「哲学の道」の南の端に近い処に、こじんまりした「大豊神社」があります。
ねずみが、神様の門番をしています。
今の季節、入り口の石灯篭に椿の花が各種かわいく並べられていました。
この白い花は、利久梅(利休梅)。大ぶりの花びらと、真っ白な色が鮮やかです。
猿の石像、顔が凛々しい。
鯛釣草(タイツリソウ)。
胡蝶侘助(コチョウワビスケ)。
「哲学の道」の南の端に近い処に、こじんまりした「大豊神社」があります。
ねずみが、神様の門番をしています。
今の季節、入り口の石灯篭に椿の花が各種かわいく並べられていました。
この白い花は、利久梅(利休梅)。大ぶりの花びらと、真っ白な色が鮮やかです。
猿の石像、顔が凛々しい。
鯛釣草(タイツリソウ)。
胡蝶侘助(コチョウワビスケ)。
満開の桜並木を歩くことができました。(4月5日)
日本画家の橋本関雪とその妻がこの疎水の桜の並木を寄付したことから「関雪桜」と呼ばれるすばらしい花見の名所ともなっています。
東山と山科の県境の山にトンネルを掘って、琵琶湖の水を京都に運ぶ疎水が明治時代に完成しました。その疎水の分線の一つが洛北の松ヶ崎浄水場までつながっています。南禅寺から銀閣寺道の区間、若王子橋から銀閣寺橋へと続く約1.5kmの散策路が「哲学の道」と呼ばれています。
平日でしたが、観光客でいっぱい、半数以上が外国人の模様でした。
京都大学にも近いことから、哲学者・西田幾多郎や田辺元が、思索にふけりながら歩いたことからこの名前がつきました。これは西田が詠んだ歌 「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」 の石碑です。
ミツマタの花も満開です。
レンギョウ。・・私が生まれた時に、庭にあった鮮やかな黄色のこの花をよく覚えていると母がこの季節になると話してくれます。
着物の女性たち、いずれも外国人のようでした。
日本の和装も、外国の人達に海外でもっと広がっていくといいと思います。ユカタは部屋着としてある程度使われているようですが。
ソメイヨシノ。
オオシマ。緑の若葉が良いアクセントになっています。
小さな灌木ですが、長寿桜です。
外国のアジア人カップルが、ドレスアップしてカメラマンを従えて記念撮影を繰り返していました。 この橋の上ならば、あまり通行に支障がないですが。その後、別の場所で何組かの同様なカップルを見かけました。
シャクナゲが、もう咲いていました。
疎水沿いの大きな民家が「ようじやカフェ」になっていて、多くのお客さんで賑わっていました。
一方で、遊歩道に面したイタリア風の喫茶店が閉店しています。疎水の風景が眺望できる良いロケーションですが、なぜか経営がうまくいかなかったのですね。オフシーズンでの経費節約に失敗したとか、オーナーが何かで財務を失敗したのかな。
ここでも、記念写真大会。背景のいい場所は行列ができていました。(つづく)
なかなか開栓するきっかけがなかったのですが、誕生日に思い切って開けてみました。
Chateau Mouton Baronne Philippe 1986
Cru Classe Baron Philippe Paullac ボルドー地方の赤ワイン
1995年ころにフランス・ボルドーを旅行した際、現地のワインショップで購入した数本の最後の瓶です。
保存方法には自信がなかったのですが、意外にもしっかりした味わいで、とても30年前に造られたワインとは思えませんでした。
この銘柄のエチケット(ラベル)のデザインは馬のような、あるいは鹿のような奇妙な動物が描かれています。
これで20年前に海外赴任から帰国したときに持ち帰ったワインを全部消費したので、さっぱりしました。
昨日の日曜日、曇のち夕方わずかの小雨でしたが、運動のため散歩をかねて近所の桜見物しました。
青空ではないので、いまいち桜の白いピンクの色が冴えまえん。
アップにすると、ほぼ満開です。
この黄色い若葉の木はなんでしょうか。
散歩のついでに、近所の喫茶店でランチしました。
「れぶんcafe」の、ホッケ定食。北海道礼文島から直送されたホッケの干物とわかめ味噌汁、とても美味しい。
その近くの市立図書館で、最近の雑誌などをざっくり見ていると、日曜日なので閉館時間の5時となりました。
一昨日、奈良県橿原市の神武天皇陵に天皇皇后が参拝されたと報道があり、そんな場所に神武天皇が祀られているのか、そもそも神武天皇は「神話の世界」の天皇だと習った記憶があったので、ついこんな本を借りてきました。
まだ読み終わっていませんが、古事記と日本書紀の記述により初代天皇は神武とされているが、その後の研究により、初代から九代開化天皇までは伝承(創作)であり、十代崇神天皇が実在の最初とするのが定説だそうです。(聞いたことある気がするが憶えていません)・・さらに継体天皇の時には、何代も遡って子孫を探して皇統につけてたこと、戦後は、三王朝交替説なることも研究が進んだと紹介されています。神功皇后の事績(三韓平定伝承など)についてもしっかりと認識していませんでした。万世一系なるスローガンも同様です。
団地のソメイヨシノも満開です。
先日、安土考古博物館を見学した時、おとなりにある「信長の館」にも入ってみました。
この巨大なジオラマは考古博物館の展示です。当時このあたりには琵琶湖に繋がる内海があり、小高い山が湖に突き出していました。
この地形を利用して、内海の水を防御の堀にして、この山全体を城に作り上げました。
麓の大手門(ジオラマの下の水に面した平地部分)からは、広幅の大手道石段が山上に向かってまっすぐ登っていく構造になっていて、その両側には武家屋敷などが連なっていました。
この城の構築を信長に命じられた棟梁の苦労と工夫を小説にした山本兼一氏の「火天の城」を読んだことがあります。奇想天外なアイディアを持ち、短気な織田信長の意向を汲みとって、地形を整えてこの城と周辺の屋敷群を短期間で完成させます。
これが山上に輝く天守閣の復元図です。
安土城の完成披露は石田三成らの采配で滞り無くとり行われたのですが、その後まもなく天王寺の変が起こり、戦乱がはじまり完成した安土城は焼き討ちにされてしましました。完成後3年間の寿命でした。
当時の数少ない資料を元に、約400年後に天守閣が実物大で再現されました。1992年スペイン・セビリアで開催された万博に、この朱塗りの部屋が出展されました。
その後安土市町が譲り受け、解体移築し、新たに当時のめずらしい瓦を焼いて屋根をふき、金箔10万枚を使用した外壁や、狩野永徳の障壁画なども再現してありました。
万博の後、それを安土町が譲り受けてその上の階と屋根、鯱も再現したのです。
CGを駆使したヴァーチャルリアリティの短編映画も作成して、放映しています。
安土城の天守閣の形式は、その後の日本の城郭のモデルになりました。特に、戦国時代が終わり戦闘用の城から、大名の威信を見せつけるモニュメントの役割が大きくなると威風堂々の天守閣を有する大きな城が平地に作られるようになりました。
まだまだ国としては経済力が乏しい状況だったと思いますが、こんな巨大建築と華美な装飾はものすごい無駄遣いと思います。しかし、別の見方からは、いわゆる「公共投資」であり、農民は酷使されたのですが、建築職人が育ち、美術工芸が発展し日本文化の基礎ができたといえるでしょう。また城下町では楽市楽座なる自由市場が推進され、そのような経済政策が全国の城下町に拡大しました。
教王護国寺(東寺)は平安遷都の時に建立され、その後弘法大師に託された真言宗総本山である。多くの国宝仏像が並び立体曼荼羅を構成している。
樹齢120年を越すエドヒガン系の八重紅枝垂れ桜の大木が三重県より2006年に移設された。開花期には夜間照明で一段と華やかに春を彩る。(Apr.2016 ITUジャーナル)
早咲きで知られる近衛邸跡の枝垂れ桜は満開で、多くの見物客で賑わっていました。(3月30日)
池の横にある大きな枝垂の前で記念写真を撮る人で賑わっています。
樹の下から空を見上げて見ると、こんな風に花の枝のシャワーです。
同じ地区の枝垂れ桜の前で、白人女性が二人、自撮り棒にデジカメをつけてあれこれ記念写真を撮影していました。
カメラ用具としてすっかり定着したようです。
遠方に大文字山送り火を行う三角形草地が見えました。
ここには多くの桜の種類があるので、どれがソメイヨシノなのかよくわかりません。
桜と御所土塀。