椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

2月21日のまち 藤村瞬一 一年祭

2015-02-22 19:39:46 | 藤村瞬一
よく晴れて暖かな一日でした。

主人の命日は2月22日なのですが、一日早くの一年祭となりました。

主人の墓は狭山湖畔霊園の椿峰ニュータウンが見えるところにあります。

「瞬」の一文字を刻んでもらいました。この写真は1月に撮ったものです。


中氷川神社の禰宜の方に祭祀をお願いし、6名が集まって午前11時半から30分ほどの一年祭が行われました。

神主さんに促され、お酒少しとお水をかけたところ、ちょうど光がさして「瞬」の字が浮かび上がりました。
           


今回は夕方に長男の予定があるとのことで、タクシー2台で所沢駅近くへ向かい、所沢パークホテルにある「離宮」での
法事料理をいただきました。寒いときなので温かく、珍しい料理がありがたかったです。
また、靴を脱がないでもよいお店というものがありがたく感じられます。

パークホテル「離宮」は こちら


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ひし餅のお供え

2015-02-19 21:11:13 | 藤村瞬一
クリーニングとお米をお願いしているのですが、自家製の甘くないひし餅がある、というので
購入してみました。  いちかわや米店は こちら


神道なので、主人は小さな信徒檀にお祀りしています。
ひし餅をお供えにしたら、賑やかになりました。



我が家では、男の子2人だったので、ひし餅は縁がなかったのですけれど・・・・


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主人から聞いた話〔5〕

2014-10-11 08:15:54 | 藤村瞬一
主人が亡くなってから、お手紙をいただいたり、いろいろな方にお会いして主人との思い出話を話していただく機会があったりします。

主人が45歳のときに結婚しましたので、それ以前については主人からの話を聞いただけでしたので意外な面を知ることになっております。

夫婦というものは相手のことはよくわからないのではないか、と思ったりします。
対外的に一心同体となるため、その夫婦としての人格みたいなものは自分が見えない?
お互いの欠点は見えすぎるほどであったとしても、などといろいろ考えます。

そもそも主人の考え方は右寄りだったのか左寄りだったのか、がよくわかりません。

主人は朝日新聞社を受験して3次選考までいったのに落ちて産業経済新聞社に入社し
新入社員代表で挨拶したんだとか。
他社の新入社員歓迎会が盛大に行われたと聞いていて、産経新聞社ではあっさりだったので
もっとお酒を飲ませてください、と言ってあとで上司から叱られたとか。

政治部ではなくて編集に回され、見出しをつける仕事をしていたんだそうです。
新聞の見出しのつけ方や配置の仕方などを聞かされました。

特派員の話もあったようですが、辞めようと思っていたころで断ったようです。
主人の勘が働いたのかもしれません。
同じころの方たちが後にニュースで取り沙汰されたりしました。

主人が新聞社を辞めて大学院生であったころ、さまざまな方にお世話になって書くアルバイトをしていたようです。
フリーランス・ライターといったところなんでしょうか。
会社の社史を書く仕事だそうで、日本の現代史を具体的に見つめることになったのではないでしょうか。

左派の方の仕事のお手伝いもしたそうです。
思想的に尊敬していたのだけれど、税金対策の所得隠しに駆り出されそうになった
という話をしておりました。

新婚時代に古い団地に住んでいましたが、左派の学者として高名な江口朴郎先生がお泊りになり
緊張したことを思い出したりします。
大学の会議が長引いて電車に間に合わなかったか、だったと思います。

朝食に生卵を出しましたら、江口先生がかき混ぜるのがよくできなかったのが印象深く思っております。





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広島県倉橋島にて〔4〕

2014-07-19 09:36:46 | 藤村瞬一
倉橋島には、数年前、主人が息子たちと墓参りに出かけており、主人としては
自分の納骨の場合の予行ぐらいのつもりがあったのでしょう。

主人の父が、自分の葬儀の際の名簿を用意し、まだ学生であった主人に誰に頼んだらいいかなど
指示していたようですので、それに倣ったのだと思います。

広島に1泊して、2人の運転で広島からレンタカーで倉橋の本家に出かけました。


納骨祭のあと、本家から8人乗りのタクシーで島の先端にある民宿まで出かけ
海の幸満載の直会(なおらい)をしていただきました。
民宿の2階の部屋の前面に海が広がっていました。
釣りの宿として利用されているそうです。
新鮮なお魚をたっぷりいただきました。









曲がりくねった海沿いの道なので、慣れている方でないと運転がたいへんそうです。
8人乗りのタクシーは高齢の方でも比較的楽そうです。

私の両親と子供たちと一緒に下北半島に出かけたことがあって
そのときも8人乗りのタクシーに乗ったことを思い出しました。

交通安全のキャンペーンをしていたパトカーを追い越した、というのがそのときの思い出です。
夏休み、慣れない道を疲れての運転ではなくて、このようなタクシーを利用することもぜひお考えください。


高齢化社会ではタクシーの利用が柔軟にできることが求められると思います。
狭山湖周辺は足の便が確保されれば、高齢者向きの観光地となりそうです。


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広島県倉橋島にて〔3〕

2014-07-13 19:05:00 | 藤村瞬一
このお宮の造りからしても、倉橋島は古い時代からあって災害にも比較的強いところのようです。


本家の畑にはいろいろな作物が元気に育っていて、キュウリとトマトをいただいて帰りましたが
濃くておいしい味でした。

花も勢いが違います。



主人の父と母はこの島の小学校で共働きの教員として新婚時代を過ごしたとのこと。



主人は子どもの頃、休みのたびに倉橋島に来ていたようで、父親の兄嫁である伯母さんを
母親のように慕っておりました。

鍛冶屋とか船大工の仕事をじっと見ているのが好きだったとか。

こういった島で過ごすことは子どもにとって大切なのではないでしょうか。

共働きということを推奨するのであれば、倉橋島のようなところに仕事の場をつくるとか
あるいは臨海学校のような形にして、専門の指導員のもと、一定期間たくましく育てる場とするとか
そういうことを考えてもいいのではないでしょうか。


海に近い安全なまちというものをぜひとも生かしていくことが必要のように思います。


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広島県倉橋島にて〔2〕

2014-07-09 16:52:22 | 藤村瞬一
本家の皆さんと記念の写真です。
                   

主人の従兄である先代は数年前に亡くなっていて、その奥さんは現在90歳です。

ずっと小学校の教員をされていました。

すばらしい書を書かれる方で、金婚式のときの記念の書だそうです。
                   

                   


現在も自宅の座敷を開放して、ご近所の方たちと大正琴の稽古をされているのだとか。
畑で野菜や花をつくるのが楽しみだそうです。

主人の姉や私の両親と同世代ですが、この方がもっとも元気です。
やはり、イリコなどを含めてお魚がいいのでしょうね。

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広島県倉橋島にて〔1〕

2014-07-08 00:30:53 | 藤村瞬一
主人の納骨のため、広島県呉市の倉橋島に出かけました。
倉橋島については こちら

主人は神戸で生まれて育ちましたが、主人の父親が広島県の倉橋島の出身で
先祖のお墓がそこにあります。

主人の父は三男であったため、神戸に出て小学校教員として暮らした、とのこと。
倉橋島は墓参には遠いので、分骨して所沢にもお墓をつくることにしております。

本家は小学校教員とかあるいは地元企業に勤めながら神職を守っている家系です。
有難いことに、この度は納骨祭の準備を全部してもらうことができました。

あいにくの雨で、テントを用意していただきましたが、しだいに雨が上がってきました。

29代目の本家の当主の方に納骨祭の祭主をつとめていただき、ご家族の方たちにも参列していただきました。

お墓から海が見えます。(曇りがちで海が見えにくいですね)



主人の父は、退職後倉橋に帰るつもりであったようですが、胃がんのため59歳で亡くなったとのことです。
主人が浪人3年ののち、ようやく大学に合格してからまもなく、だったようです。

倉橋で子ども文庫を開くのが夢であったときいたことがあります。


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主人から聞いた話〔4〕

2014-07-03 20:33:48 | 藤村瞬一
太宰治のことを調べていて古本をあれこれ買った中に、生島遼一の著書「蜃気楼」「水中花」などがありました。
関連記事は こちら

生島遼一という人物については こちら

同時代に生きた主人に、生島遼一の本を見せていろいろと聞こうとしたら
この生島遼一先生の授業に出たことがある、と言い出してびっくり。

たしかに生島遼一の経歴の中に、神戸商業大学予科講師、教授 というものがあります。

主人が大学受験の浪人中に、家の近くにあったこの神戸高商に出かけて聴講したんだとか。
当時は比較的自由に学校に出入りできたのだそうです。

先生同士が仲が良く、また授業の内容が充実して、聴いていて実に楽しい時間であったのだそうです。

主人の浪人中とは昭和23年から昭和26年までのようで、勤労動員と広島での原爆を体験した青年にとって、
自由という空気あるいは勉学ができる時間がどれだけありがたいものであったでしょうか。


偶然が重なって、そのころを思い出してもらうことができたのはよかったと思いました。
本を読んでいる顔がほんとうに若く感じられました。

この「水中花」が主人の最期まで傍らにおいてあって、付箋がつけられていたページには以下が書かれています。

・自然科学者ビュフォンが「文章論」を書いて、文章の本質を論じ科学者が真実を発表するためには、文章の的確が最も肝要のことであること を述べたのは誰でも知っていることだ。

・学者や思想家には、明確な立派な文章をもって、立派な論文論説を書いてほしいと望んでいる。これは今日のわが国の文化に関聯して、大へん重要なことのような気がする。日本の今日の不幸を招来した原因の一つに、日本の思想家の思想発表に明確さと鋭さが欠け、いわばアイマイな形象的表現にかくれて純粋な思惟が示されなかったこと、国民がそういう思惟の弱さをはっきり見定めなかったことも数えねばなるまいと思うが、人生では文章のことも、ビュフォンのいうように、ないがしろにはできない問題なのである。




主人がこの部分に付箋をつけていたということは、学者として書く時間があると思っていたのかもしれません。

主人の机には見出しを付けたまだ中身のないファイルが並び、押し入れの引き出しには新しい原稿用紙がたくさん
残されています。



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主人から聞いた話〔3〕

2014-06-09 19:00:30 | 藤村瞬一
育ち盛りのころに食糧不足であったため、慢性的に空腹をかかえていたようでした。
両親とも小学校教師で、闇の物資にはなかなか手が出なかったとか。
広島の親せきでは米や野菜をつくっていたようですが、そちらも子だくさんで
たいへんだったようです。
今でいう家庭菜園をつくってみても、カボチャなどできたものが盗まれてしまうのだとか。

主人の父親のアイデアで空腹を満たすためたくさんのフダン菜を水炊きにして油を落としたりして食べたのだそうです。

私は北国育ちなのでホッケなどが好物なんですが、主人は戦争中、北からの魚で臭いがするものが
配給になったせいであまり食べたくないようでした。
当時は今のような冷蔵・冷凍での輸送ではなかったでしょうからね。

銭湯などで靴が無くなるのは日常茶飯事であったとか。
また、気の毒だということで友人の友人みたいな人を泊めたりすると
金品を盗まれて、恩をあだで返すという話もあったんだそうです。


戦争中、軍との商売で儲けた人たちは、戦後も闇で大儲けしたということのようで
戦争ですべて変わった、ということではないようです。


ただ、主人の場合、子どものときのひどいアレルギー体質が改善されたとのことで
空腹ということがアレルギー体質改善に役立つのかもしれません。



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主人から聞いた話〔2〕 つづき

2014-06-01 23:50:28 | 藤村瞬一
八月六日の記録の続きです。

一、九時、山下帰寮。(注 記録者である山下教官のこと)
 二年生ハ、宣誓署名場ニテ防空幕ヲ下シアリシ為メ、幸ニガラス飛散ニヨル怪我人ナシ。
 二年二井谷ト食堂ニ食事中ノ一年生某、脚部若クハ背部ニガラスヲ指シ者アリシノミ。(注 刺サリシ のまちがいか)
一、十時頃、一般罹災者ト共ニ顔面・胸部ヲ真赤ニヤケドシ、殆ンド裸体トナリシ広高生、広島方面ヨリ歩イテ帰ヘリ来タレリヲ迎フ。
 全身ノヤケドニヒルマズ、寮歌ヲ高唱シ帰ヘリ来タレリモアリ、悲惨。
一、直チニ舎監室ヲ臨時救護所トシ、救援ニ当ル。教官住宅ニモ五名収容。
一、岡村啓一、重傷ニテ友人四人ニ車ニ乗セラレテ帰ヘル。気力ハ旺盛。岡村ハ寮、三寮ノ部屋ニ収容ス。
一、正午近キ頃迄ニ十数名負傷帰寮。
一、十一時、二十名ノ迎ヘノ生徒(栗栖班長)ヲ広島ニ派遣ス。
一、午後二時迄ニ帰ヘレル者、二五名ナリ。
 
・・・・・

一、岡村啓一、昼間経過良好ナリシモ、夜ニ入リ尿出デズ。膀胱ニ管ヲ通シタル処、血液ノミ出ズ。
・・・・・ 残念ナガラ深夜ノ来診医師ナシ。
山下・西川・三野・岩政ソノ外一ネン二名バカリニテ徹夜ノ看病ニ当リ、夜明ノ約束ノ医博ノ来診ヲ待ツ。


八月七日(火)晴
一、午前六時、山下更ニ工場病院ニ行キ催促。七時、医師来診。
 梁ノ打撲ニヨリ腎臓破裂、脊髄モ打チ手術モ甲斐ナシト、昨夜ヨリ強心剤ノミ打続ク。
一、午前八時十三分、岡村啓一、手当ノ甲斐ナク遂ニ逝ク。
 直チニ弘重外一名ヲシテ柳井ノ岡村宅に急報セシム。
以下略


八月二十三日現在、死亡十七名、行方不明五名とあります。


主人の友人であるTさんにいろいろとメールで伺ってみました。
以下がその一部です。


まず入学式の出席人数ですが、全く分かりません。私自身は当時神戸市に住んでいましたが、
直前に神戸の空襲で自宅は焼夷弾で全焼し、B29の機銃掃射の中を逃げ惑い、兵庫県西宮市の祖母の家に避難し、やっとの思いで入学式に間に合ったのですが、当時は同じような経験をした仲間が結構いたと思いますから、全員が入学式に出られたとは思えません。
高校へ入学したという感動、抱負なども全く記憶にありません。

入学はしたものの、広島市の校舎には入れず、山陽本線の向洋(広島駅の一つ手前。かつてご主人が訪ねてみたら昔の面影は何もなかったという手紙をもらったことがあります。)
近くにある日本製鋼所に動員され、高射砲製造の手伝いをしましたが、既に必要な金属材料が入って来ず、やるべき作業がない日も多かったような記憶があります。中学校時代の動員では神戸の工場で爆弾を作っていましたが、そのときは一日中作業が続き疲れ果てたものですが、それに比べて作業は暇で、工場内で遊んでいるときもありました。なお、クラスによって工場が違いましたので、ご主人がどういう作業に従事したかは分かりません。

動員のない日は工場の近くの(あるいは工場内であったかもしれません)仮校舎で授業を受けました。授業がどの程度あったかは記憶していません。語学の授業にドイツ語があり、初めてドイツ語に触れ、当時ドイツとは同盟を結んでいたこともあったのでしょう、
熱心に勉強しました。それがその後もドイツ語を学び続けるきっかけになったと思います。当時は全寮制で、全員が寮に入ったと思いますが、部屋は違いましたがご主人と同じ寮で暮らすことになったのが最初の出会いです。ご主人は文系、私は理系で専攻は違っていました。

8月6日の日は授業、工場共に休みで、日頃の絶え間ない空腹を満たそうと、友人と広島市へ何かうまいものを食いに行こうと出かける予定だったのですが、たまたま私たちの寮だけ寮を監督する上級生の指導があることになり、広島市に行くことは断念せざるを得ず、これが原爆に遭わずに済んだことになるのですが、休みで広島市へ出かけた多くの寮生が被爆しました。広島市へ出かけていれば、爆心地近くへ行く予定だったので、運命を感じます。

8月6日、部屋で順番を待っていたとき、突然強烈な爆発音が聞こえ、外に飛び出したのですが、広島市の方向に例のキノコ雲がもくもくと吹き上がってくるのを見ましたが、何ものか当時は全く分かりませんでした。それから数時間後に、全身真っ黒になり、皮膚が体から大きく垂れ下がった瀕死の重傷者が大八車などに乗せられてぞくぞく到着、寮は仮救護所になりました。

被爆の2日後に行方不明の寮生の捜索に仲間2人と広島市に入りましたが、探し出すことは到底不可能でした。その後私は広島市の壊れた広高校舎で寝泊まりして、先生方の被爆した自宅の整理の手助けをすることになりましたが、先に収容された負傷者もそれぞれ病院や自宅に引き取られ、他の寮生も取り敢えず自宅に帰省することになったようですが、その場には居合わせていませんでしたので具体的なことは分かりません。

8月15日の終戦日を私は広島市の壊れた校舎の一室で残られた先生方と放送を聞きました。雑音が多くはっきり聞き取れず、何を言っているのかよく分かりませんでしたが、戦争が終わったということを感じました。



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