、
髪の毛は女性の命だと思いなさいと、、
丸髷の下駄に時代に
斬髪の刈上げで、編み上げブーツに
ピアノ科卒という
モダンガールの???
母に育てられました。
自主自立の未発達な小学校時代は
母の着せ替え人形のような、
母にとっては、村に閉じ込められた?窓を開けるように
戦後のストレスの解消の専属モデルでした。
なんで、、、ヘップバーン刈なん?
なんで赤い革靴で,学校へ?
なんで、、、
私のスカートが、ひざ下20センチもあるの?
************
日本舞踊に、弁論に、ダンスに ピアノに
三味線まで、、、
疎開地の村の夫人を集めては
お子様連れで、、、
おけいこ教室に
我が家の2階を開放していた。
古座や田辺や新宮から
お師匠さんを頼んで
疎開の皆が、やりたいおけいこを
意志さえあれば、
我が家の二階に落ちてるという
拾えばよいという状態で、
入会金も、場所代も要らない
お師匠さんへの実費だけの
文化交流会のようなゾーンを開放していた。
父が、疎開地の皆さんの
唯一の診療所の医師だったことも
人の集まる要素だったと
この年になって、、、
影の力を、、、使える女性だった母が
当時としては
珍しい日本女性の一人だと、、、
振り返るのです。
5月20日は、、、母の誕生日ですから。。
母の事、父の事、、、
甦ってきます。
*********(^^
母は結婚する前、東京の女学校で
日本では珍しいと言われる時代の
先生をしていた。
人を動かす極意を知っていた。
その時代は、父とはグループでの交流が続いていた。
大学時代の寮の同室が
知る人ぞ知る
山本直純さんの
母上にあたる、、、素晴らしい女性との出会いです。
音楽大学時代の演劇発表会の
日本髪の二人の写真は、
母の宝物でした。
彼女は後日
芸大の教授と結婚されてからも
母とは、一緒に「絵画」を観に行ったり
交流は、直純さんが産まれてからも
続いていました。
こうした、
素晴らしい人たちの出会いの中で
ごく自然に、
母の周りには人が集まるオーラーを
身にまとっていったようでした。
普通の母のように、
娘が産まれても、
主役は母でした。
輝く母、
戦争中の、筆舌に尽くせぬ苦労や、
戦地で、死んだ、3人の子供のお位牌が
朝な夕なの語りかけの対象となっていました。
守りきれなかったストレスが、
何かをして、忙しくする時間によって
解消されていたのかもしれません。
山坂超えて疎開地まで
かっての教え子の、成人した方が
訪ねてこられたこともあった。
疎開地で、新たに、小学校の先生をしたり
私は、「かの、、おばさん」と言う
三人の子供の母で未亡人んのお世話になって
成長したと、云えなくはないほど
母には、娘は「おまけ」のような
任務外の存在であるか?のような
引っ張りだこの時代でした。
復活の戦後は
傷痍軍人さんや
学校の先生、
役場の若い衆
村人の皆さん、、、
ささやかな商いをしている
商店のおじさんや、おばさん、、、
ゆっびん局の隣の
タバコや切手を売っている
ミニ焦点の親父さんは
ワシントン大学卒業で
戦争前は
カリフォルニアで、活躍していたそうです。
エリートで、
なかなか話しかけられないような
弁護士さんも、
我が家を訪ねてくださって、
弟が書いた「弁護士」の作文が
県下一位になったときは
母が話していた
尊敬する弁護士さんの
出世物語を、
弟が、作文にした結果
モデルの本人にいつしか知れて
我が家を訪ねてくれました。
「この子は、、
未来は医者か弁護士になるでしょうね。
これからの日本は、
この子たちの頑張りにかかっていますね。」
弁護士さんは「井ノ口さん」とか。。。?
記憶はあいまいですが、、、
そのような名前だった記憶がありました。
一緒に写真を撮りました。
弟が、大切にしていた
『ヤシカ』と言うメーカーの
掌に入る小さなカメラで、
私がシャッターを押しました。
弁護士さんは、疎開地では
出世物語のヒーローでした。
弟は、、、子供だったので
相手の偉さが理解出来ない時代なので
井ノ口先生にも
好き勝手なわがままな友達のように
話しかけたり、質問したりするので
先生の方が、大きく包んでくださり、
その日は、一緒に
我が家で食事をしてくださり、
夜、遅くまで
弟の相手をしてくださった記憶が鮮明に
甦ってきます。
井ノ口先生が、
おっしゃられたように
弟には
戦争からの復興の「団塊の世代」の役割が
天の采配であるかのように
大役が回ってきました。
父も、母も、
生まれながらの快男児の弟の為にも
アメリカの近代教育を受けさせたいと
鮭が命がけで故郷に還るように
疎開地からの
新しい時代の教育へと出発する為に
再び、、、東京へと向かっていきました。
母は、東京の開業用地を探して、
一足先に、開業医を必要としている下町に
長期に出かけました。
父の大学時代の同窓生が開業している地区にこだわり
240坪の敷地に古家のついた建物を探してきました。
リホームして、
大学生の下宿屋のように、
3畳と寝室だけのはめ込み机のついた部屋を
いくつも作り
本当に、、、下宿屋を始めてしまったのです。
その頃、戦争から還ってきて
28歳で早稲田の理工学部に進学した父の弟が
つまり、、、叔父さんが、
学芸大の才女と結婚することになり、
下宿屋にリホームされた家に
自分たちが管理人のように
学生たちの相談がてら、
面倒を看るからと言う事で
8畳、6畳、寝室の一角に同居することになった。
結婚式は、疎開地まで来て、
村の人や親戚や、友人が
観光がてら、集まって、
私は、、、母の着せ替え人形のように
オシャレをして
皆にお酌をして回る
いわゆる
フラワーガールを勤めました。
そのような関わり合いから
叔父さんとおばさんと、下宿の人たちと
同居の、東京進出生活が始まりました。
叔父さん、おばさんは、二人とも
学校の先生でした。
神戸育ちのおばさんは
スーパーオシャレで
女優さんのように美人でした。
下宿の大学生の皆を
私は、、
岡本のお兄ちゃん、、
高井のお兄ちゃん、、
エトセトラ、、エトセトラ、、
まとめて、、
お兄ちゃんと呼びました。
昭和29年頃の大学生のお兄ちゃん方は
広い土間の玄関兼炊事場に
自分用の七輪をずらーと並べて
自炊していました。
秋刀魚などを焼くときは
七輪を庭に持ち出して、
うちわで、そこらじゅうに秋刀魚の匂いを
ばらまきながら、
焼きたての秋刀魚を、
ご機嫌で食べていました。
母は、こうして
戦後の復活のための
東京の土地を手配して
何年かのちに
疎開地を出てきた父を
東京に向かいいれたのでした。
近所で開業していた
同窓の先生方が
懐かしそうに尋ねてきてくださりました。
父と合流した母は
同窓の開業している先生の御子息や
御嬢さんに
趣味として
ピアノを教えて差し上げていました。
先生方に応援された父は
医療制度の改革で
健康保険制度に切り替わった時代を
何とか、
「いつも、診療所に居る。」
いつ行っても診てくれるという
苦難の忍耐で、開業への出発を果たしました。
しかし、、、自宅開業は、あまりにも不健康です。
歩く、運動する、趣味に通う、、、、どれもできません。
環境も、七転び、八転び、、、の人生です
市谷の
歌舞伎門のある邸宅の
ぼっちゃまだったのが
震災で焼けました。
空襲で焼けました、
大学病院の勤務だったのが
戦争で
大陸に行くことになりました。
教官として、
綜合醫院の院長と、現地研修医への
西洋医学の指導とで
別格の待遇の家庭と、
女房や子供にも会えない激務の中
敗戦一年前に
帰国命令、、、
娘や息子を海外で失い、
体一つの帰還の旅路、
そして、、疎開、、、
激務だったが、、心の傷は癒えた田舎暮らし。
このまま、疎開地に居られたら
父は、、、もっと、、
長生きしたでしょう!
戦争からの復活は、
全土焼け野原、、
原子爆弾2発
焼夷弾の雨のあと
物のないことが教えたのは
復活は「教育に有り!」
猫も杓子も
目指せ!!!東大!!
敗れたものは激務に耐えて体力勝負の復活作業!
東大を出た秀才は
凄い働きをして
敗戦の日本を牽引する人と、
東大がゆえに、
自分らしさを求めて、
待遇のよい仕事場を求めて徘徊する
青い鳥の症候群の人に分かれた。
もったいない、、、、
あの人。。。
東大出てるのに、、、
雀たちは、わけもわからず、、、
時代も読めず、
能力を発揮する事のできる日本にならねばと、、、
何人が、、、気が付いただろうか?
人材と、職場と、仕事が同時に復興しないと
戦後の復活は
遅れてしまうのでした。
そして、、、弟の時代、
復活から、耕された畑は確保した。
あとは、、、団塊の時代の凄い奴らが
この日本を
ここまで復活させたのだから、
ちいさんことにこだわって
女さかしゅうして、牛売りそこなう、、ではないが、
政治の舵取りは、日本丸に、錨をいっぱいつけるから
舟はぐるぐる回ることもできず
船長は、皆に解らせる説明文を考えるだけで
前に進むための
ブレーキになってしまってはいませんか?
又、日本の政治家は
タックスヘイブンには
名前が載ってないようですね。
本当にスケールの大きな悪い人は
外国にいるようですね、
野党の皆さんも
あたら、、能力のある東大卒の知事さんを
辞めさせてしまったら、
天ぷら屋の領収書も大切ですが
角をためて、牛を殺す結果になったとしたら
損害は、巨額な人材費用となりませんか?
頭の良い人には
頭の良い、女性秘書のやり手をセットにして、
細かいことは、
女性のエリートが引き受けて、
知事さんの
国際人を、使える日本の国会にならないと、
誰がなっても、
猪瀬知事さんのような、、、
せっかくの、オリンピックを担当できない知事さんが
椅子取りゲームのように
ドタバタと、入れ替わる気がするのです。
私は、、、見えない終活推進お化けに出逢いました。
とうとう、、、、正体も現さず、、、
いまだに、、、見当さえ尽きませんが、
70過ぎた老人家庭から、
外から見て、贅肉に見えるものを
被災地復興に協力してほしいと
言われているように思えて、
白色申告で、ささやかな
一軒しか入っていない借家APを処分して
多分、
次世代の復活に使われるのだろうと思われるから
空に投げた。
若い者の時代のエネルギーに回れとばかり
空に、投げました。
喪失感はありませんが、
人生の終焉の
70代が、とうとう来た。、
終活の動きから始まったと
わが身にもやって来た
人生の片づける幕を
正体不明の風が
吹き飛ばすように
目もとまらぬ速さで、
吹き飛ばして、かたづけた。
ストレスが大きかったせいもあり
全身、板切れのような
肩こりの伴った50肩を病んでいる。
負けるものか!
まだまだ!
枯れてなるものか!
父も母もエールを呉れている。
亡き父が
54歳で早逝したのに
父の引き出しには
何も残っていなかったのを思い出します。
私には、、結婚以来、
1000円のラッキーの洋服以外
買ったことはほとんどないから、
死んでゆく一日前に
業者に電話すれば、その日に片付く。
問題は、無趣味の夫が
仕事の傍ら、
ストレス解消に買いまくった
100個ぐらいの、、、けん玉。。とか
一つ2000円はしないだろう
地下街で衝動買いした
卵大の、黄鉄鉱とか、藤色の輝石とか、
100個はあるだろうか?
45年間のお参りの毎
ひととおり買わずにはすまない、、、お守りとか、、
靴下、、100枚
パンツ、、
シャツ、、、
手当たり次第に
ストレスで買う。
一か月で話せる英会話のブック、
DVD
開いた形跡のない洋書
人の物品は処分できない。
夫の雑貨は
我が家を埋め尽くしている、
大きな病院の外科のコーナーには
いつかは、自宅に持ってくるだろう雑貨が
10畳分は覚悟して
裏の離れに収納して
シュレターをして、捨てねばと
覚悟する。
離れは売って、旅行費にできるのは
まだ、5年や10年はかかりそうだ。
お母さん、、、あなたは50歳代で未亡人になりました。
あの時は、、、可愛そうにと
私で出来ることは何でもしようと思ったけれど、
人は、、、いつかは死ぬのです。
裕次郎さんのような
長かろうと、、、短かかろうと
悔いのない人生を過ごせるように、
人生は、、、お金でも、 名誉でも、、無い!
まして、、、物ではないと思うのですよね
何だかわからない私の人生は
ハツカネズミが、、、わっかを回しているように
繰り返しのように思いますが、
孫に恵まれた、未来への矢を放てたことだけが
快挙でした。
息子よ!
あなたも、、、41歳です!
家なし、車なし、貯金なしでは
結婚は「絵に描いた餅です。」
ローンでよいから
自分の城をかまえ
健康な女性と、出逢て、
孫の顔を見せてください。
それまで、、ママは死ねません。
心から、、、世話のかかる子供ほど
その子の事が、気になって仕方がありません。
今日、、生まれたお母さん!
あなたの孫を、幸せに導いてください。
人並みに、、、家庭を持つように
愛しい人に合わせてやってください、、、
朝になりました、、、
お母さん、、、おやすみなさい