「結婚」についてなんて最近考えたことがなかったから、いい思考の運動になった。
ただ、制度としての「結婚」はさておき、個人的には男女を問わず継続的に「つがい」として(セクシャルな)関係を保とうとする場合のパターンは、それこそ無数にある。
だから、そのパターンを挙げていくだけでも大変、というか。これはとてもじゃないけど1回の哲カフェじゃ収まらないと思う。哲カフェふくしま史上最大の参加人数だったのもうなずける。
個人的にはそんなに興味を引く主題ではなかったが。
あとはその「制度」に乗る(婚姻届を出す)、ことの意義、かなあ。
これは現行制度が日本だと一種類だから、話としてはわかりやすい。
お話の中で、それが結婚なのかどうか、異性なのか同性なのか、は別として
「パートナーがほしい」
という意見が出て、私としてはそれが一番納得だった。
ただし、ファシリテーターもあとでつぶやいていたけれど、結婚は「性的」な意味もあるから、友達が一つ屋根の下(じゃなくてもいいんだけど)に住むこととは違う。
いや、夫婦は日本の場合よく言われることとして、どんどん「性的」な意味合いが希薄化していったりもするんですがね。
「パートナー」
ってなんだろう?
「対(つい)、番い(つがい)、相手、ライバル、仲間、友人、共同体(三人以上も可?)……」
一対一、一対多、多対一、多対多
組み合わせはいろいろある。
でも、漠然とながら、気の合った相手、というのと結婚相手とは違うような気が(私は)している。
全く他者や社会の存在しない中で、二人で過ごすならいざしらず、社会の中に生きる他者と「生活」なり「人生」なりを共にする以上、職場でも親でも近所でも、相手の友人でもいいけれど、さまざまな関係性の網の目をある安定性というか継続性というか固定性を前提として「共に生きる」ことを選択するってのが、一般的に「結婚」には含意されているといえようか。
好きだから一緒にいるんだったら、好きじゃなくなったら別れればいい。
それだけのことだ。
あえて、制度としての結婚にコミットするからには、それ以外の動機が必要だし、また必ずある。
子どもを産み育てる、というのは、男女の好悪に基づくセックスの延長線上にあるが、好きか嫌いか、とは別次元のことになる。だって、子どもは「天与」のものだからね。人間が「天与」として二人に授かるっていう生物システムは、動物でありながら同時にいろいろ複雑な社会を営む人間でもある私たちにとって、勝手にそのへんで「雑婚」したりするってわけにも行きにくくなるのも事実。
そんなこんなで、一夫一婦制は経済的・制度的にも便利なので、単なる性的関係に止まらず、それが個人の側から求められていたりもするのだろう。
今の婚姻制度はいろいろ変わっていくのだろうし。
だから、個人が互いにパートナーを選ぶというのは、ことの半面に過ぎない。
自分の気持ちを越えて、それよりも大事なものがある、と共に社会に向けて宣言し、イノセントな子どもであることを放棄して、社会的網の目に「つがい」として参加していくことが、とりあえずは「結婚」なのだろう、と思っている。
むろん、そんなことを自覚的にやる必要もない。だから、「子どもができたから結婚しようか」となるのも当たり前だ。
さてだが、別に子育ての問題だけなら、シングルマザーやシングルファザーが雇用とか住居とか養育費とかの経済的手当ができていれば、今の結婚形態を取らなくても別にかまわない、ともいえる。
だいたい、そんなに継続的に相手を好きでいるとは限らないし、自分の好悪の選択を越えて相手と継続的にパートナーシップを結ぶ契約が結婚ではあるとしても、合意破棄もまた、本人の選択である以上、イヤになったらやめればいい、ともいえる。
だが、それでも、ハードルを設定しておくことは、無意味ではない。それは社会の側からの要請、ととりあえずは言っておいてもかまわないのかもしれないが、結婚の「門」はやっぱりそこにあったりして、それは私たちがお正月を祝わずには居られないこととも無関係ではないかもしれない。
文節化と共=身体(個人でもなく集団でもなく)の関係は、やはり自明であるように見えて謎だね。