MY LIFE AS A FOOTBALL

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会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

記憶からも抹殺

2022年10月06日 | 個人的なメモ帳

もうアベちゃんを語ることもあるまい。
あんたが語ってるわけじゃないじゃん(笑)

ああ、せいせいした。
さあ、記憶から抹殺しよう  っと。


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日刊ゲンダイ 臨時特別号より  

検証 安倍晋三②

政策で失敗しながら 
選挙という「人気投票」で政権にとどまる



寄稿 内田 樹(思想家)


国際社会にビジョンを示せなかった没落の10年


 この10年間で日本の国力は劇的に衰えた。
経済力や学術的発信力だけではなく、報道の自由度、ジェンダーギャップ指数、
教育への公的支出の対GDP比ランキングなどは「先進度」の指標だが、
そのほとんどで日本は先進国最下位が久しく定位置になっている。 

 だが、「国力が衰えている」という国民にとって死活的に重要な事実そのものが
(報道の自由度の低さゆえに)適切に報道されていない。
安倍時代が残した最大の負の遺産は「国力が衰微しているという事実が隠蔽されている」ということだろう。

 国力はさまざまなチャートでの世界ランキングによって近似的に知られる。
1995年は世界のGDPのうち日本は17.6%だったが、現在は5.6%である。
89年の時価総額上位50社のうち日本企業は32社だったが、現在は1社。
経済力における日本の没落は顕著である。

 だが、日本のメディアはこの経年変化についてはできるだけ触れないようにしている。
だから、多くの国民はこの事実そのものを知らないか、軽視している。
それどころか、政権支持者たちは安倍政権下でアベノミクスが成功し、
外交は見事な成果を上げ、日本は世界的強国であるという「妄想」のうちに安んじている。

 安倍時代における支配的なイデオロギーは新自由主義であった。(今もそうである)
すべての組織は株式会社のような上意下達組織でなければならない。
「選択と集中」原理に基づき、生産性の高いセクターに資源を集中し、
生産性の低い国民はそれにふさわしい貧困と無権利状態を甘受すべきだ。
そう信じる人々たちが法案を作り、メディアの論調を導いてきた。その結果がこの没落である。

 だが、誰も非を認めない。
すべては「成功」したことになっている。それは政権与党が選挙に勝ち続けたからである。
安倍元首相は6回の選挙に勝利した。しばしば圧勝した。この結果が
「国民の過半は安倍政権が適切な政策を行ってきたと判断した」ことを証し立てていると政府は強弁した。

 株式会社ではトップに全権が与えられる。
トップのアジェンダに同意する社員が重用され、反対する社員ははじき出される。
それが許されるのは経営の適否についてはただちにマーケットがあやまたず判定を下すと信じられているからである。
「マーケットは間違わない」というのはビジネスマンの揺らぐことのない信仰である。
社内的にどれほど独裁的な権力をふるう権力者であっても、収益が減り、株価が下がれば、ただちに退場を命じられる。

 国の場合は「国際社会における地位」が株価に相当するだろう。
経済力、地政学的プレゼンス、危機管理能力、文化的発言力などで国力は表示される。
その点でいえば、「日本株式会社の株価」は下落を続けている。

 しかし、安倍政権下で経営者は交代させられなかった。
もし、経営が失敗し、株価が急落しているにもかかわらず、
経営者が「すべては成功している」と言い続け、
それを信じた従業員たちの「人気投票」で経営者がその座にとどまり続けている株式会社があったとすれば(ないが)、
それが今の日本である。

 新自由主義者たちは「マーケットは間違わない」と言い張るが、
彼らが「マーケット」と言っているのは国際社会における評価のことではなく、選挙結果のことなのである。
選挙で多数派を占めれば、それはすべての政策が正しかったということなのだ。

だが、選挙での得票の多寡と政策の適否の間には相関はない。
亡国的政策に国民が喝采を送り、
国民の福利を配慮した政策に国民が渋面をつくるというような事例は枚挙にいとまがない。
政策の適否を考慮する基準は国民の「気分」ではなく、客観的な「指標」であるべきなのだが、
安倍政権下でこの常識は覆された。

 決して非を認めないこと。
批判に一切譲歩しないこと。
すべての政策は成功していると言い張ること。
その言葉を有権者の20%が(疑心を抱きつつも)信じてくれたら、
棄権率が50%を超える選挙では勝ち続けることができる。


人間は騙せても、ウイリスに嘘は通じない

 
 安倍政権が最終的に終わったのはパンデミック対策に失敗したからである。
人間相手なら「感染症対策に政府は大成功している」と言って騙すことはできるが、ウイリスに嘘は通じない。
科学的に適切な対策をとる以外に感染を抑制する手だてはないからだ。

 だが、安倍政権下で政権担当者たちは「成功すること」と
「成功しているように見えること」は同じことだと本気で信じ始めていた。
だから、「どうすれば感染を抑えられるか」よりも、
「どうすれば感染対策が成功しているように見えるか」ばかりを気づかった。
菅政権下の東京五輪の強行にしても、「感染症が効果的に抑制されているように見せる」ことが優先された。
それを有権者が信じるなら、それ以上のことをする必要はないと思っていたのだ。
今の岸田政権もそう思っている。

 パンデミックについても、気候変動についても、東アジアの地政学的安定についても、
人口減少についても、トランス・ナショナルな危機に対してこの10年間、
日本はついに一度も国際社会に対して指南力のあるビジョンを提示することができなかった。

 司馬遼太郎は日露戦争から敗戦までの40年間を「のけて」、
明治の日本と戦後の日本をつなぐことで敗戦後の日本人を自己嫌悪から救い出そうとした。
その風儀にならうなら、
安倍時代という没落の時代を「のけて」、10年前まで時計の針を戻して、そこからやり直すしかない。



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