前回からの続き...。
小田部さんが「アルプスの少女ハイジ」の一件で、森康二さんへの悔恨の気持ちを述べた後、なみきさん待ってましたとばかり、いたずらっぽい表情を浮かべ、森さんの本「もぐらノート」を取り出し、その中の一文である小田部さんへのメッセージを読み上げます。
「私は今でも『ハイジ』のフィルムを見るとつい涙が出てきてしまいます。ハイジのほっぺやお尻を突くときっとポヨンポヨンするだろうなと想うのです。でも悲しいことに小田部さんはアニメーションから手を引かれ、ファミコンの会社に行ってしまいました。<中略>小田部さん、またアニメに戻ってこいよ!」
ここからテーマは小田部さんご自身のゲーム業界転身の経緯となります。
なみきさんから一撃をくらった小田部さん(^_^;、その言葉に「う〜む...」と唸りつつ、お話しを続けます。
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その頃(80年代あたりですね)のアニメーションは本当につまらなかった。フリーになっていて作画を引き受けたりしていたが、どんどん動かさなくて良いんだという作品ばかりになって仕事が面白くないと想っていたところに、東映動画時代・同期の池田宏さんが任天堂でマリオを開発する部署の部長になっていた。池田さんからゲームはこれからアニメーションに近づき、そのノウハウが必要になるから来てくれないかと誘われた。ゲームの事は何も知らなかったが、何か役に立つなるならと任天堂に行ってみて、マリオのゲームも始めて見て「なんだ!?面白い!!」と思ってしまった。
動きもあるし、あんな小さいものなのにキャラクターを感じられた。背景にも広さや深さも。アニメのことなど知らない人たちなのに細かい動きをつけようとしていて、ここだったら役に立てるかなと...。
その後、マリオはどんどん人気が出て、キャラクター設計も...ディズニーの影響を受けたゲームデザイナーがいて、「マリオは何をやっても良いが、人殺しだけはやらないでほしい」と言われ、あぁなるほどと思い、色々描いて選んでもらった。
最初は2年くらいかなぁと思ってたら、21年もやっていた。面白いし、楽だった。その内に3Dの時代になり自分でもやってみようと思ったが、制約も多いので自分ではやらない方が良いと言われ、それならと口だけ出す役に徹した。そしたら21年にもなっていた。
みんなからアニメに戻ってこいよと言われたが、未練のある作品もないし、そういう自分の気持ちを分かっていたジブリも呼んでくれなかった。
でも任天堂に行って良かったと思う。長生きも出来たし、楽しかったから。
アニメをやっている頃、監督というものはアニメーターの生き血を吸って生きていると言われていた(笑)
だから自分みたいなウルサイのはいらないやって思われたんじゃないかと...。
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この話しは私にとっても身につまされるお話しでした(´д`)
その経緯も立場も小田部さんとは全く違いますけど、80年代のアニメに希望を持てなくなっていて、新興のゲーム業界に託す気持ち...私も同じでしたね。ここなら居場所があり、表現を発展させていく成長と大きな希望があったんです。
この後再び、今回の森さんについてのトーク締めくくりのまとめへと。
次回に続きます。
小田部さんが「アルプスの少女ハイジ」の一件で、森康二さんへの悔恨の気持ちを述べた後、なみきさん待ってましたとばかり、いたずらっぽい表情を浮かべ、森さんの本「もぐらノート」を取り出し、その中の一文である小田部さんへのメッセージを読み上げます。
「私は今でも『ハイジ』のフィルムを見るとつい涙が出てきてしまいます。ハイジのほっぺやお尻を突くときっとポヨンポヨンするだろうなと想うのです。でも悲しいことに小田部さんはアニメーションから手を引かれ、ファミコンの会社に行ってしまいました。<中略>小田部さん、またアニメに戻ってこいよ!」
ここからテーマは小田部さんご自身のゲーム業界転身の経緯となります。
なみきさんから一撃をくらった小田部さん(^_^;、その言葉に「う〜む...」と唸りつつ、お話しを続けます。
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その頃(80年代あたりですね)のアニメーションは本当につまらなかった。フリーになっていて作画を引き受けたりしていたが、どんどん動かさなくて良いんだという作品ばかりになって仕事が面白くないと想っていたところに、東映動画時代・同期の池田宏さんが任天堂でマリオを開発する部署の部長になっていた。池田さんからゲームはこれからアニメーションに近づき、そのノウハウが必要になるから来てくれないかと誘われた。ゲームの事は何も知らなかったが、何か役に立つなるならと任天堂に行ってみて、マリオのゲームも始めて見て「なんだ!?面白い!!」と思ってしまった。
動きもあるし、あんな小さいものなのにキャラクターを感じられた。背景にも広さや深さも。アニメのことなど知らない人たちなのに細かい動きをつけようとしていて、ここだったら役に立てるかなと...。
その後、マリオはどんどん人気が出て、キャラクター設計も...ディズニーの影響を受けたゲームデザイナーがいて、「マリオは何をやっても良いが、人殺しだけはやらないでほしい」と言われ、あぁなるほどと思い、色々描いて選んでもらった。
最初は2年くらいかなぁと思ってたら、21年もやっていた。面白いし、楽だった。その内に3Dの時代になり自分でもやってみようと思ったが、制約も多いので自分ではやらない方が良いと言われ、それならと口だけ出す役に徹した。そしたら21年にもなっていた。
みんなからアニメに戻ってこいよと言われたが、未練のある作品もないし、そういう自分の気持ちを分かっていたジブリも呼んでくれなかった。
でも任天堂に行って良かったと思う。長生きも出来たし、楽しかったから。
アニメをやっている頃、監督というものはアニメーターの生き血を吸って生きていると言われていた(笑)
だから自分みたいなウルサイのはいらないやって思われたんじゃないかと...。
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この話しは私にとっても身につまされるお話しでした(´д`)
その経緯も立場も小田部さんとは全く違いますけど、80年代のアニメに希望を持てなくなっていて、新興のゲーム業界に託す気持ち...私も同じでしたね。ここなら居場所があり、表現を発展させていく成長と大きな希望があったんです。
この後再び、今回の森さんについてのトーク締めくくりのまとめへと。
次回に続きます。