森一郎『世代問題の再燃』を読み始めた。
一読、巻を措く能わざるがごとき魅力がある。
よく考えてみると、去年この感触に捉えられた本が二冊ある。
一冊は
佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』
もう一冊は
國分功一郎『中動態の世界』
だった。
私は特にアーレントを正面から読んでいたわけではなかった。友人にアーレント読みが一人いた、だけのことである。
だが、特に選んだわけでもないのに、まるでエンタテイメントの物語か小説ででもあるかのようにぐんぐん引き込まれていった三冊が全て哲学者の文章であり、かつ、いずれもがハンナ・アーレントについて書かれた文章であった、というのは、私にとって実に驚くべきことだった。
森先生のこの一冊は、明らかにハイデガーの側からアーレントに足を踏み出してゆくという方向性を持つ。
國分先生の本は、もちろんスピノザ(=ドゥルーズ)の側からのアプローチだ。
佐藤和夫先生のそれは、当然のことながら、マルクスの側からそれを超える形で読まれている。
これは一体どういうことか?
こうなると、私の目下の最大の関心はアーレント、ということにならざるを得ない。
だが、私の読書の関心は、哲学にもなければアーレントのテキストにもない。
私の関心は、この5年間、一貫して3.11以後の福島をどう考えていけばいいのかの一点に尽きている。
その私が、哲学書をエンタメのように貪り読み、その全てがアーレントに言及している。しかもさらっと触れているのではなく、がっつりと向き合っているのだ。
友人のアーレント読みに紹介されてしぶしぶ読んだというのではないところが、これはかなり 「 深刻 」という感じである。
やむを得ず、というか、不可避的に『精神の生活』(下巻)を読み始めたら、これがまた面白すぎて困る。アリストテレスもプラトンもかじっただけで通読したことがなく、ギリシャの話なんてチンプンカンプンだし、スコトゥスとか 「??」なのに、これもまた読まずにいられない。
ここ(アーレントのテキスト)には、明らかに 「物語」が蠢いている。一見矛盾するような、何か私たちがスルリと飲み込むことを拒むようなお話の進み方があって、論理の筋を追っていくといつもどこかで分からなくなる。アーレントを読んだことのある(素人の)人なら、 「何がいいたいの?」と戸惑ったことがおそらくあるのではないか。
それは、単線的な論理を展開するしか 「能力」として認められない 「世界」では受け入れにくい 「お話」だし、その困難はアーレントのテキストに魅力を感じるものたちでさえ、つじつまをあわせにくい難しさとして立ち現れることがあるようにおもう。
だが、おそらく、アーレントのテキストは何かよく分からないけれど 「物語」の発生地点により近いところにある。私にはそう感じられてならない。
それは文学的な感想に過ぎないだろうか。
そうかもしれない。
だが、私が信頼する現代の哲学者、しかも元々の専門を異にする三人ともがアーレントに向きあって語り出す 「今」を生きているということは、ちょっとかなり面白い。
無論それはこの 「世界」(人為の世界)が深刻な 「危機」と直面しているということでもあるのかもしれない。
そうだとすれば単に面白がっているのはよろしくない、ということになろうか。
本の内容についてはまた後日。
しさとりあえずアーレントの『精神の生活(下巻)』の意志論は、今すぐにでも読み進めねばなるまい。
それはそのまま、福島で3.11以後と向き合うために必要不可欠な営みでもある、という感じがある、ということでもある。
(この項続く)
一読、巻を措く能わざるがごとき魅力がある。
よく考えてみると、去年この感触に捉えられた本が二冊ある。
一冊は
佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』
もう一冊は
國分功一郎『中動態の世界』
だった。
私は特にアーレントを正面から読んでいたわけではなかった。友人にアーレント読みが一人いた、だけのことである。
だが、特に選んだわけでもないのに、まるでエンタテイメントの物語か小説ででもあるかのようにぐんぐん引き込まれていった三冊が全て哲学者の文章であり、かつ、いずれもがハンナ・アーレントについて書かれた文章であった、というのは、私にとって実に驚くべきことだった。
森先生のこの一冊は、明らかにハイデガーの側からアーレントに足を踏み出してゆくという方向性を持つ。
國分先生の本は、もちろんスピノザ(=ドゥルーズ)の側からのアプローチだ。
佐藤和夫先生のそれは、当然のことながら、マルクスの側からそれを超える形で読まれている。
これは一体どういうことか?
こうなると、私の目下の最大の関心はアーレント、ということにならざるを得ない。
だが、私の読書の関心は、哲学にもなければアーレントのテキストにもない。
私の関心は、この5年間、一貫して3.11以後の福島をどう考えていけばいいのかの一点に尽きている。
その私が、哲学書をエンタメのように貪り読み、その全てがアーレントに言及している。しかもさらっと触れているのではなく、がっつりと向き合っているのだ。
友人のアーレント読みに紹介されてしぶしぶ読んだというのではないところが、これはかなり 「 深刻 」という感じである。
やむを得ず、というか、不可避的に『精神の生活』(下巻)を読み始めたら、これがまた面白すぎて困る。アリストテレスもプラトンもかじっただけで通読したことがなく、ギリシャの話なんてチンプンカンプンだし、スコトゥスとか 「??」なのに、これもまた読まずにいられない。
ここ(アーレントのテキスト)には、明らかに 「物語」が蠢いている。一見矛盾するような、何か私たちがスルリと飲み込むことを拒むようなお話の進み方があって、論理の筋を追っていくといつもどこかで分からなくなる。アーレントを読んだことのある(素人の)人なら、 「何がいいたいの?」と戸惑ったことがおそらくあるのではないか。
それは、単線的な論理を展開するしか 「能力」として認められない 「世界」では受け入れにくい 「お話」だし、その困難はアーレントのテキストに魅力を感じるものたちでさえ、つじつまをあわせにくい難しさとして立ち現れることがあるようにおもう。
だが、おそらく、アーレントのテキストは何かよく分からないけれど 「物語」の発生地点により近いところにある。私にはそう感じられてならない。
それは文学的な感想に過ぎないだろうか。
そうかもしれない。
だが、私が信頼する現代の哲学者、しかも元々の専門を異にする三人ともがアーレントに向きあって語り出す 「今」を生きているということは、ちょっとかなり面白い。
無論それはこの 「世界」(人為の世界)が深刻な 「危機」と直面しているということでもあるのかもしれない。
そうだとすれば単に面白がっているのはよろしくない、ということになろうか。
本の内容についてはまた後日。
しさとりあえずアーレントの『精神の生活(下巻)』の意志論は、今すぐにでも読み進めねばなるまい。
それはそのまま、福島で3.11以後と向き合うために必要不可欠な営みでもある、という感じがある、ということでもある。
(この項続く)