3月16日付で「さとり世代」という文を記しました。今回はその続編とでも言うべき内容です。
大学の教員になって、今年で16年が経過しました。仕事柄、10代後半から20代前半の人たちと接する機会が多いので、気になっています。こういう稼業をやっていると、世代という幅ではなく、年ごとのカラーの違いがあるということがわかってきます。同業者の多くがそうではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
勿論、十人十色と言うくらいですから、性格から何から人それぞれ、個人ごとの差異があります。それを承知で敢えて記すなら「その学年の色彩」というものがあります。つまり、今年入学した学生たちと昨年入学した学生たちとの、気質などの違いがあるのです。多分に感覚的なものですので、説明は難しく、新聞記事にもしにくい訳ですが、この16年間、違いに戸惑ったりしながら、学生と接したりしてきました。少人数クラスやゼミを担当すると「学年ごとの色彩」がよくわかってきます。とてもではないですが「世代」と乱暴にまとめることはできません。いつの世においても世代論が展開されますが、こういう「論」を行う人には若い世代(でなくともよいのですが)と密接に接する機会に恵まれていない、あるいは敢えて接しないという者も少なくないのではないでしょうか。または、職業のせいで、私は世代論に違和感を覚えるのでしょうか。
以上に記したことを考えながら、今日の朝日新聞朝刊の「天声人語」を読みました。今となっては懐かしい「24時間戦えますか」のキャッチコピー(CMソング)に触れつつ、1989年、つまり平成元年、バブル経済の絶頂期の話から始まります。まさに「浮かれた世相」でした。悪い表現を使えば「狂った世相」です。良いこともなくはなかったのですが、あの頃の遺産は一体何だったのだろうと思っています。「徹夜仕事のお供に、眠気防止のためのドリンク剤が定番とされた時代」にその「徹夜仕事」をした人たちは、労働をし、消費をし、投資をして、わずかながらの余裕を与えられつつも、挙げ句の果てには、なけなしの手切れ金も受け取れずに、労働市場からも金融市場からも追い出されたのではないでしょうか。勿論、この人たちが産出した財の大部分は、ほんのわずかな部分しか手に取ることができず、大部分はほんの一部の法人などに帰属します。こうして貧富の格差は拡大していくのです。橘木俊詔氏が岩波新書の『日本の経済格差』で指摘しているように、ジニ係数はバブル期から上昇していました(但し、日本の場合は長らく貧困状況の調査などがまともに行われていなかったので、ジニ係数が社会をまとめて表現するような形になっていないという可能性は高いのですが)。
まさに経済の奴隷となり、弊履のごとく捨てられる人間。状況はますます悪化しています。我々が産み出したはずのものに、作り出した道具であるはずのものに、我々が物的にも精神的にも支配されている時代。結果という一面のみに振り回される社会。
バブルは崩壊しますが、世界的にはグローバリゼイションが席巻します。世界のどこかでバブルが起こり、我々は浮かれ続けます。喩えは悪いですが、これまでの麻薬や覚醒剤に満足できなくなり、いっそう強い効き目の薬物を求める中毒患者ばかりがあふれています。旧約聖書に出てくるソドムとゴモラの話の変形ではないかとすら思えてきます。
私自身がそうでしたし、私が接してきた学生もそうなのですが、若者はどこかで世間、社会を冷静に見ています。ニヒリズムと間違えられるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。たとえ熱狂に同調していても、醒めた部分は残ります(もとより、その範囲は人によって違います)。そして、世間や社会に反感を抱きながらも、その中でどのように生きていくのかを考えるのではないでしょうか。或る世代の者から見れば、若者は「やわ」かもしれませんが、実はどこかにしたたかな部分を持っています。今日の「天声人語」にも登場する「さとり世代」は、その「したたかな」世代ではないでしょうか。
何せ、「右形上がりの成長を知らずに育った世代である。だからか、万事、欲がない」とか「結果をさとり、高望みしない」とかと書かれる世代です。本当に無欲かどうかは別として、或る意味で無欲くらい強いものもありません。私は、3月16日の段階で「所得が低いのに気概も覇気も生まれるのか。よく『今時の若者には覇気がない』と言われますが、過程よりも結果が重視され、失敗すれば大きな責任を、しかもトカゲの尻尾切りのような形で負わされることがわかっていて、合理的な思考を持つ者のうちの誰が上を目指そうとするでしょうか」と記しました。よく考えると、ここには世間体も見栄も関係ないという姿勢が見られますから、世間一般に言われるのとは違う意味でのしたたかさにつながります。ただ、今の段階では十分に姿を現していないだけです。何かの機会に力を発揮し、どうかすれば暴発するかもしれません。
「あきらめの世代」あるいは「諦観の世代」とも表現できる世代は、表現とは逆の強さを秘めている。このように言えるのではないでしょうか。彼らこそが、経済の奴隷となっている我々の現状を、どれほど静かな形であっても確実に掘り崩すことの可能な存在でしょう。徐々に進み、大きな変化を生み出す、新しい姿の革命を担うかもしれません。
「天声人語」は、次のように終えています。
「趨勢として若い世代の考え方は確かに変わりつつあるらしい。バブル時代の狂騒を思えば、真っ当な方向だ。景気回復もいいが、あんな時代に戻りたくない。」
今の段階では、この意見に賛同する、とだけ記しておきましょう。