花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

忍者村のガンギノヨウナ雪の土手に囲まれています。

2021-02-01 05:08:26 | Weblog

2021年の2月1日、、、

後ひと月頑張れば、、、春の雪に向かう、、、2月!

         

昨日まで、北極の白クマさんの親子のTVを思い出しながら

黙々と、雪を鋤くっては、圧縮して、

積みあがった雪山にめり込ませて

雪の置き場が無くならないように、圧縮しながら積み上げてゆく。

戦争のとき、顔も知らない兄二人と、姉一人

大陸に近い仁川あたりで、、、日本に帰還できずに死んだと

           

母は、、、疎開地で、小学生になった私に話したことがあった。

「賽の河原で、、、あの子たちは、石を積んでは鬼が崩すのよ、、、。」

小さな御位牌を3つ、、、箱型になった漆の黑い位牌に入れて

朝な夕なに、小さなお膳を備えては、、、

お参りしていた母だった、

戦前の母、、、戦時中の母、、、疎開地の母、、、戦後後の母、、、

私は、写真の姿が、、、同じ母とは思えませんでした。

         

多くを話さなくても、、、写真を観ていると、、、

戦争で、犠牲者になるのは、、、女性と、子供!!!

集落の庄屋のような、、、旧家に生まれて

7歳までは、幸せだったはずの母、、、

母のお母さん、、、私のお婆ちゃんにあたる女性は

昔の日本の集落にありがちな、、、旧家同士の結婚で

祖父は校長先生、、、祖母は当時としては珍しい女性の先生だった。

文明開化の明治の中頃は、

穏やかならぬ時代の変遷の真っただ中ですよね。

丁度、、、私たちが学生だった頃

ブラジルに移民した日本人んを見送るように

祖父母の時代は「ハワイ」や、カリフオルニァの砂漠に開拓に

南紀からも集団移住が有りました。

日本人町の基礎が出来上がった事でしょうね、、、!

 

現在の学校制度の中では、先生は激務の中

ブラック企業もあり得ないほどの、、、

残業で、、、頑張ってくれているという報道に、頭が下がりますが、

祖父の時代の校長先生は、シルクハットの一歩手前の正装で

毎朝の朝礼には「朕、、、思うに、、、」と

陛下のお言葉を訓示したそうです。

両親が先生で、母と、二歳下の弟が生徒の中に居たわけですよね、、、

之って、、、小さな世界の教育になってしまうと思いますよね。

祖父は文明開化の先端のハイカラさんだったのでしょうね

アメリカに渡たのですよね。

        

ロス、、、から昔のルート66のような町から町へと

アメリカを知りたくて、、、ナイアガラの滝までたどり着いたのですよね。

子供のころ、見せてもらった16ミリの映画は

ナイアガラには木で出来たような、

おそまつなエレベータもどきが映って言いて

  水浸しに水しぶきを浴びて、びっしょりとべしょになって

ナイアガラにたどり着き、

崖の上から滝を観ている若き祖父の姿が映っていました。

アメリカで、多くの事を習って帰国した祖父は

依頼されるままに町長や、村長、、役場のトップ、、、校長先生と

田舎には文明開化以来、祖父は重宝な文化人であったのでしょうね。

母は、両親が先生の学校に通学するのが

         苦痛で仕方が無かったと言っていました。

そして、小学校低学年のころ

     現在のcoronaに匹敵するような伝染病、、、肺結核に

           先生だった祖母が罹患して,他界したそうです。

母は、集落を後にして、弟と一緒に

親類の多い「材木の都」と言われていた新宮に転出して

 佐藤春夫さん、その妹さんとは同級生で。

 文学の世界に出逢ったようでしたね。

又、NHKでは音で詩を書いたラジオのイタリア賞に輝いた

      Sさんのお母さんとも同級になり、

       その後、彼女は

      画家の恋人とフランスに渡っていったそうですから

     新宮は世界に向けた文明の育つ

            立地条件だったのかもしれません。

母の親戚は病院の院長さんだった人もいました、

 今でもひ孫の方が

         病院を継続していらっしゃるので

   南紀は今でも故郷です。

      母は、その後

 新宮の女学校を卒業して、東京の国立音楽大学に進学して

           

ドイツ人だった音楽の先生のもとで

クラシックの音符が日本に到着したばかりの   時代に

ムーンライトを演奏していたという、、、ハイカラさんでした。

          

母のアルバムには、ハンチングと言ったらいいのかな?

つばの無いハイカラな帽子をかぶり

テニスのラケットを抱えて、いる、、、

短パンで胡坐をかいていつ写真が

弟が預かってくれた父母の仏壇の前に

    小さな額に入れて置いてありました。

「僕は、、、この写真が一番好きなショットだよ、、、」

母を眩しそうに邂逅する弟が思い出されます。

雪を掻き乍ら、雪の塀を積み上げながら、、、

頭の中は、、、走馬灯のように、、、

自分が自分であった子供時代を振り返りながら

          50年と言う月日が過ぎてゆきました。

北海道の来てから、、、我が家の男たちは

雪を掻く姿を魅せてくれたことはありません。

これからも、、、私が雪かきをして、、、

我が家の男たちは、、、仕事場に直行してゆくのでしょうね。

雪掻きの方が、、がぜん、、、楽ちんですね、、、

coronaが居ないだけでも、、、!

私が必要とされるのは

体力が有る限り、OKですから。

雪掻きは失業の心配もありませんし、、、

物事は時代に世って、幸せにも、なるし、、、

自分を幸せにできるのは、生きているという、、、

     実は、、、すごいことなんだと、、、気が付くことかもしれませんね。