北海道はアメリカンドリームのように
新大陸のイメージが
どこかにあった。
漁業とソ連、、
北方領土とソ連
医療の応援とソ連。。。
日本でありながら、
独立した地域のような
歴史観が、本州とは異なっていた、、、50年前。
ボーイズ、ビ アンビシャス、、、
教科書にも出ていた。
クラーク博士が、
学生たと別れた羊が丘近辺。
タケノコ山だった時代、
60歳になったら、
終の棲家を建てようね、、、
土地を買ったのが、始まりだった。
と言うより、
このあたりの土地なら、いつか家が建てられる、、、
バルブで、
マイホームに手の届かなかった時代
人生、
どこに飛ばされて
生きねばならないかもしれないが
絶対君主よりも、イエス以外は言葉のない
無給医で、
博士号を取得しなければ
独立できない
昭和40年代の医学部事情。
終の棲家は此処にしようよ、、、と
あたり一帯雪景色の原野に近い、、。
定山渓鉄道が廃止になり、
このあたりを造成した矢先。
日の丸宅地と言う、、聞きなれない会社が
パンフレットをもってきた。
北方領土返還とナヒモフノタカラ?
北海道新聞は
地方紙の特徴が濃かった時代。
本州にはない、未開拓の希望と夢に
戦後の若者は、新天地に夢を託して
北大に向かったようだった。
家を出なければならない
二男の夫も、
北大に入学して
東京時代のあくせくした
時間の支配から脱出して、
のんびりとした北の大地で
野球を楽しみながら
大学を卒業したと言っていた。
小学校から大学卒業まで東京で暮らした私と
ひょんなことから、
人生登山の相棒として、
戦友として、
北海道の暮らしを始めたのは
54歳で外科医だった父が急逝し
開業が難航していた矢先
ゆくゆくは我が家の開業の片棒を担うと
母との間に約束が交わされた結果であった。
30歳までは、一人前の薬剤師になるまでは
勤務を続ける覚悟だった私の前に
結婚によって、家族とも、夫とも
至近距離で子供を育てられるという
しかも、自分の病院で薬剤師をできる、、、
こんないい条件は無いと
母は乗り気であった。
ほんの2,3年だから
北海道暮らしは
人生の宝物になるはずよ!
回りからも、言われ、
自分も、薬剤師と、家庭と両立する
千載一遇の機会かもしれない。
そう思って、勤務をやめて結婚に踏み切った。
大学から、配属された病院はローテで
留萌の寿町にある
日本海に面した病院の外科だった。
留萌の寿町の冬は
登山が好きだった私にも
かなりの強敵だった。
ハイヒールは全部捨てた。
吹きすさぶ吹雪
虎落笛聞こえる氷紋、
氷の模様のガラス窓からは
ピーンと張りつめた
不思議な風の演奏音が響く。
新幹線の来る北海道なんて
銀河鉄道のはるか向こうの
蜃気楼のように思えるほど
現実からは遠かった。
雪解けの留萌の海沿いを走る電車は
たった一両の電車?
キンコンカンコン、、霧の音高く響くと
波の音をかき分けて、
海の生き物のように、
たった一両の電車が現れる。
波の中から現れた、、、生き物のように。
あれから40年以上経った。
あの時から、
新幹線が出来て、
札幌と東京は5時間で結ばれる、、、と。
マスコミは特大見出しで書き立てていた。
夢が膨らんで、今か今かと待ち焦がれた。
結婚してから、初めの3年ぐらいは
必死で里に帰っていた。
往復だけで二日は乗り物の仲だった
4年目ぐらいから、
夫には、東京に帰る気が無いとわかるほど
道産子になってゆく夫。
博士論文が認められ
タフト大学から留学OKの手紙が届いた。
しかし、大学の人事は
地域貢献が優先した臨床医へ向かってまっしぐら。
地域の医師になる事は、
北海道を離れては生きてゆけない。
夫は、生涯の職場を北海道と決めた瞬間が
私にも伝わってきた。
臨床の腕を磨くからと、
症例の多い、手術の登板のまわってくる
中小の病院に移動した。
北海道の臨床医になる道を選んだのでした。
それからは、一切里帰りはしなった。
もしもあの時、、
新幹線があれば、
里心が断ち切れず、
毎年里帰りしていたかもしれなかった。
母は「雪祭りが観たい。新幹線はいつ来るの?」
電話の度ごとに「新幹線」「新幹線」と言っていた。
フジテレビが主催した
「オリエント急行」番組で
函館までの急行券が当たり、
母は、いそいそと電話をくれた。
函館まで行くから来てよね!
「わんぱく時代の二人の男の子は、天真爛漫!」
函館まで、母を迎えに行く直前
花の展示会で、
とんがった花活けの花器におでこをぶつけて
救急車で夫の病院へ搬送。
何針か縫った後、
二人の息子たちを無事に
函館まで連れてゆく自信が無くなった。
函館には、オリエント急行で
母も兄も、兄嫁も来ているという。
母は一人ではない。
断腸の思いで私は函館行きをあきらめた。
夫は今でも覚えている。
僕は、息子も、お前さんも
縫った、、、と、
当時は、本州と、北海道は
30年から40年の
タイムスリップ状の不便度が感じられた。
なにか?ハプニングが起きた時の
打つ手が思いつかない不安があった。
あの時以来、、、
実家は、私から離れて行った。
母が亡くなった時にも、新幹線はまだだった。
札幌駅から一人電車に乗り翌日上野駅に着いた。
母のもとに着いたときは、
母は眠っていた、、、、永遠の眠りから、
「遅かったじゃないの。。。と、
微笑みだけが伝わってきた。」
外科医だった夫は、
予約患者さんを抱えていたため
泊りがけの「東京には来なかった。」
進学試験中の息子たちも、
東京、札幌の往復時間を考えると
御婆ちゃんとのお別れには来れなかった。
もし、、新幹線が有ったなら、、、
東京と札幌はお隣さんになれていたかもしれません。
そのようなことを、思い出しながら、
安くなったヒコーキで、
頻繁に東京に行くようになったのは
息子が東京の大学に進学した時からでした。
同僚の開業医の息子さんの先生からは
「おめでとうございます。最高の
私立医大では名門と言われている
J大学に合格されたんだから、
まさか!!!金が無いから進学させないなんて!
そんな無様なことは言いませんよね!、、カンラ、、カンラ!」
ムシンケイナ生まれながらの開業医の坊ちゃまの言葉に、
主人は「当然です!頑張って卒業させますとも!」
二男と三女の組み合わせの私たち。
しかも、ワツィの自宅開業を継ぐと言って
やむなくとはいえ、、
我が家の母の期待をかなえなかった我らに
一銭の遺産も、形見分けもなかった。
息子に進学ローンを組んで
出世払いで良いことにして
20年ローンで入学を果たした。
医師の親が、国立であろうと
私立で有ろうと
自分の同僚を育てることには
命を懸ける頑張りを見せるものであると、
卒業後に、
火事場の馬鹿力の「夫婦の頑張り」に
乾杯をしたものだった。
背中合わせに
医師と、薬剤師が働いて、
やっと一人の
世間様に役立つ医師と、
立派に自立した薬剤師を世間さんに還した。
人生で、やっと
之だけした。
そして、70歳をすでに過ぎていた。
勤務医に
もう少し、、税制が
学問や、学会の控除があれば
家内も、一枚ぐらいは
小紋が買えたかもしれません。
生涯の受験生を抱えたように
本屋からの10万単位の請求書が
積み上がるのが、
日進月歩の医学の世界に
ついてゆく最低条件の
維持費だからですよね。
それを思うと、
医者になれたからって
息子は、日進月歩の医学会に
ついてゆくのが精一杯ではなかろうか?
医師として必要とされ続けるための
維持費を考えると、
医師をしている、医師を続けている、
地域から必要とされて、役立っている
そのことが、、、本人の生きている証であり
本人の生きがいにつながり、
時には、家族が幸せになるための「手段」であったはずの
職業が、逆転して
「医師をすることが目的になる」
それほどのことがあっても、
家庭が捨てられた、、、置き去られた、、、と
嘆かないお嫁さんが
きてくれるだろうか?
もうすぐ今年の9月で41歳になる息子には
結婚相手が現れてくるだろうか?
二人で、新居を探し、
二人で家庭を、0から始めてくれる
30歳そこそこの、大人の女性が
息子の「永遠の幼さ」の生き方を
理解してくれるだろうか?
私の友人も
「うちの娘が30歳で行き遅れなのよ!
もらってくれない?」
などと、、、軽口をたたいてくるのが
とてもうれしいが、、、
息子の性質を考えると、
息子を好きになって
理解してくれて、
今日は、、、こんなクランケを
こんなにして、助けられた!、、、とか、、
誰にも言えない雄たけびを
聞いてくれる女性が現れるか、、、心配です。
神様、、、彼ほど、、理解すれば、、、
幼い少年の誇りの中で、
医師と言う職業を天職として生きている者は少ないでしょう!
母親の方から、頻繁に行って
家族の絆を保たねば、
息子の方には、
来れる余裕は無いと教えてくれたのは
妻の母の葬式にも来れなかった夫の職業の性質だった。
今、息子も、
臨床医が第一線で必要とされる
救急指定病院の医師である。
ドクターヘリが、救急患者さんを搬送してくる病院だ。
私は、夫と同じで、死んでゆく人と
生きてゆく人との狭間で
すでに「匙を投げられた母の葬式」より
職務をとった夫に、
職業病のような「死んでいる者」への鈍感さを
攻める気は起きなかった。
息子も、十年単位で里帰りは未定である。
もう、、、待たない。
定期的に、、、
「お前は一人で生きているのではないんだよ!
離れていても、お前を愛する家族が要るんだよ!」
待たないで、、、こちらから、、、
定期的に出向くことにした。
息子は、大学の臨床部門の病院で
地域の為にも、瀕死の患者さんの延命に
役立てることを、生きがいにしているようだ。
多くの優秀な他科の先生方からも
可愛がっていただき
教えを請っている今の状況は
医師として、自分を完成してゆける満足が
全ての、逆境遇の不便さも
苦にはならないで、
アグレッシヴに前進して行けているようである。
親も最後の力を振り絞って
家庭を持てるように
これからの収入を切り詰めて
協力するから、
家庭を持つことで、、、
大人になれる部分のあることをゲットしようよ!
解って理解さえしてくれれば
君ほど「好男子」はいないと思っているよ。
今日も「NHKのダーウインが来た」を拝聴しながら
息子の卒業した大学の先生が、コメントに出ているのを
嬉しく、神妙にほほえみながら、TVに観いていた。
医師になるのも大変であるが、
医師をするのはもっと大変だと
その度胸と冷静さと決断と技の前には、
ボロボロに、裏を守る家事や雑用の集積で
世間様に役立てる「医師をする事」を
側面から支えられることの意義を見出せるなら
例え、独りよがりであっても、
登頂成功目指して、右足の次には左足が出ている自然態。
光と影は一体であるから
支える影は、光はあたらないが
「生きた!」と感じれば、
愛があろうが、無かろうが、生きて付かねば
家族の人生ゲームはばらばらになってしまう。
連帯の登山の喜びがあるはずであろう。
名門の私立大学に合格した君は
陰で支える親の頑張りは「影」であるから
それも含めて、医師になろうと頑張って、
前に前にと進むだけで
後ろの頑張りは、
出世払いと割り切って
きわめて、、、おおらかである。
私は、母の終焉を目の当たりにして、
60歳から、80歳までの
母を訪ねなかったお詫びもあり
3000メーター近い白山登山の
フィールドワークの学会に申し込んでいた。
白山に登山した日が思い出される。
君は、登山口まで来て
お母さんを送ってくれたよね。
「てっぺんに雪があるだろう!夏なのに!
母さん、、、母さんはバカか?
登れても、降りられなくなったらどうするんだ!」
「大丈夫、、、ヒマラヤを庭のように歩き回る
金沢のM教授の主催する生薬学会の一環のイベントだから!
リーダーにぴったりくっついてゆくから、
大丈夫なのよ!」
登山口から、君は引き返して行ったね。
「僕には。医師国家試験突破と言う
ヒマラヤ登山がまっているんだ、、とか?」
翌日、兼六園の松の前で
落ち合ったよね、、、。
医科大学生の時だったよね。
今、北陸にも新幹線が走っているよ、
もう一度、行ってみたいね。
親子で金沢へ。
母も、嫁に行った娘の私が、
とうとう、、実家を継ぎに帰って来ない人生登山を
ピアノを教えながら
80歳まで頑張った。
80過ぎても、ピアノのお弟子さんが50人以上いてくれた。
中には音楽大学に合格した御嬢さんもいた。
娘の私は、、必要ないかに思えたが、、、
亡くなる直前、、、
「待ちくたびれた、、、婿さんは
3年たったら、東京に帰って、家を助けるなんて、、、
とうとう帰ってこない、、、」
娘が医科大学合格した時、
女医になったら、黒メガネかけて
独身で、嫌な女性の仲間入りすると思ったけど、
あの時、娘を医者にしていたら、、、
独身でも、一緒に暮らせたのにね、、
男兄弟にもらしていたそうだ。
独身だったら、、、孫にも会えなかったでしょう。
それに、医師になれても、医師をすることの
難しさが、親を観ていてわかるだけに、
女医になるという事のリスクは
それを感じない強い女性でないと
不幸だと思うのですよ。
それだけ、強敵の怪獣君と闘わねばなりませんから。
夫のように、
怪獣の懐に飛び込んでも、
優しさも、労わりも、愛も感謝も
交している暇のない怪獣君の足元で。
今度生まれてくる時は、
大王イカになって、深海をゆっくりと泳ぎ、
研究者の垂らしたエサには食いつかないでおこうと思う。
やっぱり、新幹線が有ったら、行き来出来て
こんな愚痴やら、不満やら
「、、、だったら節」も
母の口からは出なかったろう。
北海道は嫁ぐには遠すぎた昭和40年代。
良かったね、
「時は金也、宝なり、愛の樹も時間無くしては育たない。」
時間を超えた新幹線に未来を託そう。
新幹線云々の話から、
距離を飛び越えた情報が入る今日だから。
北海道は、、、とうとう、、、
日本の北海道になった、、、と
痛感しました。
私にとっての新幹線は、
時間軸が本州と重なり始めた北海道が、
あと、平成30年ごろまでに札幌に来る間に
生きてるスピードを、
東京都と
どのように合わせてゆくのかと、、、!
短縮時間を燃料にして
黒船到来の予告の中で
ザンギリ頭を
タタイテいる自分を感じるのです。
舞台の白鳥の湖と
アイススケートの
陰陽師のデュエッとは可能なのか?
昨日観た「羽生さんの、、、」
ショパンのバラードは、、素晴らしかった。
ショパンを、、、あれほどに演じられるスケーターは
今後もう、、、現れないのではないか?!
お母さんと、一緒に観たかった唯一のイベントが
羽生さんの「ショパンのバラード」だたあな~~~
お母さんがいつも弾いていた
ショパンの即興曲を思い出しながら
白鳥の湖のように
羽生さんは
ショパンで、スケートが芸術入りするのではないだしょうか?
もしも、、母が生きていたら、
二人でショパンを観に行って、、
母は最高の満足の顔を見せてくれたでしょう。
最高の「親孝行のひと時を持ててでしょうね、、、」
人の寿命は、、、、ゆく川の水のごとく
しかも、、もとの水に有らず、、、
泡沫のように、、、私も消えゆく年齢になったけど、、
明日も、若者たちが届けてくれる光の中で
今日が、、、一番若いと
自分に言い聞かせて、、、流れてゆく。
混乱の中で72歳のお婆ちゃんは
札幌の新幹線到来を待たずに昇天するでしょうね?!
東京オリンピックまでは、、、頑張りますが、、、
時間を支配する科学の力が
国土の中で
時間ごと置き去られる文化を
造ることも確かですよね。
何を書いていたのかわからなくなりました、
息子よ!、、、
あなたの周りに必要とされ、
仲間にしてもらい
時代とともに、
その役割を果たせる自分に
感謝して、
健康に気を付けて、
いつかは、
お前さんを指導してくれている先生のように
君も、
研修医に「ここにきてよかった!」と
感謝されるような、
指導ができる医師になれることを
祈っています。
good night!(^^