産経新聞の正論欄で九大教授の施光恒氏が9月入学反対論を述べておられる。
教授の反対論は二つの点で構成されており、1は、中国コロナ禍の混乱下でのドサクサ紛れ改革は行うべきでないとするものであり、例として「学校内行事との変更」と「会計年度と学校年度がずれる」ことに対する煩雑さを挙げておられるが、両者ともに4月入学の定着に伴って後発・追随的に整備されたものであり入学期の正邪判断の根拠とはなり得ない。予算が会計年度内に成立しても現場で執行できるのは6月以降であり、まして予算成立が年度を越えて暫定予算で運営される場合には、新規事業開始の目途さえ立たないのが現状であることを考えれば、会計年度と学校暦は全くの別物である。2は、「歳時記が世代を超えて国民を結びつける記憶の絆であり、9月入学はそれらを壊し国民の紐帯を損なう」とするものである。しからば、桜の下での入学式が全世代・全国民が共有するイメージかと云えば、5月上旬以降が満開時期となる東北・北海道居住者には希薄であろうし、それ以外の地域にあっても温暖化の影響で4月上旬には散ってしまう現在の小学生にとっては桜=入学の意識は低いものと思われる。9月入学全盛期に書かれた夏目漱石の”坊ちゃん”は夏の盛りに松山に赴任するが、時代を超えて愛読されていることを思えば、全国民紐帯の元となる歳時記など存在しないし、あやふやなそれらに国民紐帯の原点を期待することは退嬰的で極めて危ういものではないだろうか。教授の意見以外にも入試や新卒採用の混乱を危惧する声もあり、極端な意見では甲子園大会の変質に触れたり、統計の断絶という噴飯の意見も百出している。9月入学反対意見の多くが、将来の国民にとっても4月入学が最適・国粋的な思考ではない「4月入学堅持」であるべきと思うが、そのような主張をあまり見受けないのが残念である。自分は入学時期について4月・9月のどちらでも構わないと思っているが、変革に対する煩雑さを理由とする反対主張には疑問を感じる。なにより「時間をかけて検討すべき」という意見にはおぞましささえ感じる。かって「検討する」は永田町(官僚)言葉では「何もしない・遣らない・先送りする」と同義語とされてきたが、いまや保革政治家・メディア・経済界・学会等で通じる共通言語になっている感がある。
入学期論争を見ていて、まるで「百年河清を俟つ」ものと感じたが、その出典等について知らなかったので序に調べてみた。出典は、孔子の編纂と伝えられている歴史書「春秋(単独の文献としては現存しない)」の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の魯の歴史が書かれている「春秋左氏伝」であることを知った。他の注釈書「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれているが、後漢以降は三伝の中で「春秋左氏伝」が一番高く評価されているそうである。云うまでもなく、常に濁っている黄河の水は百年経っても澄むのを期待できないことから、いくら待っていても実現する見込みのない例えとされるが、自分としては、河辺で水が澄むのを待っているうちに洪水で敢無く流されて溺れ死ぬという挿話を付け加えたいと思う。