第二次世界大戦のどさくさで
父母は国策の掛け声で8人の子供を育てるはずであった。
しかし、、、戦場から引き揚げたときは2人と胎児出会った。
焼夷弾の雨降る中を疎開先にたどり着いたときは防空壕の中で
私を出産しました。
戦地では男の子2人、女の子一人、そして流産が続き
産めや増やせの国策のさなかの敗戦でした。
疎開地では、笑顔もなく、心のバランスをとりながら
明日に生きる力を、皆で支え合っていた時でした。
戦争を知らない、、、新しい復興に向けての朝日のように
戦争を知らない、、、弟が生まれました。
七か村無医村だったところに、
戦陣外科の現場の経験のある外科医が、疎開してきたのですから
村は、診療所を用意して、迎えてくれました、
人工はにわかに3000人ぐらいに膨らみ続け
都会から踊りや唄の師匠さんらも呼ばれて
一大復興ムードが盛り上がり始めたとき
「医者の家に、、、!!!男の子がうまれたよ~~~!と
村中に伝令が回りました。
大勢の人が、、、お祝いに駆けつけてきて、
にぎやかな日が続きました。
弟が生まれてから、母がどんどん元気になり。
父も、暇さえできると、
弟を腕に抱いて、、、
「この子を!見てくれ!、、とばかりに、、、その魅力に吸い込まれていました、」
敗戦で、打ちひしがれていた疎開地に、「復活の希望の天使が誕生しました、」
一大ベビーブームが起こりました。
世に言われる、、、「団塊の世代の誕生です!」
父は希望を取り戻しました、
母は、、笑うようになりました。
私も、、、弟を見て、、宝物のように思いました。
日本は復活に向かって、
戦争を知らない団塊の世代の新人類が
日本をけん引して、敗戦から立ち上がってゆきました。
打ちひしがれた大人たちの
しおれた花のようなげんきのなかった、、、心に
朝日が差し込むかのような、、、
新しい命の光が差し込んだのでした。
弟の誕生は、日本が生き残っているという
内なる心の存在に元気を流し込んでくれたのでした。
団塊の世代の弟たちよ、
君らは、、、日本の歴史に残ってゆくだろう。
つづく
やがて、成人した弟たちの世代は「団塊の世代」と呼ばれた。
ガイヤの夜明け野番組にも
何回となく登場して、ファィトをくれた、ファイトマンの集団が
日本をアメリカや世界に向けて、追い付き追い越せの経済大国への発展の
大きな原動力になった、新しい考えの世代でした。
弟は、成人してからは、築地のがんセンターの黎明期に、
千葉大学の外科の教授の同意を得て、同じ千葉大学の市川先生に見いだされ
ガンにかかって絶望だった時代から、早期発見し、がんとともに勤務する時代まで
多くの困難を乗り越えたがん医療の先発隊の黎明期に全力で走り切ったのでした。
CTって何ですか?、、、と、各課の医師もよく知らない時代に、
小さな建物の中で、画像の改良を、日本の東芝と言われていた会社の技師や、
後に、東北大学の教授になられた物理や工学や数学や理類に天才的な方達と、
円卓を囲んで、多くのジャンルのエキスパートの知恵を結集して、
医師が必要とする場所が映し出される画像を目指して早期発見のがんとの闘いに
明け暮れた人生だったと、単行本になった「がん回廊の朝」「明日への闘い」や、、、
多くの外国の雑誌の記事を、子育てをしながら、遠く北海道で読んでいました。
コロンブスの卵を立てた出発点から、初期の苦労を知らない世代の時代が、
そびえるように、立派な建物になったがんセンターが、いつか、黎明期の人たちの
苦労に気が付くとき、出来上がった名誉の上にさらに、、、
新しい実績を重ねえ行くのは
創生期の医師たちの歴史の上に、新しい歴史を上書きするのではなくて、
ガンという基礎も臨床も、機械の世界も、コメディカルも、精神面も、
薬面も、、、円陣を囲んで発展してきた歴史を大切に残しながら、、、
未知なるものと戦って今日に至った、医学の闘いの書として、歴史のように
後人に大きなヒントと勇気を与える発展の書として、、、
残してほしいと思いました。
世間に認められた、名前と、地位をめぐる簡単なものではないという
学門の詰まった、戦後の日本復活の
「がんとの闘いを通して、日本人の意識の高さを後人に伝えてください。」
名医の見つかる診療所を民間に優しく伝えるTV番組に、
がんセンタ―の黎明期の医師が出演するとき、
苦難に満ちたがん医療の発展にささげた老医師に
心から、、、感謝をしている、、、70歳代のお茶の間ですよ。
つづく