エルソル飛脚ブログ ~Run 4 Fun~

四万十川周辺をチョロチョロしている飛脚の記録です。

カッパとキレジ

2023年01月24日 | 思い出

「久しぶり!ヒロトのお母さんの湯布院の宿はZENで合ってる?」

「久しぶり!ZENは姉さんのところです」

SNSのメッセージとはいえ、まともに連絡を取り合ったのはどれぐらいぶりだろう・・・。

私には幼馴染がいる。

3軒隣のフジさんは幼稚園からの友達で、

通りの向かいの病院の息子ヒロトと、その隣りで同じく病院の息子ヒサノッチは小学生からの友達。

幼馴染達はそれぞれ勉強が良く出来て、中学高校あたりから高知市内の進学校へと進んだ。

その後ヒロトは東大に合格して、私は就職で同じ東京で再会したりと、

ヒロトは大人になってからも交流のある親友でもある。

小学校の5・6年は同じクラスで、徒歩通学の行き帰りはいつもヒロトと一緒だった。

運動が苦手だが、頭が良くて明朗活発。

通学では、くだらないダジャレを楽しそうに披露しては私の顔を覗き込んだ。

ヒロトの家は立派な屋敷で、石段を少し上がった門のインターホンを押すと、

お手伝いさんから「家庭教師の日だから遊べません」とよく言われたものだった。

遊べる日は、プッチとリリーという2匹の白いプードル犬に吠えられながら家に上がり込んだ。

通路で繋がっている病院には、お母さんが描かれた大きな油絵がたくさんあった。

ヒロトのお母さんは、くせ毛のショートカットが似合う色白の美人さんで、

いつも姿勢の良い上品な人だった。

サラサラな直毛のヒロトの散髪は、そんなお母さんの愛情たっぷりなセルフカット。

しかし、前髪を一直線に揃えたオカッパ刈のせいで、いじめっ子からは「カッパ」とあだ名が付いた。

一方、私はというと母がやっていた美容院の息子。

美容院の名前はリラ、当然最初のあだ名はリラだった。

リラ先生と呼ばれる母は、たいして綺麗好きなわけではないが、

小学生の私の半ズボンのポケットにハンカチを入れ続けた。

それがいじめっこ達の目に留まり、「綺麗好き」から変に縮められて「キレジ」というあだ名が付いた。

「カッパ」と「キレジ」。

ある日、学校からの帰り道がいじめっ子達と一緒になった。

「カッパ」「カッパ」と大声で連呼するいじめっ子達、

カッパはきちんと「やめて」と言葉に出して意思表示するが、相手の反応を楽しむという目的がある連中は止めるはずがない。

下を向き、耐える事を決め込んだカッパ、

面白くないいじめっ子達は、目的を「泣かすこと」に変えた。

「おいキレジ!お前もカッパ言えー!」

逆らう勇気なく、一緒になって連呼に加わってしまった。

唇を噛み、涙を浮かべて耐え続けるカッパ。

いじめっ子達と別れてからは二人無言で歩いた。

私の家を通り過ぎ、気になった私はその先までついて行った。

ヒロトは家に帰るなりお母さんのもとで泣き始めた。

あらかたの事情を説明した私に、お母さんは険しい顔で言った。

「ジュンくん、あなただけはヒロトを守ってあげて」

守る、友達を守る、守れなかった、守らなかった、

初めての感情に涙ぐみながら家まで帰った。

小学生の時のそんな罪悪感を心の奥でしまっている。

いや、罪悪感の一つや二つはだれにでもあるだろう、

私は「あなただけは・・」と大切な事に気付かせてくれたその一言にひそかに感謝しているのだ。

~ キレジより ~

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余談、

この記事を書くにあたって昔の写真を探してみたが、男同士の写真なんて数枚しか見当たらなかった。

小学生の冬休み、家族でスキーするから一緒にどう?と誘われた行先はカナダだった。
(ウチの母が丁重にお断りした)

中学の夏休み、病院のパソコンでゲームっぽいことが出来ることに気付き、
キレジ「遊ぼう!」、カッパ「いや、作ろう!」
一ヶ月かけてプログラムを打ち込んでシーソーのようなワケワカランもんが出来上がった。

高校の頃、キレジは原田知世が好きで、カッパは柏原芳恵が好きだった。

カッパが東大生の頃、仕入れた裏ビデオを興奮気味に鑑賞させると「これが大〇唇でこれが小〇唇か~」と期待と違った冷静すぎる反応に、キレジは停止ボタンを押してしばらく無言になった。

二十歳になり、カッパに初めて飲ませた酒で吐きまくって、翌朝「二日酔いの特効薬を作る」という宣言をした。

カッパ「風邪の特効薬を作る」「エイズの特効薬を作る」
キレジ「おう天才、頼んだぞ」

「カッパとキレジ」

この後、

カッパは頭のてっぺんだけが禿げ上がり本当のカッパに、

キレジはマラソンの練習しすぎて本当のキレジ(切れ痔)になったとさ。

めでたしめでたし・・・ちゃうかーーー(笑)

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お別れと春の訪れ

2014年03月03日 | 思い出

ある地区の長老がお亡くなりになったことを地域の広報誌で知りました。

長老は私の接客業の顧客であり、
当然顧客の中でも最年長であって、孫ほど歳が離れていた私を随分可愛がってくれたものです。

街から車で15分、四万十川を上った地区のご自宅を訪ねました。
四万十ウルトラで走るコースでもあり、この辺の土地勘は十二分にあります。

風の強いこの地区は見晴らしが良く、
今日のような陽気はなおさら空気が暖かく感じられました。

初めて訪れたご自宅は高台の日当りのいいお家でした。
綺麗には舗装されていない急斜面を上りました。

上りながら高齢のご夫妻が長寿である理由がこの坂道にあることを確信しました。
やはり人間は足腰。
毎日こんな坂を上り下りして畑仕事をしていたご夫婦の足腰は、相当に鍛えられたものでしょう。

長老の爺さんは大きいスイカを作る名人でもありました。
自分の親父も小さい畑でスイカを作っていましたが、
初年度に偶然上手く出来たスイカをその後に上回ることは出来ませんでした。
長老のスイカは毎年安定して大きくて美味しいもので、やはりプロでした。

顧客であった長老は、晩年は少し認知症を発症してしまいましたが、
「戦争の話」と「幼い頃近所の少女が溺れていたのを助けた話」や、
「四万十川の鮎が昔はとても大きくてたくさんいた話」をするときはとても活き活きしていて、
一から十まできれいにお話の出来るとても頭のいいお方でした。

去年の暮れに街の病院を訪ねた際、
私の励ましの声に対して綺麗な「OKサイン」を指で作って笑ってくれたのが最後になってしまいました。

高台のご自宅は日当りも良く、
私よりも随分年配の娘さんに丁重に迎え入れられまして、
既に遺骨となった長老に手を合わさせて頂きました。

帰りの車の中で、長老がよく言っていた言葉を思い出しました。

「私はあのトンネルをくぐった後のあの景色が四万十川の中で一番好きです」

トンネルをくぐり四万十川に目をやると、
穏やかに流れる四万十川の傍に綺麗な菜の花が咲いていました。



長老が好きだった景色のある場所は偶然にも私のお袋の里でもあり、
3年前に死んだお袋も愛した景色でもあるでしょう。

思わず菜の花に近寄ってみると、最近では珍しい小さなツクシが頭を出していました。
「春の訪れ」です。

長老からすると私なんかこんなツクシのようなもんでしょう・・
(こんなに可愛くもないですが・・)

ご冥福をお祈りします。


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サヨナラ「太陽舘」

2013年11月12日 | 思い出

「第1回四万十おきゃく映画祭」。
「映画の館ない町に映画際を・・」、ということで昨日中村文化センターに映画を見に行ってきました。

上映後には役者さん達の舞台挨拶もあり、
「映画という文化に触れられないということは寂しいこと」
「是非みなさんの力で市のほうに働きかけを・・」
という俳優井浦新さんのお言葉もありました。

「映画館もない町」、
高知県西部幡多地方では10年前の「中村太陽舘の閉館」を最後に映画館を失ってしまいました。

自分達が学生だった頃、
「太陽舘」は数少ない娯楽の中心であり、貴重なデートスポットでもありました。

学校近くで学割前売り券を配ってくれていたおばさん。
独特の字体で手書きの大きな看板を映画館に掲げていたおじさん。
「昭和の匂いがする」太陽舘。

実は今でも密かに「太陽舘復活」を期待していましたが・・、
先日、残念ながら館長沢田さん(87歳)が老衰でお亡くなりになったそうです。

大型テレビの登場、DVDによるレンタルの普及、若者の映画離れ。
自分達が高校生時代にまだ元気があった太陽舘でしたが、
10数年後に都会から帰ってきた時にはもう随分寂れた感じでした。

約5年前、あるSNSに「閉館数年後」に書いた太陽舘の思い出についての記録があるので、
追悼の気持ちを込めて紹介させていただきます・・

~~~「太陽舘の思い出」~~~

大阪から帰って間もない頃、
まだ保育園児だった子供達を連れて当時人気の「千と千尋の神隠し」を観に行きました。

午後の上映がPM4:10~だったので、夕方自転車に3人乗りで急ぎました。
とりあえず着いて中に入ると・・真っ暗で誰もいない。

「休みやろうかね~?」と立ちすくんでいると、外から太陽舘のおばさんが現れました。
「あ、映画観に来てくれた?」
「今おじいさん呼んでくるけん、そこに座って待ちよって」

待合ソファーに腰を降ろすとすぐ横には懐かしの「瓶ジュースの自販機」
再び現れたおばさんが
「もうすぐやるけん中に入って待ちよってね~」

劇場の中は誰も居なくて真っ暗。
「誰もおらんけん好きなトコロで観てええぞー!」
父の号令で子供達は迷わず最前列めがけて突進!
自分は映画が一番観やすい中央へ・・。

勢いよく座席に座ると、「痛っ!」
どうやらシートが裂けてスプリングが飛び出していたらしく、あえなく1つ前の席へ移動・・
今度は手でしっかりと確かめてから着席。

暗闇に目が慣れてくると周りがよく見え始めました。
スクリーンのある舞台上には(会議などでよく使う)長テーブルが幾つも乱暴に置かれており、
もう確実に閉館が近づいている事を感じ取れました。

とはいえよく見ると懐かしい光景の数々・・
・座席の前方3列は「木のベンチイス」
・左手には「売店コーナー」(何と劇場内にあったんですね~)

「確か2階には畳コーナーがあったような・・」などと思っていると、
どうやらおじいさんが現れたらしく、
「コツ、コツ、コツ・・」と階段を登る足音。
そして何と!
「そろそろ、い~ですかぁ~?」と掛け声が・・
「???」
辺りを見回しても当然自分達しか居ない訳で、戸惑いながら・・
「ぉ、おねがいします~~!」
その声を確認してから「パッ」とスクリーンに映り始め、無事映画がスタートしました。

「これはスゴイぞ!生まれて初めての映画館貸し切りや!」と興奮しました。

ちょうどスクリーンに「顔なし」が現れた頃、
背後から「ぬぅ~」っと「本物の顔なし」・・ではなくおばさんが現れ、
「あのぅ・・お代のほう頂いてよろしいでしょうか?」
「ああ、そうか、まだ払ってなかった・・」と財布を覗いていると、
「お菓子もあるよ~!!」と子供達に誘い水。
・・人生で最高値のポッキーを買わされました。

映画が終わると保育園児特有の大袈裟な拍手が館内に響き渡りました。
 
出口ではおばさんが快心の笑顔でお見送りしてくれました。

「よかったです!今度また来ます!!」

それから少しして、残念ながら「太陽舘」は閉館となりました。
                         ~~~太陽舘の思い出~~~


まるで「四万十映画祭」の開催に安心したかのように天国にいかれたご主人。
ご苦労様でした。ありがとうございました。

そして本当に「サヨナラ太陽舘」・・・

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