なんだか舌足らずのような気がするので、もう一言付け加えてから寝ます。
(風邪が完治していないので、考えもいささか朦朧としてるんですが)
「福島に届く言葉で」
と書いた。
それは支援しろとか同情しろとか補償しろとかいうベクトルではない(当たり前ですが)。
そうじゃなくて、福島で起こっていることを踏まえて「思考」し「哲学」しなければ、3/11以後の言説は立てられないのではないか?と感じている、という意味だ。
福島の中にだって、「福島」に届かない言葉を喋る人は沢山いる。
私の言葉にしたところで、どこまで「福島」に届いているのか疑問といえば疑問だ。
だが、ここで「今」起こっている、収束しない原発事故の現状はあきらかに
「日本の今の経済的豊かさを守るために原発は必要だ」
という主張の偏りと限界を指し示し続けるだろう。
少なくても、他国の戦争や、地方の抑圧、有形無形の植民地化の動きによって、「経済的豊かさ」は再生産されてきたことは疑いない。私達日本人全てがそのシステムの中で相対的な「富」を手にしてきたわけだから。
この事故以後を福島で生きていると、軍事上の課題を背負った沖縄と、経済上の課題を背負った福島原発が、日本の安全と豊かさのために「機能」し続けていたのだ、ということがようやく身に沁みて理解できるようになってきた。
私達は、そういう支配-被支配の構造から脱却した方がよいのではないか?
その可能性がわずかでもあるなら、追求するべきなのではないか?
鳩山さんと菅さんが、沖縄問題と原発問題をぐちゃぐちゃにした、とマスコミは報じ続けてきた。
でもこれは日本が抱えていた国内における「植民地支配」の問題なんだよね。
宰相個人ごときが短期間で解決できる規模の問題じゃないんだと思う。
じゃあ誰が解決できるの?
あり得ないように思えるかもしれないけれど、国民一人一人の選択が変化を生むのだ、と思う。
少なくても、そこを行動の根っこに持つことが大切かと。
日本の軍事的防衛問題に、アメリカ軍と沖縄基地が深く関わっていることに気づいていなかった日本人なんているはずがないし、原発が危険だけれども首都圏に電気を供給しつづけるために地方にリスクを背負わせていた現実、を、全く知らなかった日本人なんてそんなに数が多いとは思わないよ。
つまりさ、私達は
「限定された世界が都合良く回り続ける」
ために、大きなリスクに目をつぶることがとても上手だった、ということが、政権交代であられもなく露呈してしまった、のではないだろうか。
最近喧しく言われる記者クラブの弊害についても、同じことが言える。
その場を上手く回すためには、記事が偏った挙げ句に均質になっても構わないという「心性」がそこに機能し続けてしまうんだよね、たぶん。
今必要なのは、偏っていても、不均質でも、開かれた耳と目を持ちつつきちんと自分の主張をし続ける「思考の強度」なんじゃないかな。
それは一つの政策について賛成か反対か、という立場よりもずっと重要な気がする。
「思考の強度」を鍛える道はこれはこれでいろいろあるのかもしれないけれど、やっぱり「哲学」していくことに尽きるんじゃないかしら。
(風邪が完治していないので、考えもいささか朦朧としてるんですが)
「福島に届く言葉で」
と書いた。
それは支援しろとか同情しろとか補償しろとかいうベクトルではない(当たり前ですが)。
そうじゃなくて、福島で起こっていることを踏まえて「思考」し「哲学」しなければ、3/11以後の言説は立てられないのではないか?と感じている、という意味だ。
福島の中にだって、「福島」に届かない言葉を喋る人は沢山いる。
私の言葉にしたところで、どこまで「福島」に届いているのか疑問といえば疑問だ。
だが、ここで「今」起こっている、収束しない原発事故の現状はあきらかに
「日本の今の経済的豊かさを守るために原発は必要だ」
という主張の偏りと限界を指し示し続けるだろう。
少なくても、他国の戦争や、地方の抑圧、有形無形の植民地化の動きによって、「経済的豊かさ」は再生産されてきたことは疑いない。私達日本人全てがそのシステムの中で相対的な「富」を手にしてきたわけだから。
この事故以後を福島で生きていると、軍事上の課題を背負った沖縄と、経済上の課題を背負った福島原発が、日本の安全と豊かさのために「機能」し続けていたのだ、ということがようやく身に沁みて理解できるようになってきた。
私達は、そういう支配-被支配の構造から脱却した方がよいのではないか?
その可能性がわずかでもあるなら、追求するべきなのではないか?
鳩山さんと菅さんが、沖縄問題と原発問題をぐちゃぐちゃにした、とマスコミは報じ続けてきた。
でもこれは日本が抱えていた国内における「植民地支配」の問題なんだよね。
宰相個人ごときが短期間で解決できる規模の問題じゃないんだと思う。
じゃあ誰が解決できるの?
あり得ないように思えるかもしれないけれど、国民一人一人の選択が変化を生むのだ、と思う。
少なくても、そこを行動の根っこに持つことが大切かと。
日本の軍事的防衛問題に、アメリカ軍と沖縄基地が深く関わっていることに気づいていなかった日本人なんているはずがないし、原発が危険だけれども首都圏に電気を供給しつづけるために地方にリスクを背負わせていた現実、を、全く知らなかった日本人なんてそんなに数が多いとは思わないよ。
つまりさ、私達は
「限定された世界が都合良く回り続ける」
ために、大きなリスクに目をつぶることがとても上手だった、ということが、政権交代であられもなく露呈してしまった、のではないだろうか。
最近喧しく言われる記者クラブの弊害についても、同じことが言える。
その場を上手く回すためには、記事が偏った挙げ句に均質になっても構わないという「心性」がそこに機能し続けてしまうんだよね、たぶん。
今必要なのは、偏っていても、不均質でも、開かれた耳と目を持ちつつきちんと自分の主張をし続ける「思考の強度」なんじゃないかな。
それは一つの政策について賛成か反対か、という立場よりもずっと重要な気がする。
「思考の強度」を鍛える道はこれはこれでいろいろあるのかもしれないけれど、やっぱり「哲学」していくことに尽きるんじゃないかしら。