重賞)を制しました。引退後は種牡馬となった後、山梨県の小須田牧場に移り、マチカネフクキタル(97年菊花賞馬)と共に余生を過ごしていました。
マチカネタンホイザはGⅠ競走に14度も出走した「名脇役」として知られていますが、94年のジャパンカップでは鼻出血で競走除外、有馬記念では蕁麻疹のため出走取消。GⅠレースを2回連続で出走取消になったのは後にも先にもタンホイザだけです。たぶん。
今年はエアグルーヴをはじめ、トウカイテイオー、ハクタイセイと90年代の名馬を始め、ジョワドヴィーヴル、マジェスティバイオ、デュランダル、フィフスペトルなどがこの世を去りました。今回の相次ぐ訃報を受け、「また90年代が遠くなるなあ」と感じます。亡くなられた3頭のご冥福をお祈りいたします。