(以下は、「待合室」の第560回「JR南武線武蔵溝ノ口駅で」として、2014年3月30日から4月6日まで掲載したものです。なお、一部を修正しています。)
2014年3月5日、仕事の関係で甲府市へ行きました。私は川崎市高津区に住んでおり、鉄道を使って甲府市へ行くには武蔵溝ノ口駅から南武線に乗り、終点の立川で中央本線に乗り換える、というルートを使います。
幼い頃から、私は南武線を何度となく利用しています。中学生時代から学部生時代までは通学のために利用していましたし、大東文化大学法学部に移籍してから結婚するまでは通勤路線として利用していました。しかし、最近は年に数回、武蔵溝ノ口から府中本町まで乗る程度です。
電車を待っている間、2番線・3番線ホームで少しばかり撮影したので、今回はその写真を掲載します。
川崎駅から立川駅まで(および、尻手駅から浜川崎駅までの)南武線(他に貨物専用の区間があります)は、川崎市の南北を結ぶ動脈であり、宮前区および麻生区を除く全区を通ります。1927(昭和2)年、南武鉄道として川崎~登戸が開業し、同年に登戸~大丸(現在の南多摩)が、1928(昭和3)年に大丸~屋敷分(現在の分倍河原)、そして1929(昭和4)年に屋敷分~立川が開業しました。1940年、南武鉄道は五日市鉄道(現在の五日市線)を吸収合併しますが、1944年、鉄道路線が国有化されます。その後、南武鉄道は何度か会社名を変更し、現在は太平洋不動産として存続しています。一方、鉄道路線のほうは日本国有鉄道の南武線および五日市線となり、現在はJR東日本の路線となっています。
南武線は、国鉄末期の時代に数少ない黒字路線の一つでした。武蔵小杉駅から武蔵溝ノ口駅までの区間(私が生まれ育ったのもこの区間です)の乗客が非常に多いことが、黒字であった理由の一つでしょう。正直なところ、利便性はいまひとつですが、川崎市になくてはならない路線です。
1989(平成元)年、南武線に205系が投入されました。長らく他路線から移籍した車両ばかりであった南武線に、ようやく新車が投入されたのです。黄色・オレンジ・黒の帯は当初からのもので、後に駅名標などにもこの三色帯が使われるようになっています。
現在の205系は、南武線用として登場した新車の他、山手線から転籍した車両もあります。中間車を先頭車に改造したものがあるため、正面を見ればすぐにわかります。
私鉄買収路線であったためかどうかわかりませんが、既に記したように、南武線には他路線で使用された車両、つまり「お古」ばかりが投入されていました。私が幼かった頃にはチョコレート色ともブドー色ともこげ茶色とも言われる塗装の旧性能車、73系ばかりが走っていました。国鉄最初の新性能車、101系が走り始めたのは1969(昭和44)年で、川崎~登戸だけを走った快速として運行されました。その後、総武本線や京浜東北線から101系が移ってきて、1978(昭和53)に73系が淘汰されます。ちなみに、浜川崎(支)線とも称される尻手~浜川崎では、長きにわたってクモハ11+クハ16という戦前生まれの車両が走り続け、101系に変わったのは1980(昭和55)年のことです〔2002(平成14)年から205系1000番台となっています〕。
しばらく、川崎~立川は101系6両編成のみに統一されていましたが、塗装は統一されず、カナリアイエロー(総武線各駅停車と同じ)が南武線の色であるはずなのに、オレンジ(中央本線快速電車と同じ)の車両もよく見られました。国鉄時代には他の路線でも塗装がバラバラという例がよく見られましたが、南武線はとくに多かったのではないでしょうか。101系か103系かは覚えていないのですが、上の二色の他にスカイブルー(京浜東北線と同じ)やエメラルドグリーン(常磐線快速電車と同じ)まで走っていたこともあります。
1982(昭和57)年、103系の運用が開始されます。これも他路線からの転用です。山手線や京浜東北線などを走った高運転台の先頭車両も所属していました。結局、2004(平成16)年に103系は南武線から完全に姿を消しました。
奥に止まっているのが中間車を先頭車に改造したものです。正面の形が全く違うので容易に区別できます。
現在の南武線では、205系の運用が圧倒的に多いのですが、209系も新車として投入されました。
今年、つまり2014(平成26)年、南武線にE233系8000番台が投入される旨が報じられました。そして、秋、実際にE233系8000番台が走り始めました。10月、仕事で小平へ行った際に乗りました。
新車が投入されたとなると、205系と209系の処遇が気になるところです。今年は横浜線から205系が姿を消していますが、南武線でも同様に205系が撤退することは決まっているようです。そのため、見られるのもあと少しということになります。
武蔵溝ノ口駅周辺は、1990年代後半、再開発事業によって大きく変わりました。もっとも、変化したのは一部であり、西口商店街など、昔ながらの街並みも残っています。上の写真は、新旧の溝口(町名はこのように書きます)を対比できる象徴的なものです。
奥のほうのNOCTYは、まさに再開発事業の結果として誕生したビルです。手前側の、大きな壁のように写っているものがA棟で、「NOCTY ホール」という青字の表示が見える建物がB棟です。マルイが入居していますが、11階と12階は高津市民館となっています。NOCTYが完成するまで、高津市民館は国道246号線沿いにあり(溝口二丁目の外れのほうです)、駅から徒歩で10分以上はかかる場所にありましたが、駅前に移転してきた訳です。
手前の長屋のような低い建物は、再開発よりもはるかに前から存在する建物で、古本屋、理髪店、飲み屋などが入居しています。再開発事業が本格化するまで、駅前にはこのような建物などが多く並び、そこに多くの個人商店が入っていました。南武線の武蔵溝ノ口駅から田園都市線の溝の口駅までの間にはヤストモという「ショッピングセンター」(小売市場という表現のほうが正しいかもしれません)があり、文教堂書店(かつては島崎文教堂といいました)、珍来軒、えんよし、みづほ、石原文具店、八百長商店、スギザキなどがありました。現在、文教堂書店、石原文具店およびスギザキはノクティのA棟にもありますが、他の店はどうしたのでしょうか。私は、大学院生だった5年間に、よく珍来軒で弁当を買っては田園都市線に乗っていました。安くて美味しい弁当だったので、今でも食べたくなる時があります。
乗降客数こそ武蔵小杉駅より少ないのですが、南武線の運行拠点の一つとなっているのが武蔵溝ノ口駅です。おそらく保線基地と思われる施設が、上り線の奥のほうにあります。
NOCTYが建設されたため、駅前の道路なども大きく変わりました。以前は、手前の低い建物に沿ってバス通りがあり、上り線側にしかなかった駅舎を過ぎてから右へ曲がっていました。東急溝の口駅前交差点から栄橋までの道路はなかったのです。しかし、現在、手前の低い建物とノクティA棟との間には一方通行の道路しかなく、バス通りはA棟とB棟との間を抜けていきます。駅は橋の上に移り、駅前には大きなバスターミナルが広がり、その上にペデストリアンデッキが造られました。おかげで、南武線と田園都市線との乗り換えが楽になりました。
なお、武蔵溝ノ口駅は、川崎駅から南武線に乗ると、高津区内に入って最初の駅です。手前の武蔵新城駅は中原区にあり、そこから第三京浜道路に向かって何百メートルかの所で高津区に入るのですが、両駅の間はJR東日本の営業キロによれば、2.2キロメートルほど離れています。これは南武線で2番目の距離であり、登戸駅から中野島駅までと同じです(最も長いのは南多摩駅から府中本町駅までの2.4キロメートルです)。そして、武蔵溝ノ口、津田山、久地の3駅が高津区内の駅です。
もう一度、205系のほうを見てみます。JR東日本の建物ですが、いかなる施設なのかはわかりません。
正確な位置を覚えていませんが、電留線の奥には、たしか日本通運の事務所がありました。貨物を取り扱っていたのです。しかし、鉄道貨物の退潮により、施設はなくなります。私は、幼少の頃、親戚などから国鉄貨物はとにかくサービスが悪くてどうしようもない、という話をよく聞いていました。嘘か本当か知りませんが、遠くの知人がみかんやりんごなどを送ってくれても、半分ほどがなくなったりしていたそうです。誰かが途中で食べたりしたのでしょうか。勿論、宅配なんてしてくれなかったのでした。これでは衰退して当たり前です。
再開発事業というと、NOCTYのある北口(溝口一丁目)のほうばかり目が向きがちですが、南口(久本一丁目)も、とくに道路が大きく変わりました。南武線に沿うように、県道14号鶴見溝ノ口線が通っていましたが、少し離れた場所に移りました。道幅も少々広くなり、渋滞も緩和されたようです。
ところで、溝口、溝ノ口、溝の口と記してきましたが、一体どの表記が正しいのでしょうか。
川崎市の町名あるいは住居表示としては「溝口」が正式のものです。しかし、昔から「溝ノ口」とも書いたようで、たとえば郵便局や銀行の支店名としては「溝ノ口」と書かれます(横浜銀行の支店は「溝口」と書かれていますが)。JRの駅が「武蔵溝ノ口」となっているのは、兵庫県姫路市にある、播但線の溝口(みぞぐち)駅が先に営業を始めていたからである、と言われています。
一方、「溝の口」は東京急行電鉄が1966年に「溝ノ口」から改めたことがきっかけとなった表記であるようです。現在はこちらの表記を採用する例も多くなりつつあります。