龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

9/20に「結婚」がテーマの哲カフェふくしまに参加した。

2013年10月06日 23時11分57秒 | 大震災の中で

「結婚」についてなんて最近考えたことがなかったから、いい思考の運動になった。
ただ、制度としての「結婚」はさておき、個人的には男女を問わず継続的に「つがい」として(セクシャルな)関係を保とうとする場合のパターンは、それこそ無数にある。

だから、そのパターンを挙げていくだけでも大変、というか。これはとてもじゃないけど1回の哲カフェじゃ収まらないと思う。哲カフェふくしま史上最大の参加人数だったのもうなずける。

個人的にはそんなに興味を引く主題ではなかったが。

あとはその「制度」に乗る(婚姻届を出す)、ことの意義、かなあ。
これは現行制度が日本だと一種類だから、話としてはわかりやすい。

お話の中で、それが結婚なのかどうか、異性なのか同性なのか、は別として

「パートナーがほしい」

という意見が出て、私としてはそれが一番納得だった。
ただし、ファシリテーターもあとでつぶやいていたけれど、結婚は「性的」な意味もあるから、友達が一つ屋根の下(じゃなくてもいいんだけど)に住むこととは違う。

いや、夫婦は日本の場合よく言われることとして、どんどん「性的」な意味合いが希薄化していったりもするんですがね。

「パートナー」

ってなんだろう?
「対(つい)、番い(つがい)、相手、ライバル、仲間、友人、共同体(三人以上も可?)……」

一対一、一対多、多対一、多対多

組み合わせはいろいろある。
でも、漠然とながら、気の合った相手、というのと結婚相手とは違うような気が(私は)している。

全く他者や社会の存在しない中で、二人で過ごすならいざしらず、社会の中に生きる他者と「生活」なり「人生」なりを共にする以上、職場でも親でも近所でも、相手の友人でもいいけれど、さまざまな関係性の網の目をある安定性というか継続性というか固定性を前提として「共に生きる」ことを選択するってのが、一般的に「結婚」には含意されているといえようか。

好きだから一緒にいるんだったら、好きじゃなくなったら別れればいい。
それだけのことだ。
あえて、制度としての結婚にコミットするからには、それ以外の動機が必要だし、また必ずある。

子どもを産み育てる、というのは、男女の好悪に基づくセックスの延長線上にあるが、好きか嫌いか、とは別次元のことになる。だって、子どもは「天与」のものだからね。人間が「天与」として二人に授かるっていう生物システムは、動物でありながら同時にいろいろ複雑な社会を営む人間でもある私たちにとって、勝手にそのへんで「雑婚」したりするってわけにも行きにくくなるのも事実。

そんなこんなで、一夫一婦制は経済的・制度的にも便利なので、単なる性的関係に止まらず、それが個人の側から求められていたりもするのだろう。

今の婚姻制度はいろいろ変わっていくのだろうし。

だから、個人が互いにパートナーを選ぶというのは、ことの半面に過ぎない。
自分の気持ちを越えて、それよりも大事なものがある、と共に社会に向けて宣言し、イノセントな子どもであることを放棄して、社会的網の目に「つがい」として参加していくことが、とりあえずは「結婚」なのだろう、と思っている。

むろん、そんなことを自覚的にやる必要もない。だから、「子どもができたから結婚しようか」となるのも当たり前だ。

さてだが、別に子育ての問題だけなら、シングルマザーやシングルファザーが雇用とか住居とか養育費とかの経済的手当ができていれば、今の結婚形態を取らなくても別にかまわない、ともいえる。
だいたい、そんなに継続的に相手を好きでいるとは限らないし、自分の好悪の選択を越えて相手と継続的にパートナーシップを結ぶ契約が結婚ではあるとしても、合意破棄もまた、本人の選択である以上、イヤになったらやめればいい、ともいえる。
だが、それでも、ハードルを設定しておくことは、無意味ではない。それは社会の側からの要請、ととりあえずは言っておいてもかまわないのかもしれないが、結婚の「門」はやっぱりそこにあったりして、それは私たちがお正月を祝わずには居られないこととも無関係ではないかもしれない。

文節化と共=身体(個人でもなく集団でもなく)の関係は、やはり自明であるように見えて謎だね。







ヘイトスピーチについての判決が明日言い渡し。

2013年10月06日 22時48分52秒 | 大震災の中で

ヤフーニュースによれば、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131005-00000019-mai-soci

---引用開始---
2009年12月に京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)の校門前で街頭宣伝をした「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の元メンバーらを相手取り、学校を運営する京都朝鮮学園(京都市右京区)が、学校の半径200メートル以内での街宣禁止と計3000万円の損害賠償を求めた民事裁判の判決が7日、京都地裁(橋詰均裁判長)で言い渡される。
---引用終了---

もちろん判決は具体的な個別の事情によるが、ヘイトスピーチは、「顔が見えない」ことばである限りにおいて、よろしくないと個人的には思う。

この件については、今日読んだ

『「自分の子どもが殺されても同じことがいえるのか」と叫ぶ人に訊きたい』森達也

の本に全面的に同意したい。

エチカは、この表題のカギ括弧の中に語られるような抽象的・記号的・仮言的なところから立ち上がりはしない。
こんなところから立ち上がるのはせいぜい「正義」という幻想どまりだ。

そして、幻想エンジンを積んだ止めどなき「正義」ほど、恐ろしいものはない。

エチカ(倫理)は、想像力によって支えられてはならない。
私はきわめて個人的にそう、考えている。

「私だったら?」

と考える訓練は必要だし、そのことによって脳にシステムをインプットしていくことはむしろ強制してでもなされるべき局面はあると思う。

だが、そんなことで他者を糾弾したり、共同体を糾合しようとするのは、沙汰の限りだ。

では、エチカ(倫理)は、どのようにして「共有」され得るというのか?
決定的な答えを私はまだ得ていないし、生きている間にそれを手にすることができるのかどうかも正直覚束ない。

でも、あえて話をしておくなら、想定された「人間」像によって他者を縛るのではなく、私たちがよりよく生きる力に基づいて生きることから始まる必要がある。

ヘイトスピーチは、単純に世界を縮減する「相貌(顔つき)」しか持たない言葉だ。

だから、それはよりよく生きる力に基づかない。何かを守ろうとしているのは分かる。
そして、その何かを守るためなら、積極的「排除」をも厭わない、という姿勢が見える。

だが、それは自分自身を潜在的に「排除」するロジックさえも、孕んでいくのではないか?そういう危惧を持つ。
つまりは、その程度「想像力」はむしろ共同体を縮減させるキケンを孕み、その結果、原理的には中にいる人をも潜在的に排除する志向を持つ。

それは、中にいる人をも「よりよく生きる力」に結びつかない。

私はそう、考える。
だから、ヘイトスピーチには反対。

おためごかしをいって、甘言を弄しながらその実、人をおとしめる言葉の方がましだ、とは思わない。
ヘイトスピーチだけに悪意を感じるのは、それもまた自分の姿勢を「縮減する」きけんがある、とも思うけどね。