私は明治20年代に生まれた祖父と
30年以上も
サンフランシスコで暮らしたという
祖父のお兄さんの奥さんにあたる
おばあちゃんを
祖母と思って13歳まで
多くの影響を受けて、
幼年時代をすごしました。
その後、長男が生まれて
御爺ちゃんを始めて見た赤子は
怖がって泣き出しました。
しかし、40歳を超えた長男は
どこか祖父とそっくりな瞬間があり
私は「遺伝子を運ぶ船」であったと思うときが
しばしばです。
女性は自分では特別な存在にならなくても
子供を産み育てることも意義は
孫に出会えたときに
衝撃的に解ったような気がしました。
「私は、、、船だった!」
「遺伝子を運ぶ、、、船だった。」
豪華客船のように
船長が逃げ出しては
「命」は守れません。
帆船でも良いのです。
風を知れば!
お爺ちゃんは28歳のとき
3ヶ月もかかって、船でアメリカに渡りました。
西海岸を開拓した、魂の輝きが
茶の間にありました。
つまり、、、明治の男の価値感を
身近に育ったのです。
おじいちゃんは、、、
きっと、、、驚くでしょう!
日本の民と共に、、、
畏れおおくも、
被災地の避難所で
膝をおつきになったお姿を。
そして、、、、、、、畏れおおくも
再び、、玉体の手術を目前に
御爺ちゃんならきっと
自分が手術を受けるより
落ち着かないと思いました。
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昭和44年頃のことでした。
東京大学から3人の頼もしい
心臓外科医が、
マスコミをにぎわせていました、
東京女子医大の
「榊原」先生と「杉江』先生と、
もう一人先生、、、。
杉江先生は、
その後北大に赴任されて
北海道新聞に、しばしば、
患者さんを助けられたという
うれしい記事が出ていました。
其の頃、
バイパス手術を博士論文にして
若き医師たちも、
どんどん育ち
ある弟子はピッチャーに
ある弟子はキャッチャーに
ある弟子はコーチに
野球チームのような大所帯の外科が
チームワークで
命を守る戦いに
世界に出てゆきました。
アメリカに
フランスに
ドイツに
アメリカは心臓外科が進んでいるようでした。
医療器械野販売の会社で
試薬や「医療器械」の
管理の仕事をしていた時代でした。
コルヂスという
アメリカの人工弁が
請求伝票に
書かれていた時代でした。
人工血管も
素材がどんどん良くなってゆくのが
廃棄される古い品を見て感じました。
人工血管の質も良くなり
現在は、多くの狭窄の患者さんが
健康を取り戻している時代になりました。
私の知人も、人工血管や
「ステント」が5個も入っている人もいます。
元気に普通の生活をしています。
榊原先生が「心臓」という
辞典のような厚い本を出されたのが
とても印象に残っています。
あの頃
駆け出しの若き医師だった主人が
論文を引用されたと
舞い上がって興奮していました、
家には土日に帰ればよいほうでした。
冬の2月に出産予定のワタクシは
ほったらかされて
実家に7ヶ月も帰っていました。
区役所の職員さんが来てくれました。
「奥さん、、、どうか、、、離婚しないでね!」
離婚するのではありません、
研究中の夫には
実家で産んで、大きくなってから
札幌につれてきたほうが
博士論文に集中できると思いますので。
北大に赴任された杉江先生と榊原先生は
仲良しだと、
奥様はおっしゃっておられました。
奇遇というか
夫の母と
杉江先生の奥様は
櫻井女塾をとおして
知人でした。
北海道にいらっしゃった奥様は
教授婦人という
大役を、自然体でこなされ
先生の分身のような、
貫禄と、優しさと、
まるで「論語」を空で案じられてるように
「仁」「徳」を空気で伝えてこられました。
私ごとき、まったく普通の
名も無く地位もない女性にも、
弟子の家内というだけで、
旅先から「絵葉書」や
お土産に小さな小物入れなど
笑顔で下さったものでした。
きっと、、、先生が
「神の手」のように「命」を救うために
「鬼」のような厳しい鍛錬をなさるのを、
支えられてこられたことは
想像に余りある気丈と、
思いやりと、頑張りが
先生と一心同体の雰囲気に
なってしまわれて
お二人で一人のように
みえてしまわれたのでしょうか?
多くの、弟子を育てられ
時代と共に、
バイパスも、
心臓手術も、、、
孫弟子は、
世界的にも難しいと言われていた
「バチスタ手術」とか申す技で
恩師に報いる時代になっているそうですね。
漫画にもなっていますよね、
漫画は、
私にもわかりやすく
優しく説明しているし
「メス」よ、、、輝け!
ひねもす、
読みふけったものです。
医学は日進月歩で、
頼もしい時代になりました。
天国のおじいちゃん!
「玉体」に
近代医学のテッペンの先生方が
医学の最先端の力で、
健康をお守りするのですから、、、
御爺ちゃんも
ご加護を、
神様にお願いしてください。
どうか、
ご無理をなさらないように、
国民と共に、
お元気で日本に
いらっしゃるだけで、
日本の国民は
長い歴史の年月の不思議なご加護で、
がんばれると
お爺ちゃんは、
アメリカにも住んでいたことがあるだけに、
外国で見る日の丸は
感無量と言っていました、
日本人であることを、
誇りにしていました。
手術の成功を、お祈りして
手技を発展させてきた先生方のお顔を
思い出しながら、
命が、、、
一番大切です。
いつの時代が来ようとも
命に勝る価値なんてありません。