予期せぬ劇症肝炎、そして生体肝移植からの壮絶脱出劇!
がんばれ!肝臓くん。。
メールのチカラ
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<・・・一年前>
・・・2005.11月下旬~
移植手術後、しばらくは携帯電話を与えられなかった。
持っていたとしても使えなかったのもあるが、とにかく外と連絡が取れないので、
脳症のせいで被害妄想の時など、「家が地震の被害にあったのに連絡が取れない」
と言って騒いで看護婦さんを困らせたりしていた。
字を書く事と同様に、手先の細かい作業がとにかく辛かった。
手の震えが止まっていなかったし、目の焦点も定まらない。
連絡したい時にできないものだから、かなりストレスを感じていた。
そんな状況なものだから、肝性脳症が薄れ、自己判断がある程度できる様になり、
妻から携帯電話を与えられた時はうれしかった。
今や当たり前の事が、その時はものすごくうれしかった。
病院なので、使用できる場所と時間は決められているのだが、皆メールはOKと
いう感じで、最低限のマナーは守りつつ、病室で使っていた。
(本当は病室ではメールも禁止なのだが)
検査の無い時、回診の無い時は皆ひまだ。
時々看護士さんがやってくるくらい。
しかも夜になるにしたがって、皆寂しさや不安感が募ってくる。
そんな時、メールのやり取りはとても大切な時間となるのだ。
携帯電話を手にして以来、妻や友人と何度メールをやり取りしたかわからない。
少なくとも自分にとって最大の武器だった。
言葉で伝えられないことが、メールで、文字で、伝えられることがある。
そういう意味では、ブログなんかも同じようなものだと思う。
このブログは、2度目の手術の2週間程前に始めたのだが、ブログを通じて自分
を客観的に見る事ができた。
嫌で嫌でたまらなかった手術を冷静に乗り切ることができたのも、ブログの力が
かなり大きかったと思う。
そして今、こうしてブログを発信し続けることが、自分の為になり、病気と前向
きに向き合うことのチカラになっている。
・・・励ましのメールや報告のメール、涙で打った落胆のメール、必ず元気付けて
くれた妻からのメール、叱咤激励のメール、たまには”喝”!!のメール、
妻とのメールのやり取りで、携帯電話の容量はすぐに一杯になった。
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