ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2010年3月3日および2011年1月3日、溝の口駅

2019年12月29日 11時22分50秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第400回:「東急田園都市線途中下車(8) 溝の口駅(その1)」(2010年3月3日撮影。2011年1月21日〜28日掲載)

 第402回:「東急田園都市線途中下車(8) 溝の口駅(その2)」(2011年1月3日撮影。2011年2月4日〜10日掲載)

 誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 2002年に開始してからおよそ9年、このコーナーも400回目を迎えました。果たして、どなたが読んでおられるのかわからないままなのですが、私の趣味嗜好のままに続けております。どこが登場するのかわかるようなわからないような「待合室」ですが、今後もよろしくお願い申し上げます。

 100の倍数の回数は節目と考えられることが多いようです。それにならうと、第100回(2004年6月)は長崎市、第200回(2008年1月、同年の1回目)は不動前駅、第300回(2009年2月)は太宰府天満宮を取り上げてきました。第400回となる今回、どこを取り上げようかと迷ったのですが、地元を取り上げることにいたしました。

 東急田園都市線途中下車シリーズも8回目となりました。これまで、渋谷からの順番で並べると池尻大橋(3回目)、三軒茶屋(1回目)、桜新町(4回目)、二子新地(6回目)、高津(2回目)、宮崎台(7回目)、そして長津田(5回目)を取り上げています。どうしてもランダムになってしまいますが、気ままに続けたいと考えています。

 さて、今回は、田園都市線で渋谷駅の次に乗降客が多い駅を取り上げます。川崎市高津区の代表駅でもある溝の口駅です。別室1「私の思い出の街・溝口」として、私が大分大学に在職していた時代に取り上げておりますし、その後も何回か登場しているのですが、今や「思い出の街」どころか「生活の根拠の街」となっています。

 その溝口(町名はこのように書きます)は、1990年代の再開発によって駅周辺が大きく変化しました。私は、大学院生時代の5年間、通学のために田園都市線溝の口駅を利用してきましたが、1997年4月に大分市に移しました。その後にノクティなどがオープンし、別の街に来たのかと思ったくらいです。しかし、少し離れると昔ながらの姿が残っています。とくに、西口商店街は、縮小されたとはいえこの何十年かの姿を残し続けています。日本全国広しといえども、焼き鳥屋を兼ねている八百屋さんは溝口の西口商店街にしかないでしょう。

 本来であれば、シリーズの趣旨からして田園都市線の溝の口駅からスタートすべきですが、上の写真はJR南武線の武蔵溝ノ口駅からの写真です。この駅も再開発に伴って大きく変わりました。私が院生であった時代までは、1番線(川崎方面ホーム)の側にしか駅舎がなく、南口(久本1丁目、下作延方面)には出られなかったのです。当時は、改札口から入って右側に1番線(川崎方面ホーム)があり、左側に跨線橋があって2番線(立川方面ホーム)・3番線ホームにつながっている構造でした。ホームが互い違いになっているような構造であったのです。そう言えば、武蔵溝ノ口駅の駅舎のそばに公衆便所があり、夜になると、何故かその公衆便所のそばに屋台のラーメン屋が出ていたことを思い出します。

 現在は橋上駅舎で、2階に改札口があり、田園都市線溝の口駅やノクティとはペデストリアンデッキでつながっています。そのため、乗り換えは楽になりました。武蔵小杉駅は乗り換えに時間がかかって不便ですが、武蔵溝ノ口駅は便利です。

 駅の南側を通るのが県道鶴見溝ノ口線です。かつては手前の道がその県道で、バス通りでもありました。道幅は狭く、渋滞することの多かった通りでした。再開発に伴って、それまではようやく車一台が通ることができるくらいの幅しかなかった奥のほうの道路が拡げられ、そちらが県道となってバスが通るようになりました。県道鶴見溝ノ口線は、その名称の通り鶴見から溝口までの道路です。終点はこの駅の付近ではなく、高津駅付近にある高津交差点で、国道409号線(地元では府中街道と言うほうが通じやすい)と交差します。高津交差点から溝口3丁目を南下し、そのまま2丁目に入って南へ進み続け、南武線の踏切を渡って片町の交差点を左折すると、上の写真の地点に出られます。

 JR武蔵溝ノ口駅は溝口1丁目にありますが、この辺りはかつて溝口の中心とは言い難い部分でした。実際、地図を見ると南の端にあり、手前の道路のあたりまでは溝口ですが、奥の道路(県道鶴見溝ノ口線)は久本1丁目を通っています。

 上の写真の地点から、さらに県道鶴見溝ノ口線を左のほうへ向かいます。そうすると久本2丁目の洗足学園音楽大学に出ます。川崎市内に本拠を置く数少ない大学の一つです。最近では、米良美一、平原綾香といった卒業生を輩出しています。また、洗足学園の幼稚園、小学校、中学校、高校、そして短期大学もこの一角にあります。さらに進み、第三京浜道路の下をくぐると千年(ちとせ)、子母口(しぼくち)、明津(あくつ)と読みづらい地名が続き、中原区に出ます。

 同じく南武線の武蔵溝ノ口駅から、今度は田園都市線の高架のほうを撮影しました。中ほどにある四角いスペースが溝口駅南口バスターミナルで、ここからは川崎市バスのみが発着します。市民プラザ、梶が谷駅、高田町、鷲ヶ峰営業所、聖マリアンナ医科大学、柿生駅、宮前平駅のほうへ向かいます。

 高架の先に片町交差点があり、そこから先は下作延で、高津区役所があります。1980年代までは現在の溝口1丁目、高津合同庁舎のある場所に区役所もありました。

 今度は北口です。南武線武蔵溝ノ口駅と田園都市線溝の口駅を結ぶペデストリアンデッキに、このような案内施設があります。また、ペデストリアンデッキではよく路上演奏が行われています。一度、聴きに行ってみるのもよいでしょう。私も、偶然ではありますが何度か聴いたことがあります。ジャンルも幅広く、渋谷よりもヴァリエイションは豊かであると言えます。

 このペデストリアンデッキの左下にバスターミナルがあります。こちらは川崎市営バスと東急バスが発着しますが、東急バスのほうが多いでしょう。小杉駅方面(高津駅、宮内経由)、川崎駅西口方面、井田営業所方面、向ヶ丘遊園駅方面、そして新横浜駅方面のバスが発着します。また、KSP(かながわサイエンスパーク)へのシャトルバスも出ています。シャトルバスは無料なので、院生時代に時々利用していました。

  かつてはヤストモというショッピングセンターがありました。ショッピングセンターと言っても、現在のものとは違い、それほど大きくない建物の中に店舗が並んでおり、アーケード商店街に近いような形態で、小売市場という表現のほうが適切かもしれません。ここの中ほどにあった珍来軒の弁当が安くて美味しく、院生時代には朝に買って昼に学校で食べたりしたものです。また、西の端に八百長という名前の八百屋さんもありました。他にえんよし(化粧品店)、みずほ(玩具店)、文教堂書店(溝口が発祥の地で、現在も本店はこの駅の近くにあります)、スギザキ(時計店)、石原文具などもありました。

 ここで、「みぞのくち」の表記について述べておきましょう。上を読まれてお気づきかと思いますが、同じ読みなのに表記が異なります。

  まず、JRの駅名は「武蔵溝ノ口」です。旧国名の武蔵が付されるのは、武蔵溝ノ口駅が開業した1927(昭和2)年、兵庫県を走る播但線に「溝口(みぞぐち)」駅があったことによります。南武線は、開業当時は南武鉄道という私鉄の路線でしたが、砂利運搬を目的とする会社であっただけに貨物運送が多く、貨物列車の国鉄路線への直通も考慮されていたのです。

 また、旧来から、地名としても「溝ノ口」の表記が使われていました。もっとも、「溝口」とも書かれていたようで、統一はなされていなかったようです。

 次に、東急の駅名は「溝の口」です。こちらは1927年に玉川電気鉄道溝ノ口線の駅として開業し、長らく「溝ノ口」の表記でしたが、1966(昭和41)年1月20日、現在の「溝の口」に改称されました。東急も、「溝の口」への改称の日までは「ヶ」や「ノ」を使用していたのですが、同日に全て平仮名の「が」や「の」で表記する名称に改められています。「溝の口」(←「溝ノ口」)の他には、自由が丘(←「自由ヶ丘」)、緑が丘(←「緑ヶ丘」)、鵜の木(←「鵜ノ木」)、「旗の台」(←「旗ノ台」)、雪が谷大塚(←「雪ヶ谷大塚」)、久が原(←「久ヶ原」)があります。一方、田園都市線の「溝の口」から中央林間までの間にある駅は、当初から「ヶ」や「ノ」を用いておらず、平仮名表記です(梶が谷、市が尾、藤が丘が該当します)。

 そして、川崎市の住居表示(公式の表記)は溝口です。このため、公的機関などは「溝口」の表記を使用しており、川崎市バスも「溝口駅」と表記しています。時折、郵便などで、住所として「溝の口」と書かれているものを見かけますが、ビル名やマンション名などの固有名詞でない限りは誤りです。

 溝口は1丁目から6丁目まで存在します。区画整理が行き届いていない所なのでわかりにくいのですが、おおむね、次のようになっています。

 1丁目は田園都市線の南側で二ヶ領用水の南側です。JR武蔵溝ノ口駅、ノクティ、高津合同庁舎、溝口中央商店会があり、人通りも多いのですぐにわかります。多くの方が溝口と聞いて湧くイメージは、1丁目のことでしょう。

 2丁目は田園都市線の北側で二ヶ領用水の南側です。東急溝の口駅は2丁目にあります。西口商店街、栄橋交差点、溝口神社、宗隆寺、すくらむ21(男女共同参画センター)があり、国道246号線のほうまで伸びています。

 3丁目は二ヶ領用水の北側、国道409号線の南側です。つまり、二ヶ領用水と国道409号線にはさまれたような形です。帝京大学溝口病院、大山街道ふるさと館などがあります。川崎溝ノ口郵便局も3丁目にあります。この辺りは高津駅のほうが近いでしょう。

 4丁目は、高津駅前(高津駅そのものは二子4丁目にあります)、国道409号線の北側です。高津警察署、高津図書館、高津小学校の所在地です。

 5丁目は、国道409号線の北側で国道246号線の東側にあります。4丁目との境界の辺りは細い道が入り組んでいますので説明しにくい所です。東急バスの高津営業所、トナミ運輸、佐川急便、高津休日急患診療所などがあります。

 そして6丁目は国道246号線の西側にあります。最寄駅は高津か二子新地となります。大正堂、トイザらス、川崎市総合教育センターなどがあります。

 田園都市線溝の口駅周辺の散策は、まだ続きます。

 

 田園都市線溝の口駅は高津区溝口2丁目にあります。この駅の東口とJR南武線の武蔵溝ノ口駅の北口とはペデストリアンデッキでつながっており、乗り換えの利便性は高くなっています。川崎市は、最近、横須賀線・湘南新宿ラインの武蔵小杉駅がオープンしたことを10大ニュースの1つにあげましたが、この駅の乗り換えの不便さは市内で一番ではないかと思われるほどで、南武線から横須賀線・湘南新宿ラインへ乗り換えるのに、待ち時間を含めずに10分は見ておかなければなりません。このため、私は一度も横須賀線・湘南新宿ラインの武蔵小杉駅を利用したことがありません。

 もっとも、溝の口駅・武蔵溝ノ口駅の乗り換えが便利になったのは最近のことです。以前は少し離れておりまして、歩行者しか通ることができず、しかも人通りの多い道路を歩いていくしかなかったのです。さらに悪いことに、JR武蔵溝ノ口駅は、かつて、北口、つまり1番線(川崎方面)ホームの側にしか駅舎がなく、従って、改札口も1か所しかなく(臨時の改札口もあったのですが、それも1番線ホーム側しかなかったのでした)、2番線(立川方面)・3番線(基本的に武蔵溝ノ口止まりの折り返し電車の発着ホーム)からの乗り換えは不便でした。救いは、溝の口駅と武蔵溝ノ口駅との間にヤストモというショッピングセンターがあったことです。これにより、乗り換えの途中の買い物なども楽しめました。

 再開発によって道が広がり、バスターミナルも大きくなり、乗り換えの利便性も高まりました。しかし、私には、再開発によってむしろ溝口の街が衰退しているような気がしてなりません。JR武蔵溝ノ口駅前から田園都市線高津駅方面に伸びる商店街は、距離が少し短くなったのとともに、人通りも少なくなりました。うなぎの大関など、少なくとも沿線やAMラジオでは有名であった店もなくなっています。

 一方、ノクティを訪れる人の数は結構多く(難点は夜、閉まるのが早いことでしょうか。これは昔からの溝口の特徴です)、駅の乗降客も多いのです。田園都市線では渋谷に次ぐ乗降客数となっているのが溝の口駅です。

 溝の口駅の東口です。こちらがバスターミナルやJR武蔵溝ノ口駅との連絡口にもなっています。奥へ進むとみずほ銀行のATMやコインロッカーがあり、さらに西口があります。私が大学院生であった頃には、現在とは全く違う構造で、西口はなく、東口の改札口は1階にありました。私がこの駅を使うようになったのは小学校高学年時代になってからですが(それまで、溝口の街に行ったことがほとんどなかったのです)、今に至るまで何回か構造が変わっているような記憶があります。とくに、当時の改札口の右側にあった店舗はよく変わっていました。一時期、文教堂書店の本店(?)もありました(現在は南武線の沿い、久本3丁目にあります)。

 1月3日にこの駅の構内を通りましたので、右側にある売店はお休みでした。売店の手前にエスカレーターがあり、24時間営業の東急ストアにつながっています。そして、売店の奥が改札口になっています。左側は定期券売り場とテコプラザ(旅行センター)です。また、溝の口駅の梶が谷側には南口もあります。改札口から階段、エスカレーターまたはエレベーターを使って昇ればホームで、1番線が田園都市線の下り(長津田、中央林間方面)、2番線が大井町線の下り(当駅止まり)、3番線が大井町線の上り(当駅始発)、4番線が田園都市線の上り(渋谷、押上、久喜、南栗橋方面)です。

 2010年6月8日(火)付の朝日新聞朝刊28面(第2神奈川)13版に「くらし・経済」の欄があり、そこに「私鉄 東急『一人勝ち』 延伸効果、働き盛り世帯増 09年度輸送実績」という記事が掲載されていました。神奈川県内に路線を持つ大手私鉄(東京急行電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道)の2009年度輸送実績に関する内容で、それによると小田急、京浜急行および相鉄の輸送人員は2008年度より減少しているのですが、東急だけは僅かながら増加したということです。やはり大井町線の延伸効果があったのでしょうか(2009年7月、大井町線が溝の口に戻ってきたのでした)。

 また、溝の口駅は、一日の平均乗降客数が10万人を超える駅(神奈川県内の大手私鉄の駅としては21駅が該当します)のうち、2009年度に乗降客数が増えた数少ない駅の1つです(他には、川崎市内にある小田急小田原線の登戸駅と同線・多摩線の新百合ヶ丘、横浜市内にある東急東横線・目黒線の日吉駅と東横線・みなとみらい線の横浜駅のみ)。

 改札口です。東急は関東の私鉄の中では早くから自動改札機を導入していましたが、この駅での導入はそれほど早くなかったと記憶しています(高津のほうが早かったはずです)。改札口を入ると立ち食い蕎麦屋や1000円理髪店などがあります。

 いつもであれば、とくに朝夕には多くの人が行き交うのですが、正月三が日の昼間はさすがに少ないようです。

 溝の口駅は、田園都市線の急行と準急、大井町線の急行も停車する駅ですが、長らく駅長が置かれていませんでした。私の大学院生時代には二子玉川駅の管理下に置かれていたのです。最近になって溝の口駅にも駅長が配置されて、二子新地駅、高津駅および梶が谷駅も管理しています(これらの駅も二子玉川駅の管理下にありました)。

 さて、溝の口駅から少しばかり歩いてみましょう。東急溝の口駅前交差点に出てから、田園都市線の高架の下を通る道路を進みます。その交差点から栄橋交差点までは、再開発によって誕生した新しい道路です。栄橋交差点を直進すると津田山駅方面、左折すると踏切を越えて高津区役所方面ということになります。我々は右折します。俗称は大山街道、現在の正式名は県道鶴見溝ノ口線を高津交差点方面に進むと、溝口神社の参道が左側に見えてきます。ここで初詣をすることとしました。私も妻も、溝口神社での初詣は初めてです。

 1月3日、短い参道は人であふれていました。大山街道まで行列ができるということはなかったのですが、ここは明治神宮や川崎大師ではないのですから、駅から行列ができるほうが不思議です。あくまでも地元の神社なので、ちょうどよい長さの行列です。

 参拝を済ませました。甘酒(アルコール分はゼロ)がふるまわれており、我々も飲みました。コクがあってなかなか美味いもので、これを無料でいただけるとはありがたいものです。お札や破魔矢が売られている箇所には人が集まるものです。巫女さんはアルバイトかな、などと思うのですが、どうなのでしょう。私が非常勤の仕事で行っている大学では、キャンパスでこのような格好をしている学生をよく見かけます。

 溝口神社のすぐそばです。参道を離れると、ごらんのように静かな住宅街です。田園都市線の沿線というと新しい住宅地というイメージがあるかもしれませんが、溝口は古い街で、住宅地としても古いでしょう。そのためか、古い建物も多く残っています。

  高津区は幅の狭い道が非常に多く、車では通り抜けができないような道もたくさんあります。溝口もそうです。ここは、田園都市線の駅と同じ2丁目なのですが、少し離れただけで雰囲気が駅前とは大きく違ってきます。

 上の写真で、奥のほうに雑木林が見えます。宗隆寺の境内です。このお寺の裏側が丘となっており、国道246号線の切通しを経て、久地駅近くまで続きます。その途中、津田山駅の近くに川崎市の葬祭場(かわさき北部斎苑)があります。現在は川崎区にもかわさき南部斎苑がありますが、それまでは川崎市立の葬祭場は津田山にしかなかったのでした。そのためなのか、下作延は勿論、溝口も葬祭場に多少とも関係のある業者が少なくありません。

 溝口と言えば、二ヶ領用水を忘れてはいけませんが、これについては機会を改めて取り上げます。


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