1.財政民主主義
国民主権(民主主義)の原理からすれば、当然、財政が国民・住民の意思に基づき、国民・住民の利益となるように運営されなければならない。
財政は、本来、行政作用としての内容を有する(憲法第73条第5号、第86条および第87条を参照)。しかし、行政権の恣意的な処理・運営は、国民主権(民主主義)の原理に反する。憲法第83条が「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」と定めるのは、日本国憲法が代表制民主主義を採用することからの、当然の帰結である。
但し、上記は通説によるものであり、その主張に対して、日本国憲法の解釈上、疑義が存在する。財政民主主義は、代表制民主主義を採用する日本において財政国会主義(財政議会主義)として現れる。たしかに、日本国憲法は、予算の作成権限を、国会ではなく、内閣に認めており、予算の執行など、財政の処理権限も内閣などに与えられている。しかし、憲法の諸規定を概観すれば明らかなように、最終的な権限は国会に与えられていることからすれば、財政を単純に行政作用と表現してよいことにはならない。このことは、予算の法的性格に関する議論において、具体的に問題となるであろう。
第83条にいう「財政を処理する権限」は、文字通り、財政に関するあらゆる権限を指す。従って、租税の賦課・徴収など―財政の権力的作用―に限られず、金銭の借り入れ、支出、財産の管理などの権限も含む。また、貨幣制度、貨幣発行をも含むと解されている。
また、ここでいう「国会の議決」には、単なる議決のみならず、法律を定めることなどの意思表示も含まれる。なお、国の支出や債務負担行為については、個別的かつ具体的な意思表示が求められる。
財政民主主義は、憲法における財政関係の諸規定の、まさに根幹をなす。第84条に規定される租税法律主義も財政民主主義からの帰結である。そればかりでなく、次のような規定に生かされている。
(1)第85条(第87条を含む)
第85条は、国費支出行為、国の債務負担行為の全てについて、国会の議決を必要とする旨を定める。国費の支出であれ、債務負担であれ、最終的には国民の負担に帰する点に変わりはない。そこで、このような規定が置かれる。大日本帝国憲法時代にもこの趣旨の原則は存在したが、例外が多く、徹底していなかった。それに対し、日本国憲法では、第87条に規定される予備費以外に例外を認めていない。しかも、予備費の支出については、内閣が事後に国会の承諾を得なければならないとされている(同条第2項)。
憲法第87条第1項は「予見し難い予算の不足に宛てるため、国会の議決に基いて予備費を設け」ることができると規定する。この場合、予備費を設けることについては国会の事前承諾を得なければならない。しかし、この承諾は支出に対するものではない。具体的な手続は財政法第36条に規定される。なお、第87条第2項の事後承諾は、予備費の支出行為に対して何らの法的効果もないと解されている。また、条文には「国会の承諾」と規定されているにもかかわらず、両議院一致の議決は不要と解されている。
(2)第86条
予算の作成権が内閣にあることを示すとともに、予算についての最終的決定権が国会にあることを示す規定である※。これも財政民主主義の一環である。また、会計年度独立の原則(予算単年度主義)、会計統一の原則、総計予算主義、予算事前議決の原則も示される。
※小嶋和司「日本財政制度の比較法史的分析」『憲法と財政制度』(1988年、有斐閣)22頁は、第86条と第83条との矛盾を指摘し、その原因を分析している。また、同「財政―予算議決形式の問題を中心として―」同書184頁、とくに248頁以下を参照されたい。
予算制度の詳細については後に取り上げることとして、ここでは、財政法第14条の2に定められる継続費について述べておく。継続費は、工事や製造など、完成に数年度を要するものへの支出に関する経費である〈但し、実際には、防衛省による大型警備艦の建造などに利用される程度でしかない〉。大日本帝国憲法第68条は、明文で継続費を認めていたが、濫用され、議会の審議権(統制権)が非常に弱められる結果となった。しかし、実際の便宜を考慮すると全く不要とも言い切れないため、財政法に追加されたのである。このことから、杉村章三郎博士は「予算不成立の場合の措置や継続費の存在は現行憲法の下においてもその必要が感ぜられるのであり、この点に何らの規定を設けなかったのは現行憲法の欠陥といえるであろう」と述べる〈杉村章三郎『財政法』〔新版〕(1982年、有斐閣)17頁。槇重博『財政法原論』(1991年、弘文堂)160頁を参照〉。私もこの見解に賛同する。継続費の濫用を戒めるのであれば、むしろ憲法の明文で限界などの基本線を示せばよいのである。
しかし、継続費については違憲説も存在する。憲法第86条が「毎会計年度の予算」と明示しているからである。これに対して、合憲説は、憲法が明文で継続費を否定していないこと、会計年度は必ずしも1年に限られないこと、などを主張している。
合憲説の主張にも難点がある。まず、会計年度は必ずしも1年に限られないというのは、憲法の構造を無視する議論である(第52条、第90条第1項を参照)。また、財政法第14条の2は、継続費について厳格な要件を付し、国会の再審議などを規定するのであるが、継続費の修正には限界があるとも指摘されている〈兵藤広治『財政会計法』(1984年、ぎょうせい)66頁〉。
いずれにせよ、財政こそ、緊急事態を想定した規定を盛り込まなければならないのに、そのような規定が全く存在しないということは、立憲主義、財政民主主義の観点からしても、 日本国憲法が抱える欠陥の一つであるとも評価できよう。
(3)第88条
大日本帝国憲法時代には皇室自律主義がとられた。皇室は、御料地や御料林などの形で自ら莫大な財産を所持し、国から支出される皇室経費も、増額を除いて帝国議会の議決を必要とされていなかった。日本国憲法第88条は、これを根本的に改め、皇室財産を国有化するとともに、皇室経費についても完全に国会の統制下に置くという意味を有する。具体的な事柄については皇室経済法が規定する。なお、この規定は、皇室に私有財産を全く認めないという趣旨ではない。
三種の神器は皇室の私有財産である。また、天皇および皇族も、相続税の納税義務者となる。
(4)第89条
この規定が財政民主主義の一環を示すものであると言いうるか否かについては、おそらく、議論の余地があるものと思われる。しかし、財政民主主義も、元はといえば国民主権原理の一環であり、さらに、基本的人権の尊重という憲法の基本原理と深い関係を有する。その意味において、憲法第20条に規定される政教分離原則を財政の面から担保する第89条は、国会および内閣に対し、財政権限の行使に制約を課する規定である。
この規定で問題となるのが、後段の「公の支配」である。これに属しない慈善、教育、博愛の事業に対する財政支出などが禁止されるが、その趣旨も表現も明確ではないからである。
これについては、私立学校振興助成法や社会福祉法などによる補助(助成)を合憲と解釈するために公費濫用防止説が主張される(この説が通説であろう)。この説によると、公の財産がこれらの私的事業に支出された場合、仮に私的事業の自由に委ねられるとすれば、公共の利益に反する運営が行われるおそれがあるため、補助(助成)をなす限度において、それが不当に利用されることのないように監督することが求められる。すなわち、こうした監督に服しない私的事業に対する公の財産などの支出や利用を禁止する、というのである。
この説明は、橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(1988年、有斐閣)546頁を基にしている。
一方、厳格に解する説として、自主性確保説がある。この説によると、憲法第89条後段に掲げられた私的な慈善、教育、博愛の事業は自主性を有するのであり、これらに対して公権力が干渉することを禁止するというのである。そのため、この説によると、私立学校、社会福祉法人などへの補助(助成)は違憲となる可能性が高くなる。自主性確保説に対しては、前段における宗教と、後段における慈善、教育、博愛とは、国家との分離の程度が異なるという批判がある。
第89条の文言解釈からすれば、自主性確保説が妥当であろう。しかし、この説を採るならば、第25条や第26条の趣旨と矛盾しかねず、結局は生存権や教育を受ける権利などを無にするような結果に導かれかねない。また、憲法第20条第3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定するが、これはあくまでも国(さらに地方公共団体)が主体的に一切の宗教活動をすることに対する禁止規定であり、宗教団体(法人)に対する禁止規定ではない。仮に宗教法人が直に運営する学校法人について自主性確保説の趣旨を実行すれば、第26条、さらには第14条に違反することになりかねない。
公費乱用防止説、自主性確保説のどちらも成立しうるだけに、第89条は趣旨・目的も表現も不明確であり、第86条とともに日本国憲法の欠陥を示すものとみることが最も妥当な解釈であろう。いわゆる護憲派は、この規定についても改正を不要とするのであろうか。そうであるとすれば無責任な見解と評価せざるをえないであろう。
(5)第90条
この規定と第91条は、決算に関する基本原則を定めた規定であり、第90条は会計検査院の根拠規定である。また、会計検査院は、憲法上の機関であるとともに、内閣から完全に独立している行政機関であり、憲法第65条の例外をなす。
決算は法規範性を有しないものとされているが、予算に示された歳入および歳出が適正に行われているか否かを検討することは、財政民主主義の現実化のためにも重要な意義を有する。このため、決算は、閣議決定の後に会計検査院によって検査を受け、その報告とともに国会に提出され、国会の審査を受けることとなる。
(6)第91条
これも財政民主主義を決算の面において具体化させる趣旨の規定である。財政状況公開の原則を示したものと理解されている。なお、この規定では、内閣が「国会及び国民に対し」て定期的に「報告しなければならない」とされているが、主たる対象者は国会より国民であると理解すべきであろう。その意味において、第91条は国民主権原理に由来するものであると考えることもできる。
2.財政民主主義に関する現実の問題
日本の財政制度において、憲法第83条との関係で問題となる制度が存在する。とくに、財政法第3条の規定などは、憲法第83条との関連において重大な問題をはらむ。このため、憲法第83条については後に再び取り上げることになるが、ここでは代表的なものを取り上げ、若干の検討を行う。
(1)財政投融資
国家の第二の予算ともいわれる財政投融資とは「毎年度策定される財政投融資計画に基づき、必要な財政資金を出資や貸付けの形で供給する政府の投融資活動をいう」〈園部逸夫=大森政輔編『新行政法辞典』(1999年、ぎょうせい)405頁[早坂禧子担当]による〉。実際上、運用は財務局財務事務所(省庁再編前は大蔵省理財局)が行っている。投融資先は公社・公団などの特殊法人それ自体、あるいはその特殊法人が行う事業である。財政投融資の原資としては、産業投資特別会計、政府保証債・政府保証借入金という、国家予算の一部を成すものと、資金運用部資金(郵便貯金や厚生年金・国民年金から集めたもの)、簡易生命保険資金という、予算の一部を成さないものがある。予算の一部を成さないものは、租税とは異なることから、国会の議決の対象とはならず、財政投融資計画が、予算審議のために提出される国会の参考資料となるにすぎない。但し、運用期間が5年以上の資金については、予算として国会の議決を経ることとされている。しかし、それも不十分であることが指摘される。
しかし、財政投融資は、事実上、予算の一部として運用されており、これがなければ財政が十分に機能しない。また、運用の実態として、行政機関の意思に委ねられていること(とくに、族議員が裏で働いている場合)、国鉄清算事業団や国有林野事業など、返済困難が予想される分野に融資がなされている、あるいは、なされていたことが、問題としてあげられる。国民の負担増を招く結果となりかねないからである。少なくとも、財政投融資計画自体も国会の議決を必要とすべきであろう。
(2)補助金と「隠れた補助金」
国などが、特定の行政目的・政策目的のため、私人や地方公共団体などに無償の金銭的給付を行うことがある。これを補助金という。補助金の支出自体は予算の一部として国会の議決を経てなされるが、執行については法律の根拠を欠く場合がある。
また、補助金ではないが同様の機能を持つものを「隠れた補助金」という。具体的には、租税特別措置法に定められた租税特別措置をいう。これも、特定の行政目的・政策目的のため、特定の経済部門や個人に対して、租税を軽減・免除する、あるいは特別控除をなすというものであり、特定の企業がこれによって大きな利益を得ている。そのため、そのしわ寄せが一般国民に来るのである。しかも、軽減や免除などの具体的な金額が国会の議決の対象になっていない場合がある。
▲第6版における履歴:2019年11月15日掲載。
▲第5版における履歴:2014年3月3日掲載。
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