花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

もう一度、東京へ、還れたら、、、5月19日は父の誕生日

2016-05-15 23:46:42 | Weblog





大学を卒業して、
母と
銀座のビルの上から

ブルーインパルスが
五輪を描くのを観ていました、

父が亡くなってから
4年目だった。

父は東京オリンピックを
観ることはなかった。

市谷の文人通りのあたりに
父の想いでは
あふれていた。

東京に帰りたい、、、

父のお父さん、、、
お爺ちゃんは、
剣道も、5段だった、
囲碁も強かった、

父はビリヤードが大好きでした、
大正時代は
宮様方も
ビリヤードをたしなまれたと
父から聞いていた。

慈恵会医科大学を卒業した父は
眩しいような
坊ちゃまのような、美しい言葉だった。

そのくせ、ラグビー部に所属し
タックルが得意技だったらしい。
口髭が、ラグビーの話をするときは
小刻みに揺れた、

五郎丸さんの事を父が見たら
きっと、目を丸くしたでしょうね。

多くを語らなかったが
歴史の物語や、
神話や、
南朝、北朝のあたりの
武士道の魂を

柔和に語って聞かせてくれました。
私が19歳の2月、、、
父は過労死だったのでしょう、、、

前日に患者さんの手術を終えて、
麻酔から目覚めるのを確認してから
母屋に戻ると

そのまま、お気に入りの8畳の畳の部屋で
大往生しました54歳でした。

窓の下には
錦鯉の泳いでいる池がありましたが、
昭和40年あたり、、、
父の亡くなる一年前(去年の夏)

右目に痣のある
派遣のお手伝いさんが
池の上に、、、
事もあろうに、、、
糊に浸したシーツを

絞らないで、、干したのです。

池ノ上がバルコニーになっていて
物干しになっていましたが、

バルコニーの下に
自分でロープを張って
干したのです、、、

普通は、、、
池ノ上に物は干しませんよね。

父がコレクションした

金色の鯉、錦の鯉、、

夕方には
30匹ほどの、魚たちが
浮き上がって、、
腹を見せました。

糊には石炭酸が防腐剤として入っていた時代です。

家族のショックは隠しきれませんでした。

父も母も、
無言でショックを受けていました。

人生には、、、

関連づけたくないけれど、

生涯忘れられない、、、事もあるのです。

医師の家は、、、
一見豊かに見えます。

患者様に選んでいただくわけですから

デパートのショウウインドウのように
派手にアピールはしませんが、

一つ一つの事に
患者さんに信頼される
匠の心の入った
施設の維持と

空気をプロの清楚さで揃えて行くので

白の基調の中に

動くアクセントの錦鯉は

贅沢そのものに
思える人がいても仕方ありません。

しかし、、これらの鯉は、

昭和通りの縁日で、
父が、、
十センチぐらいの、
秀逸の鯉を
いつまでも、、、観ているうちに

どんどん値下げしてくれて、

それでも迷っていると
おまけに、
金魚や、
鮒や、わ金を
おまけに、つけてくれた魚たちです。

どんどん大きくなり、

長男、次男。三男、私で、
畳2畳ぐらいの長い池を掘り上げ

皆で、防水コンクリーを練り上げ
汗だくで仕上がった池に、

岩に生やした盆栽を中島に置いた作品でした。
5年も経つと、苔むして

天然の池に負けない
生き物たちの集うスポットになりました。

その頃、、、父が、縁日で、鯉を集めるようになり、
見事な鯉が煌めいていました。

開業を余儀なくされた戦後の復興期に

個人の医療施設に閉じ込められた
忍従の日々には

鯉になって、池の中でも回遊しないと
巨人の頭脳は
ストレスの逃がす場所が
見つからなかったのかもしれません。

我が家の想いでの池でした。

母は国立音楽大学のピアノ科に一期生です。

卒業していらい
多くの文化人との交流もあり
父が技術に閉じ込められた生涯に思えるほど
母は、モダンに、時代を生きていました。
戦争では。二人の息子と、娘(私の姉)を亡くし

国務だった従軍の父の留守を守り
敗戦の色濃い昭和19年に、国に還る命令があり
戦場近くの生活は終止符をうちました。

焼夷弾の降る中を、、逃げて山奥へ。

疎開先の村の診療所に勤務した父。

母には、

どんなときにも、
ピアノがありました。
自分でお弟子さんをとりました。
小学校の音楽の先生の
指導を頼まれたり、
引っ張りだこでした。

手の保護の為にも

お手伝いさんを、
3人来ていただいていました。
普通の開業の奥さんのように、

裏を任せると「後方に憂いなし!」と
先生が、心おきなく、働けるタイプと
かなり違う母でした。

戦争の時代に
父が、
大陸には戦争の傷の手当のできる医師が
居ないという事で、

西洋医学の
外科の医学と臨床を
戦地近くの東洋医学に医師の皆に
滅菌や、手術を指導したそうです。

大陸の
大学病院のような役割の教官として招かれ

大陸には、当時は
西洋医学の
外科の医局が
存在しなかったためか

総合病院の院長も兼任して

臨床の指導は
院長をしている総合病院で、

日赤から派遣された
提灯袖と、
コックさんのような白衣を着た看護婦さんらと

50人ぐらいのスタッフが

交差する日の丸の旗の下で
現地の東洋医学の滅菌を学んだことのない医師に

研修をしている写真が
いくつか残っていました。


父は長男を抱いて
真ん中の中央に座っていました。

お国の為に
西洋医学の外科の臨床を
戦場の近くの医療施設と
大学で、指導していました。
軍医として、戦場に出兵するまでの事です。

現地の日本語の新聞にも、
父のことを報じる新聞が何十枚もありましたよ。

お国の為に役に立ててる
一生けん命生きてる
父の姿が素晴らしい記録です。
歴史的な写真なので
私はこの写真がほしくて
父の亡くなった後、

形見にほしいと言ったのですが
長男が、持っていきました。

その後、、、
長男の夫人が痴呆になり
実家の品は無差別に業者によって
何処ともなく運び去られました。

たった、、、一つの形見もありませんでした。

父の想いでがいっぱい詰まった
戦後の、、
幸せだった疎開地の山河を後に

東京に、戻ってくれた父の
教育こそ

多いなる遺産。

*******************

父は市谷出生ですが
牛込小学校を卒業し、
早稲田中学に進学しています。
弟さんにあたる「おじさん」も
早稲田中学から、戦争に行きました。
戦後、帰還して、

28歳で早稲田の理工学部に入学しています。
晩年は女子大の教授になり
黒板の前で、授業中に
まるで、、、殉職です。

父の兄弟には、高校生の時
海で死んだ、秀才の弟が居ました。

柔和な、父の雰囲気からは
このような、すさまじい
被災を、何度もかいくぐって来たとは
思えませんでした。

引き留められる疎開地の
健康に戻れた生活を振り切って

生き残りの息子たちの為にと
教育を「遺産」と心得て

44歳の転身を
生まれ故郷の東京の土地に
子供たちの未来をたくしたようでした。

おりからの
医療制度のはじまりもあり
医師が、別格の時代は終わりました。

戦後の貧困の中の
患者さんたちも、
退院の前日

忽然と、、、姿が消えて
収入にならない時でも
戦地を体験している父は
そのまま、何事もなかったように
収入は追いませんでした。

新規開業は、結束が大切でした。

受験戦争の東京生活の中の
ささやかな、、、
家族の結束の
想い出の錦鯉でした。

********************

あれから55年経ちました。
父が、敗戦にも負けずに
立ち上がって、東京に開業してくれた実家は
兄の代になって

開業を閉店し、

勤務医の時代に入りました。

何とか実家を存続させたいと

歯医者さんや、小児科、内科、、、内視鏡医
全て、母との面談でした。

お父さんが、、、若くなって還って来てくれるのよ!
未亡人の母が、輝きを取り戻しているようでした。

薬剤師として病院に勤務中でしたが
即刻、勤務をやめて

実家に入ってくれるという
母との約束で

外科医と結婚しましたが、

結果的には、
北海道の大学を卒業した夫には

地方の学閥もあり
なかなか、、、
東京に帰る機会がありませんでした。

****************************

結婚という出会いを大切に考える暇もなく
付き合う時間もなく、

父の残した医療施設と
父の早逝で、取り残された
患者さんへの責任感だけで

母と話し合い
実家に入ってくれるという
医師が現れたのだから
皆の幸せの為に
「とと姉ちゃん」を実行することにしました。

結果的には時代に流されて
何もできないまま
実家は、95パーセントの税金で
跡形もなく消えました。

親から受け継いだ病院も土地も、
領収書がないという事で
5パーセントで買ったことになるそうです。

私は、実家の存続だけを考えて
父と同じ、、、外科医と結婚しました。

しかし、、医療事情は刻々と変わり

まるで、、エネルギー革命にも似て
開業の時代ではなくなりつつありました。

実家に入ってくれるはずの夫も、
頼みの綱の内科医の長男も、
今は勤務です。

さらに、、、弟は
医学上の出会いに恵まれました。

弟は、画像診断で
「コロンブスのたまご」ともいえる
実績を残すことが出来ました。

畏れ多くも、、、宮様からの
賞をいただきました。

家族ともども
弟の環境を大切に思いました。


日本の画像診断の黎明期に
千葉大学の外科に入局し

実家にUーターンすることもなく、

二重造影で、当時は知る人ぞ知る
市川先生と、同窓として出会いました。

その後は、、、

日本のCT時代の先端をはしり、

ヘリカルCTの時代に
国立がんセンターの

なくてはならないスタッフになり

人生丸ごと、、、画像診断に浸かりこんだのでした。

多くの本にも出てました。
新聞には画面半分
弟の記事で埋まっていました。

肝臓、胆のう、すい臓、、では
ハーバードから来た知人の医師が
弟は、自分の目指す先生だとも話してくれた。

消化器が、いかに!!!日本が優れているか!

聞いてる私も、日本の消化器部隊
肝、胆、膵の強さに、

球場で観たホームランの感動と同じ思いで
思わず顔がほころびました。

兄弟も夫も、息子も、
医師を続けることに
情熱を燃やし

医師をすること以外は
何も振り返らなかった。

兄も80歳近い
終活に父から継いだ実家を手放し
95パーセントの税金を払い
わずかなお金で施設に入った。

まだ、、、60代の弟は
実家が売られてしまったのが、、
たまらなくさびしく
父母のグランドピアノや
錦鯉の池が

忘れられない心のメロディ―として

何とか、、、買い戻せないか?
と、、、愚痴を言っていた。

イギリスだって古城は素敵だけど
維持が大変で
観光拠点になっていたりするでしょう。

平成の医師達は
親がお金持ちでない限り
父の時代のような

別格の品位と優雅さは
夢のまた夢よ。

我が家も、私が蝋燭のように
わが身を削って
点灯鬼となって、息子たちを照らしながら
社会に送り出しましたが、

まだ一人、、、夫と言う
医師をすること以外は
何も考えないという、、、

稼いだサラリーは
医師を続けることに
全部使うという、、、

ある種の「職業病」の伴侶が居る。

この、、仕事お化けを惚けさせないで
大往生させるには

生涯、、、最後の月になるまで
医療現場に居てもらわないと、

仕事辞めたら、、、手におえない。
痴呆になるのは目に見えている
専門バカの、無趣味。

仕事を辞めたら、
今まで休日は、家で過ごしてきたように
家に張り付いて、
運動不足、おしゃべり不足、、、エトセトラ。。。

社会からは、
よく見えるから、

お華を習いに行っても

私には10倍の費用を要求される。

華の先生と器のコラボレーションの展覧会には

必ず、声がかかり、
席代金3万円の御祝儀買いがノルマとなり
花を生ける台を買う。

展覧会の安くない器の購入も
師匠の顔の為にも、

買わざるを得ない空気の流れになる。

鳥の羽つけた帽子をかぶり
きらきらのホテルの会場で、

ひときわ聞こえる声で、

「この方の御主人はお医者様なのよ!」

目立つ空気を造られてしまう。

世の中には
小金もちの医師よりも
もっともっと
お金持ちがひしめき合っているというのに。

月給が少しばかり高いと言っても、
学会や、医学の日進月歩の進歩に遅れまいと
こまめにゼミナールや会合に
書物や論文作成や、外国の病院見学や、
医師を続けるための
日進月歩の医学会についてゆく
受験生が、一生涯居ることになる。

夫には、
自給自足の妻か、
持参金月の妻でないと
華の世界のような
社交界にはとてもついてゆけないし
ついてゆきたいとも思わない。

華友達も
ぽつりと言う。

「先生も、、、ひどいわねー、、
サラリーマン医師と
開業の先生で
自分の病院を経営している医師と
混同してるのよね。」

こんなことを続けていると
毎日、、、インスタントラーメンになるという
舞台裏が、女たちには見えない。

医師、意外に、金の世界がくっついていると
世間では安易に思う。

器の売り子たちは、私に向かってくる、、、

「この世界は、お金が支払えない医師の妻は
首が無いのと同じである。」

こうした、、花を取り巻く社会勉強そのものが
華(世間様で、カッコイイという事をすること)は

高級なお店で、
贅沢するのと同じだけのリスクもあると
教えられたのでした。
華を習うという事は
社会のシステムを
習うという事で、あるのかもしれません。

教養と言う事の意味が
解るような気がしました。

     ***********

風評被害と言う「医師の奥様」という
美味しそうな丸焼きチキンには成りたくないし

見かけ実質は違う事を説明する気にもなれず、

ご期待に応えられずに
華の世界は退陣してしまった。

そして、本職の薬剤師として勤務しながら
大学時代の仲間たちと
行動資金だけで済む
登山を始めました。

でも、元来が
花も樹木の好きなので
登山や、ガーデニングや

植物学の方に、

どんどん趣味を広げていった。
野の花の美しさや神秘さに
そして可憐な香りに
ほほ摺り寄せて

幸せな「私と植物」の時間が
目下、、良い時間になっています。

年をとると
切り花は、管理も大変で
細菌の怖さもありますし
庭木に興味が映りました。


仲間と同行する
行動費用なら、
私たちサラリーマン医師家庭でも

年に何回かなら、参加できる。

今は、明日は明日考えよう、、、と

家族が、社会に役に立てる人生を
全うすることだけを考えながら

昭和生まれの人生も、
最後の幕と相成りました。