私がBPDと診断されたのは 22歳のときです。
数々の症状を包み込んでくれる 名前の付いた入れ物があるというのは、
安心させてくれることだと感じました。
私に同一性の感覚を 与えてくれたのです。
死を望んでいるというより 癇癪といったほうがいい自殺企図,
温かく にぎやかな群衆の中にいても 自分を封鎖してしまう 漫然とした空虚感、
これらが全て この障害の一部だと 明らかになったのです。
私がすることは 全て度を越していました。
食べきれないほど多くのトリュフを 食べることができないなら、
トリュフは一切いらない、 と言うようなものです。
私は自分が何者であるか、 何を望んでいるのか、
回復したいために 長く生きたいと望んでいるのかも 分かりませんでした。
治療の先に 全く光のないトンネルを 進んでいくような、
限りない曖昧さや 不確かさに対して、
私は物を蹴ったり 引き裂いたりしたくなりました。
私の中には 生きたいと望む 不完全な薄い層がありましたが、
それとは別の強力な声が 高波のように頭を満たし、
急いで薬を飲みなさいと言って、 ホテルの部屋へと急がせました。
同一性障害は、 BPDの子供に認められるが、 神経症の子供には存在しない
と言われ、 子供の時からBPDだったと 認識せざるを得ませんでした。
私は年1回の割合で 自分の呼び名を変えていました。
他の子のお弁当を盗んで、 嘘をついて 信じてもらえないと分かっていながら、
嘘をつき通せば 私は大丈夫だと考え、
嘘に包まれて保護されているように 感じたことを覚えています。
あれは 本当の私ではありませんでした。
私はひょうきんで、 多くの突飛なことを思いつき、 向こう見ずでした。
「私を見て。
私がした楽しいことを聞いてちょうだい」 と よく言ったものです。
〔 「境界性パーソナリティ障害最新ガイド」 星和書店 (林直樹訳) 〕より
(次の記事に続く)