花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

団地開発と治水作戦を思うとき

2019-10-17 05:32:09 | Weblog

日本は海に囲まれた島国です。

太古の時代より、水とは深いかかわりを持った民族です。

治水を出来る者は国を制す、、、と言われながら

歴史は繰り返してきました。

緑化しても、伐採のあとに育った山の樹は小さくて

山を守る様な根の深い縄文杉の時代の樹はありません。

昔、、、70年も前の事です、

疎開先の和歌山の山奥のお寺さんに、、

一本の大きな「銀杏の樹」が在りました。

銀杏は1科一族の亜科のない商物ですよね、、、。

銀杏は「茶わん蒸し」にしたり、薬用にしますよね。

後醍醐天皇の時代にこの辺りは

天皇様をお守りするお寺や、

いざというときには

戦力となる御坊様が修行をしておいででしたそうな、、、、

世界遺産になる前に、お爺ちゃんに連れられて

毎年、高野山に行きました。

お爺ちゃんは後醍醐天皇様にお仕えした村の旧家のじなんです。

今でも、長男家は、代々の蔵を守って、居るのではないでしょうか?

旧家は、長男だけが重んじられ、

次男以下、女性も、精いっぱいの教育を受けて、家を出されました。

しかし、それなりの役割があり

祖父は、今の筑波大学の前身の師範学校を卒業して渡米して

教育者として、明治の時代の生まれで、開国の激動期の校長先生でした。

高野山では「競書会」というのが在りまして

日本三筆と言われた弘法さまのおひざ元で

御習字を教えてくれていました。

お爺ちゃんの勧めで

私も、「競書会」に入って、

はん紙から

にじむ墨を

「洪水の時の田んぼへの水害」のように

子供乍ら、硯の端に筆を押し付けて

「しっかりと水分を絞ったのでした。」

にじむ字は、、芸術的であると同時に

私は怖いと思う両方の感情を、

自分の御習字の「にじみ」を見ながら育ちました。

両親は東京の大学で、モダン化する日本の最先端の文化を享受しながらも

300年の鎖国は、国内の保身教育が暗黙のうちに身に付いた日本人は

独特の、素晴らしい文化と、個性ある芸術は残せても、

言葉の違う、、、通じない、、世界と、開国後はどのようにするか?

日本の「旧家」も、守りと、開国の間で

独自の文明開化の行く末を想定しては

、一族から、

インタナショナルな人間を育てねばと、

焦った時期でもありました。

お爺ちゃんの長兄の家族は

たぶん今でも、

旧家の周りの山や田畑を守っているかもしれません。

日本の旗のもとに、戦場で医療をもってご奉公していた父が

来るべき次の戦地へのトラックが迎えに来なくて、

はるばる、、、日本から娘婿である父を迎えに

祖父が単身戦場に来ていたそうです。

そのまま、仁川迄帰ってきて、妻子と合流して、

最後の日本との連絡船に乗れたそうです。

祖父は、アメリカの教育を受けていたこともあり

時の政治家の方に頼まれて、串本の町長とか、

山村の村長さんとか、新宮や、御坊や

はたまた、和歌山市まで

市役所甥っ子が勤務していたㇼ、

三つ揃えの礼服と、鎖のついた銀の時計のスタイルしか

思い出せないのです。

父は「命の恩人である祖父」を大切にしていたのが

子供心にも解ります。

一見、、、カカア殿下のように見える我が家でしたが

父は祖父を、祖父は父を尊敬していたのが

子供心にも解りました。

戦場からの引き上げの父母。

着の身着のまま、、、

焼夷弾の落ちる東京から、関西へ、

大阪から、汽車で串本へ、、、

爆撃が始まっていた防空壕の中で

女の子が、産声も挙げられない栄養失調で生まれてきたそうです。

泣き声をあげられなかったという、、、おかげで、

防空壕の中の、日本人の仲間からの駆逐は避けられたそうです。

終戦前の直前の日本は、、、こんなところにも、、、B29の

ゴンゴンゴン、、、が唸っていたそうです。

疎開先は、山奥へ、、、山奥へ、、、

30軒も家が有っただろうか?

電気もつかない山奥で、

自然の湧水が家族を守ってくれたそうですが、

すぐ下の道は、台風が来るたびに泥水で埋まり

とり残されてしまうようなところだた。

戦後、、、治水が始まり、

川からあちこちに水路が引かれ、

田畑を潤し、

洪水を最小限にはしていたそうです。

やがて、終戦と同時に

傷痍軍人や疎開する町育ちの青年たちや、

壮年の家族で、一気に3000人以上は住んでいるのではないかと

一気に、町のように開けていきました。

しかし、、、電気もない村落や、学校もない山村の暮らしは

把握できない文化の違いがあり、

治水の為の議論さえ、町からやってきた疎開の

ここから言わせれば「よそ者の、おせっかい」だった時期が続きました。

和歌山という疎開先の山村では

台風シーズンになると

雨風水害、崖崩れが直撃してくるところでした。

このあたり、、、7か村で唯一の医療機関の診療所の意思だった父は

がけから、落ちたトラックの運転手が、

顔面の骸骨がむき出しになっているような怪我人を、

そまつな手術室で、治療して、

1か月も経つと、、、顔は元の顔に戻っていたので

私は、父を尊敬しました。

しかし、、、洪水の日、

川を見に行った息子を抱えて、飛び込んできたお母さんの叫びに

父は答えることが出来ませんでした。

手も、足も、すでに硬直した息子に

そまつなモンペ姿のお母さんが、しがみついて

息子の名前を呼び続けていました。

父は、、、ぽつんと言いました。

医者は、、、何にも出来ない、、、無力を感じるよ。。。

このようなことが繰り返され、

「ダムの話が、疎開中の一部の情報通から話題にされる時期が来ました。

お爺ちゃんは、このころ

村から、頼まれて、村長さんや、学校長さんや、

役場の指導者などを、なんでも引き受けていました。

姿かたちは、、、三つ揃えと、銀時計の山村に建てた洋館の家でした。

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 要点をまとめると、、、こういうことになります。

明治生まれの私のお爺ちゃんは、、27歳の時

3ヶ月もかかって

ゴールデンブリッジのある港から、

アメリカの「カリフォルニア州の学校」にに留学していました。

帰国してからは、串本に住んでいました、

頼まれ町長や、村長さんや、校長先生をしていました。

その時は、毎朝、白い手袋をして朝礼をしたそうです。

戦争が終わってからは、

川を遡り電気もない山村に疎開したそうです、

山村のぽつりぽつりとした家も

疎開者の急な移入で3000人ほども

人が行き交うにぎやかな山村となっていました。

頼まれ町長をしていたさなかに

村の人たちの間に

水害を無くし、

電気を通じさせる為の「ダム」を創ろうという話が持ち上がりました。

しかし、、、ダムをつくれば、

何軒かの家がダム湖の湖底に沈むことになります。

鮎の遡上する澄明な川が

ダムが出来れば20年間以上は

「普通のどこにでもある河川」のように

鮎の、、、、みごとなまでの集団遡上は見られなくなります。

鮎が生活の糧になっている村人も居ます。

反対意見も飛び交う中で、

おりからの強風の中、

タバコの火が原因らしいとのうわさの中

山火事が起りました。

その年の秋、

台風で、家も流され、田畑も泥にまみれ

戦後の食べ物の不足する中、

米も収穫できないという被害に遭いました。

疎開してからしばらくは、ダムの反対や賛成でごたごたしていました。

早川さんという代議士が村にやってきて、

ダムが施工されることになり

国も動き出しました。

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そのとき、アメリカで学んだ近代の知識を支えに

国会議員の方々と、

東京と和歌山の間を「蒸気機関車」で行ったり来たり、、、

議論の最中も、三つ揃えの姿は、目まぐるしく動き回っていました。

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夏の終わりに、大きな台風が在りました。

お爺ちゃんの村長さん時代に

ゴールデンゲイトブリッジのような

吊り橋が架けられていましたが

がっちりとした木材ではありましたが、

その真下の橋げたの上まで水が来て

頑丈ではありましたが、

木製の橋は流されそうな

ぎりぎりまで、浮いたことが有りました。

その時の台風で、家が流されてゆくのを見ました。

もう、、、猶予はありません。

ダム建設の工事が始まりました。

このあたりの7か村で唯一の外科医だった父は

ダム工事の作業の人々の怪我や、事故で、大変な毎日が続いていました。

寝る暇もないくらい、工事現場の擦り傷切り傷以上の傷を抱えて

真夜中でもやってきました。

工事一段落のコンパも、

酒が入るとボクシングやレスリングがはじまるのでしょうか?

旧い権力者が代々村のしきたりを守って存続してきた村落に

疎開者が、、、ドヤドヤト入ってきて、

おまけに、、、ダム工事が始まったわけですから

治水という近代化も、

「ランプ」や「ろうそく」や松明で生き抜いてきた地元民は

寝耳に水のような驚きだったかもしれません。

今回も、多くの村落や団地の水害が報道されるにつけ

疎開当時の洪水を思い出し、治水の難しさに今更ながら

板こ1枚下地獄の天災の猛威に完敗の悔しさがあります。

一部の河川敷では

今回も、、、村人の反対が有り、来年の土手づくりが決定していた矢先

土手の建設が間に合わなかった地区がTVで放映されていましたが、

中国やもっと奥地や、マチュピチュの段々畑の美しさをどのように思いますか?

あれは観光の為ではなくて、治水の先生だと考えると、

木と、石と、段々畑と、てっぺんからの水路と、

養魚と伊豆のわさび畠と、、、

地下の水路で、琵琶湖疎水のように、ため池につなげて行くとか、、、

何とか総合利用で、治水ができないものでしょうか?

国も、業者も、学者も円卓に集い、総合力で、

治水、農業、養魚、観光と、一つの的に向かわないで、

未来の日本の運命がかかているとの事に纏められない物だろうか?

疎開先での祖父は、ダムが出来上がった段階で、

地元の次の村長の実績として、山も、土地も、洋館も置いて

父とともに、村人に見送られて、東京に向かいました。

生まれ故郷への愛情が、戦争の痛ましさの中で、

復活の鏑矢となったと幼かった時代を振り返る。今回の水害です。

去年地震被害で、半壊した我が家は

外側の破壊されたモルタルは撤去して、

サイぢングをして、危険予防はしましたが、

内部の、電気も水道も、引き直さなければと思いながら

やる気が起きないのが、、、災害後の一番の敵ですね。

サイぢングで、危険は撤去できた者の、

歳よりは、現金計約でないと、引き受けてくれないのがネックですね。

後期高齢者になると、、、貴慮Kが大事ですね。

息子達は、3人の子育てで、親どころではなく、

自分たちの事で精いっぱいの共働きですしね。

 

ふと、疎開時代のダムが出来る前と、そのあとでは

地元の人は、鮎の遡上が始まった20年後までは

受け止め方はまちまちな、、、価値観の違いや、文化の違いは

どうすることも出来ません。

天災の前には個々の主張は意味がないという、、、猛威ですものね。

人の心の不思議に出会った思いもしました。

::::::あれから70年以上たちました。

現代は、鉄の橋に架け替えられていますが

デザインが優雅な吊り橋が、私は大好きでした。

好きなデザインと、、、安全性とでは、、、天秤にかからない選択です。

この橋の上に来ると、

子供の頃の70年前の事が思い出されます。

同じ時期に、

村のあちこちの田んぼが流され、

萱葺きの屋根に川原の、丸い石を無数に乗せた家が、

次々と流されてゆくのを

私は、幼いながら、

震えながら観ておりました。

この台風の後、

「ダムをつくろう!」

村人も疎開中の3000人近い他の所からのる住人も

一致団結して、

国との折衝に前向きになり、

その時の町長を頼まれて、

お爺ちゃんは日夜奔走しておりました。

水害と、、、ダムと、、、土手、、、、

そして、植樹と、、、

30本に一本は、、、山崩れの防止の為にも

大きな樹は切らないで残すのも、

雪崩のような山崩れは防げるのではないかと、、、

思うのですが、、、

村人はお寺の銀杏の樹も切ると言い出したモノですから

祖父は、夢を見た話をしました。

銀杏の樹の中から、美しい女性が現れて

真夜中の枕元に立って、

「私は銀杏の精です、、、あの木を切ったら私も死にます、、、。」

祖父は、皆に「不思議な話」をすることで

お寺の銀杏は、切らないことになりました。

70年前には、戦後の復活と、

天災の水害からの復活と、

未来を見据えた、水害の予防と電気を通すという、、、

反対する理由が見つからないと思われることにも、

近代化のメスが入り、

自然の形が変わることへの反対は根強く

理屈では割り切れない

「自然のままに、、、自然に流されるのなら、、、仕方がない、、、」と

不可解な心に信心のような不思議が重なり、

国の方針も、信仰が難航したと思うのでした。

 

村落では、何千年単位で大切にしてきた何かがあるのでしょうが、、、

一つ山を越した十津川では、大洪水で、

その村からは北海道に移り住んで

あたらしい区域が誕生したという

地域の歴史のパンフレットから知りました。

ダムが出来てから、すぐに、母と子供たちは

東京に帰ってきましたが、、、

今回の、水害では海抜0メーター地帯として報道されていました。

市ヶ谷の高台に有った実家は戦争の爆撃で焼失して無くなったこともあり

江戸川の近くのお寺さんの後に診療所を建てたのですが

肝心要のドクターである父が、

家族の去った疎開地の村に2年間も存続して働くことで残り、

水害の予防と、電気が通じた喜びの声は

単身で頑張って村に残った父からの手紙で

知ることが出来ました。

祖父は、全ての働きを、この村落の旧家の次期村長さんにと

全てを、引き継いできたあと、

全財産も山も、貯金も、、、ダムとともに無くなったけれど、、、

ダム湖に沈んだ村人の家の事を思うと、

娘婿の私の父が東京に帰れる日には

家も、全て、此処に置いて一緒に東京に行くからと、、、

祖父がかかわったダムには

、、、祖父の足跡を残さないで

 

東京で、人生の幕を降ろした祖父でした。

しかし、、、叙勲されたという事は、、、

祖父の下ことは、国の巨視ガンから見ると、、、

治水も評価されたに違いありません。

水害も天災であるからして、、、

解決方法は長くかかる、、、

イタチごっこの水と集落。

川と、堤防。

水害からの一日も早い復活を祈ります。

日本と、、、水害、、、日本沈没、、、映画だけで終わってほしい。

水戸黄門様の神通力も、、、天災だけには、、、どうにもなりません。

昨日は、石炭文化時代の汽車が走る雄姿を、

おとといの、真夜中から、

朝の番組まで観ていると、

立ち上がる元気もなくして、

ボートしていたのですが

汽車の汽笛と、車輪と走る雄姿と煙に力を戴けて、

雪囲いの半分を終わらせることに、成功!

NHKのD51など、、、

地震や水害で、限りなく落ち込んでいたやる気のなかった気力を

汽車が、60度の石炭をくべ乍ら走る煙をたなびかせて

雄々しく走るのを観ていたら、

祖父や、父の、不屈の戦争からの復活や、

電気や治水を引き込むという未来の為の闘いの中で

見せてくれた、未来への奉仕に

ジーンとくる

汽車の姿と重なるものがありました。

陛下は「水を研究されている学者の先生でもいらっしゃることから、

令和を通して、、、日本の水の災害に、やんごとないお立場でお忙しいとは思いますが

お知恵を、戴ければ、日本の治水は、日本全体の視点からの工事に切り替わるのではと

お茶の間の75歳の政治音痴のばあやは、、、未来の日本の治水の発展を思っています。

 

 


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