龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『カササギ殺人事件(上下)』感想(ネタばれになるかなぁ……)

2019年01月10日 00時04分05秒 | メディア日記
2018年後半大評判になった
『カササギ殺人事件』(上・下)
を昨夜読了。
(2018年の)9月いっぱいで仕事を辞めてから意外にも本を読む時間が足りなくなった。この3ヶ月で数えるほどしか読んでいない。

とても意外だった。

仕事をしていたときには空き時間を探して読んでいたせいか、仕事をしていた割には本も読んでいたような気がする。図書館に常駐していたこと、根本的にヒマな窓際の最期だったこと、と理由は沢山あるに違いない。それにしても仕事を辞めて家事(孫の世話とかいった育児類似行為はなし!)に専念したというのに、この本の読めなかさはいったいどうしたことか。

もしかすると、家事の合間に本を読むにはそれなりのスキルが要るということなのかもしれない。
「仕事」は突き詰めていえば 「自分の」仕事ではない。どれほど内面化していようと他者によって与えられ課された 「仕事」だ。
それに対して家事は自分の仕事だ。特に私のように仕事をそこで中断して家族のために家事をやることを選択した場合、家族の世話をするという意味では 「他者」からの依頼というか要請というか必要によってやることになっている仕事だ。
他方、それは自分のための面倒な 「雑事」ではなく、病気の家族を支える 「ミッション 」でもある。
そういう意味ではお給料のために行う仕事よりも内面化の度合いは強いともいえるかもしれない。

だが根本的な問題として言えば、本を読むという自分の楽しみ、趣味と比べて、端的に 「家事が楽しい」ということがあるような気がする。

ミッションとして家族のために新しい仕事を覚えていく楽しさは、新婚の 「妻」もしくは 「夫」の快楽についてそれは幾分か似ている、といえるだろうか。

そういうこともあるかもしれない。

だが、それだけでもなさそうなのだ。繰り返しになるが、 「家事それ自体」が持つ楽しさ、というものの魅力に心がとりさらわれているのではないか、という疑念(特段それ自体としては悪いことではないが)が兆している。

振り返ってみると、本を読む行為のは長らく外部(社会)との軋轢から身を退避するために有効な手段だった。本を読む行為自体の楽しみ(たとえば意外な物語の筋にカタルシスを感じるとか、逆におなじみの物語の筋に身を委ねて安心して時を過ごすとか、あるいは自分では言葉にできないでいるもどかしさを言語化してくれることによって 「それ!」と指さされて構造化がなされる快感や、目を逸らしている何かに別のところから形を与えられ手瞳をそらせなくなる異和を味わうとか、テキストの織物が次第にずれていって、物語の、水準ではなく表現の水準での逸脱を味わわせてくれるとか、もしくは単純に未知の世界観で頭をガツンとやられるとか、気がついたら引き返せないところまで誘われていて途方に暮れる……etc.)ももちろんある。それなしには生きていけないものになっている、ときってもいい。

それなのに、 もしかすると短期的には「家事」の方が楽しいかも?

これはしじっくり考えてみる必要がありそうだ。

さて、それはさておき。
そんな中で読み始めた
『カササギ殺人事件』
は、評判に違わず家事の魅力に抗ってでも夜中に読み続けさせるパワーがあった。
翻訳本格ミステリーが好きな人は、直ちにアマゾンクリックすべきだ。よしんば期待とは違っていたとしても、ミステリ好きならこれは読まなければならない種類の本といって差し支えあるまい。

もちろん、読み終えた後の不満というか、寂しさはある。それはこの本を読み終えてしまった、という寂しさだ。ミステリーにはつきもののそこはかとないさみしさ。それはある種のノスタルジックな気分と無縁ではないのかもしれない。
私がもし忙しく仕事をしていたときにこの本を読んだとしたらどうだっただろう?
そんなことを考えさせるのは、この本の力なのか?はたまた個人的な環境の変化ゆえなのか?

しかしとにかく腰巻き惹句の
「全制覇(4冠)・第1位」
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このミステリーがすごい!
週刊文春ミステリーベスト10
2019本格ミステリ・ベスト10
ミステリが読みたい!
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はダテではない。

上巻は第二次大戦後のイギリスの田舎町で起こる事件を解決しようとするドイツ生まれの探偵。彼は末期ガンに侵され、これが最後の事件になることを自覚している。
アガサ・クリスティに対するオマージュに、満ちたレトロな本格ミステリの趣だ。
ところが下巻ではその作品が全く別の意味を持ち始める。
作中作ばかりではなく、作品の読み手である編集者の側にも「事件」が起こり、後半は作品内作品とその外側の作品とが呼応しつつ、怒涛の結末になだれ込んでいく……。

とにかく読んでください。
面白くなければぜひご意見を(^_^)