花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

雪は天からの手紙。。。。。

2020-02-27 01:54:02 | Weblog

雪は天からの手紙、、、雪の研究で知られている 中谷宇吉郎先生の随筆集ですが、

雪を科学した目は、昭和の時代には、岩波の文庫本を読み感動したものでした。

雪を知らない南紀に生まれて、13歳まで、真冬でも薄いセーターで飛び回っていた。

山村に、急に人口が増えて、山村銀座になり、電気の無かった山奥に

ダムが出来て、電気がともりました。昭和28年ごろだったかな???

もともと東京に何百年も住んでいた父の先祖のお墓のある東京に帰ってきたのは

昭和30年になろうとしていた前後でした。

正月から2月の終わりにかけて、、、うっすらと雪が降ったのです。

そして、高校2年生の時、30センチほど積もる雪が東京にも降りました。

年子の兄と、私は、庭に出て、雪だるまをつくり、

初めてであった雪らしい雪に感動しました。

翌年、弟の受験の時には、大雪が降りました。

雪は魔法だと思ったのはこの時です。

ちょうど受験になって、龍口直太朗さんの英語の問題集が面白くて

試験勉強のような深刻さではなくて、、、読みふけっていました。

「雪は、魔法である、、、目の前の世界を、別の世界に変えてしまう。」

私なりの翻訳でした。

その時、、、先生の「雪の研究」の事を

父から聞きました。

早速、、、図書館で、人工雪と格闘する中谷宇吉郎先生の文庫本を買ってきました。

私的な南国育ちの私にとっては雪を視て驚く段階であって

雪を科学するなんて、あっち向いて,、、ホイ!に近い、、、

考えつかない視点でした。

受験雑誌の討論会のページに各校から一人参加することになり

たまたま時間の都合がついた私が雑誌社の学生討論会出席しました。

その時の記事の掲載月刊誌が無料で送られてきて、

扉や目次の背景が、北大のポプラ並木がカラー写真で写っていました。

高校3年生の時に、クラスメートと、北大を受けようという話になって

彼は現役で一発で北大理類に合格しました。

私はと言うと、、、願書も、飛行機も、、、、バカ呼ばわりされたうえで

こんこんと叱られて、取り上げられて受験の前段階で敗北しました。

中学校の時も、先生が教育大学附属と御茶ノ水附属高校受験の願書をくださいました。

田舎っぺの13歳までの疎開暮らしの基本がある私には

ピンと来ない学校だったものですから

兄と母に相談しました。

当時は、従業員も、居候も17人ぐらいの他人との同居家族で

我が家だけでも、6人の家族でした。

父は、疎開先から生まれ故郷の東京に初めての下町開業をしたときでした。

皆を養うのは大変なときでした。

兄は、、、母が神妙に視ている願書を横から引っこ抜きました。

神経症のような、厳しい目をして、

「お前は、、、毎日、、、御茶ノ水、地下鉄と、

東京横断の電車賃を使って高校進学するつもりなのか?

女が、受験校に行って研究者にでもなれると思っているのか?

隣に、都立高校があるだろう!」

 

私の見ている前で、、、願書を破いてしまいました。

「受けないのであれば、、、先生にお礼を言って、返却せねばいけないのに!」

私は、鬼のようなことを平気でする兄に、、、クッテカカリマシタ。

 

この事件の後は、、、私は、誰も頼らないと決心しました。

大學を卒業したとき、薬剤師と、高校と、中学校の物理化学の教員免許、

衛生検査技師、衛生管理者、、等の免許を取得して、

母に報告していた時、

長男が入ってきて、、、教員免許を破ろうとしました。

7年前の願書破り捨ての

鬼の兄貴の顔とは違っていましたが、

あの時と違うのは、、、母が、怒った事です。

「その免許を破って御覧なさい!!!、、、」すごいケンマクで制止してくれました。

兄は、一瞬!ビク!となって、、、振り返りながら、

捨て台詞を残して、去ってゆきました。

「免許書は、薬剤師の国家免許所一枚で沢山だ!、、、

椅子は一個で好いんんだ!!

ケツは一つしかないのに、、無駄だろう!」

。。。。。。。。。。。。。。。。

大学時代に父を亡くした私は、

家庭教師や、

英会話を駆使して神社仏閣の外人向け説明係や

西銀座ドラッグでの夜間売り子や

市場調査のデーター分析が主な卒論を選んで、アルバイトの時間を捻出していた。

それでも、兄から見ると、、、厄介者で、、、

短大を勧めたのに

4年制大学を選んだ、、、生意気な妹だったに違いありません。

昭和10年前後に生まれて、明治生まれの両親に育てられると

男尊女卑もはなはだしい教育を受けながらも、

日本復興の担い手である男性は、狭き門は大学だけではなくて

責任感で潰れそうな長男だった。

私が高校2年の頃、

未来の嫁さんになるという女性が、

両方の親の反対を押し切って同居していた。

。。。恋なのか。。。これが。。。

私には、全くわからない世界だった。

基本的に私は独身主義に近い根性だった。

男に対して、異性を感じなかった。

同級生とか、先輩に近い感情だったから、

理解できないことだらけだった。

自分で言うのもおかしいが、、、

男性側からすると、、、私は異性に見えるタイプだと

年子の兄貴は言っていた。

「お前は、根性は男並みだけれど、容姿や、立ち振る舞いは女性独特で

親しそうに、ざっくばらんに頓着なく話しかける性格は誤解されるぞ、、、」

見かけだけは、、、、女性に見えるからな~~~お前は、、、」

ある日、、、高校から帰ると、、、

私の部屋は無くなっていた。

砂漠の魔王,、、カバヤ文庫の全巻。。。大地、、、集めまくった手塚漫画、、、

私が、教科書の後ろに積んであった愛蔵本や、雑貨は、

兄の愛車のトランクに入れて

未来のお嫁さんと、一緒に出掛けて売ってしまったと言った。

 

部屋は父が生きていたころ使っていた、外科の入院室の端にある3畳の部屋で、

一間の上下の押し入れのある部屋に、教科書などが無造作に積み上げられていた。

当然ドレッサーは入らない、

制服が一着しかなかったので、ドレッサーの中は漫画だらけだったから、

要らなくなった。

窓を開けると、、、

横浜市立大学に通っていたお隣のお兄ちゃんの窓が真ん前だった。

長い廊下の端っこで、、、隔離されたような部屋だったが、

 

東京都で、無料で、3畳は、出来すぎかもしれないと、、、思い直していた。

 

「いいか!、、、≪御義姉さま≫と呼ぶんだ!、、、わかったな!」、、、

兄は目を吊り上げて言った。

亡き父の後を責任をもって継いだせいもあろう、、、。

自分が家長となった以上、

身分制度のような順番を露骨に表現することであろうか?

実力未完成なうちに家長となって、

従業員を満足させなければならなかった兄は

私を、皆の前で、配下として扱う事で、

他人には言えない「自分がドン」であることの認識を促すツールに

妹を使った居るのだな?、、、と思った。

ま、、、良いか!

 

やがて出てゆく小姑が、好きで小姑やってるのではないと、、、言いたくなるが

戦争中に戦地で弟、2人 妹、1人、、、

目の前で消えた命に出逢っている兄は

終戦直前、連絡船に乗って日本に命からがらたどり着いている、、、

PTSDもあるのかもしれない。

父があまりにも早く行き過ぎたせいもあると思えた。

遺族となった兄弟の相続の問題は一切怒らなかった。

長男が、家族全員の遺産放棄の印鑑を、奥さんになった姉に集めさせたのでした。

母も、兄弟も、無言で、印鑑を押しました。

弟がまだ高校生、私も大学生だったので、財産なんて、、、有っても、、、無いようなものでしたから。

兄にかかっている責任のストレスを考えて、

皆無言で、、、印鑑を押しました。

居候も、従業員も、、、婦長さんを残して、皆出てゆきました。

兄の時代が始まったのでした。

 

南紀の山奥の疎開地の村に着いたとき

兄は13歳ぐらいだったと思いますが、、、

田舎の学校の仲間には、、、なかなか、、、入れてもらえずにいたそうです。

「お前の父ちゃんは、偉いからって、お前は得ばかりしておる!!」

喧嘩が絶えなかったそうです。

喧嘩で、前歯を折ってしまって、、、村では大変な騒ぎになり

たった一軒しかないお医者さんが、、、怒って東京に帰ってしまったら

「お前のせいや!」、、、

兄の前歯を折った生徒が、皆に殴られたとか。。。?!」

 

ともかく、古い伝統のセクトがある田舎には

医者である父は大歓迎を受けても、、、

子供らは孤立させられていた時期が長かった。

戦争、、、終戦、、、引き上げ、、、

シベリアから叔父さんが、、、

学徒出陣から生き残りの叔父さん、、、

戦争で会社倒産の従妹の家族

従業員、、、どんなときにも、

マイペースで

3代のピアノを駆使して、ピアノ教室を貫く母、

内科医の若き兄が、外科医の父の後を継ぐという、、、無理。

役立たずで、主張のある妹が、、、邪魔なのは、、、よくわかる。

兄が、、、第一志望の東京大学に合格していて

この家を出てくれていたら、、、

残った兄弟は、

母の母屋を残して、家は貸し出して、

のうのうと、、、大学に行っていたかもしれない。

医家には他人には理解できない「プライド」と

社会性と、地域貢献の為の、認められるべき役割が有った。

戦後の復活期に開業医を必要とした下町に開業した以上

長男はそこを継承して、父の残した患者さんたちの医療を引き受けるっ事が

ケッコウな、、、押し付けられた

周りから無言で要望される生き方だったような時代だった。

この継承を避けるためには「東京大学に合格」して、

もっと大きな社会貢献が出来る能力を客観的に示す以外に

医師の家の子は、、、医師になって、、、

地域に閉じ込められるのが昭和時代だった。

私の日記だけで、、、文字だけ読むと、、、

ひどい兄貴に思えるでしょう???

違うんですね~~~

もうちょいで東大を不合格になった心の傷が

妹と、自分とが区別できない状態になって

妹の「私物化」が起ってしまっているのですよね!!!

東大受験で怖いのは、、、

合格した人は、、、アラビアのロレンスのように、、、無限に自分の能力を広げてゆく。

不合格の人間は、、、孤独の奈落に落っこちてしまい、、、

物品ではないが、、、心の貧乏のぞん底に落ちてしまい、、、

自分の存在すら、認めたくないという、、、

心の貧乏人をつくってしまう事だと思いました。

 

、、、自分は、、、悪くない、、、東京大学の、、、解けないような、、、問題が悪い、、、

現実が受け入れられないのです、

進路が間違っていたと思ってしまうのでしょうか?

私は、小学校から中学校、、、高校、、と、

東京に居たというラッキーな環境と、戦後の復興期というラッキーな時代のおかげで

まともな時代に育った者と、心の傷痍軍人との区別がつきました。

   *****時代背景*****

兄貴の波乱の激動の人世の前半に

疎開という、、、セクトのある田舎で、

父が唯一の医師という、、、子供仲間の嫉妬の渦の中で

中学3年生で、、、単身東京に勉強に出て行ったたのだから

学徒出陣で生き残った父の弟が28歳で早稲田大学理工学部合格して

父が東京に行った実弟の学資と生活のめんどうを引き受けていたという

負い目が別のチャンスを造っていた。

 

兄は疎開先から、学生叔父さんに合流していった、

 

弟の学費も東京の家も、、、父が仕送りをしながら

まず初めに長男を中学校の時に実弟に合流させて、東京への足場をつくった。

その後

生まれ故郷の東京への復帰を果たした父だった。

東京の開業は10年持たないで、、、父は54歳で過労死した。

 

よくぞ、、、長男の兄貴は、、、

精神病にならないで頑張って、、、

私立の総合大学の医学部を卒業したものだと

受験環境としては東大は無理

哀しいかな、、、能力的にはみ出していた兄

ストレスが、、、ややもすると、、、妹の私に向いてきた。

何故なら、、、下の二人の弟のうち

次男は,、、のれんちゃん

弟は、、、兄よりず~と骨太で、両親に愛され、頭も兄より良かったから

兄は、、、弟に敬意を払っていたかのようにさえ

私には映った。

手ごろなストレス解消の相手が、

妹の私に役どころが回ってきただけに過ぎない。

私も、、、防御に命がけの闘いを見せた。

東大を落ちた兄は、、、勉強が出来る者を尊敬する癖がついていた。

勉強で、目立つことは、兄からの攻撃を防ぐ城となっていた。

転校生としての、、、虐めの防御の石垣にもなった。

右手に大やけどを負って、形成手術中で、手を吊っていた私は

ややもすると、、、男の子の虐めの対象になった。

一年から5年まで、、、総代

東京転勤でいきなりクラス委員

おかげで、虐めは半減した。

高校入学後も、学校指定の生徒会委員

大學は兄と同じ大学に兄が誘導

大學指定の代表幹事、、、

たぶん、、、医学部の兄貴の存在もあるのかもしれない。

一見、、、自慢話かな?と覆うでしょう?

世間様は、、、見えない糸で、入るべき人が入学許可になっているのかもしれません。

兄のげんこつや、、、いじめを避けるのには

同じ大学に通う事とかも、、、優しさを引き出しました。

お勉強が出来ることなどが、、、鎧になっていたのです。

東京大学を落ちた兄にとって、

勉強面で当時の自分より良い成績の者には

暗黙の、情状酌量が有りました。

 

結構な乱暴なところがあり、、、

妹にも、たんこぶが出来るぐらいの勢いで、、、げんこつしたり

青あざが出来るぐらい、つねったり、、、

軽いやけど跡が腕に3年ぐらい色が変わって残るほど

手拭いで、、、腕を擦ってきたㇼ、、、

死ぬかと思うほど、昼寝の不用心な私の顔の上に座布団をまとめて載せて、、、起こしたり

絶えず野生の中の小動物のように、センサーを磨いておかないとヤバかったのです。

両国高校時代の兄は紳士でした。顔も、輝いていました。

三四郎池の雷魚を観に。私を誘ってくれたりもしました。

正座して、、、おやすみなさい,、、と

家族全員に挨拶するような、理想の兄貴だったのですよね。

受験戦争が壊したものは、、、見えないけれど、、、

不合格になった生徒の一部の心だったのだと

私は、、、兄を恨まないが、、、

昭和30年代の、、、

異常な東京大学熱の進学システムが

哀しい、、、

敗残者ではないのに、、、

心の敗残者をr造ったという歴史があることです。

 

昭和38年、、

、あの頃は、女性の大学進学は贅沢とみなされた地区に住んでいました。

まして、北海道に女性が下宿だなんて、、、とんでもない!、、、

正気でそんなこと考えているのかと

9歳違いの兄貴にどやされた。

この兄貴は、東大を第一志望にしていただけあって、

名門の府立高校の10番内にいつも常在していたが、

3歳から、、、東京に住んでいる教養人の受験生と比べるのは残酷ではあるが

「がり勉型であった。」

 

東軍に居たか、、、西軍に居たか、、、

令和にも現存する日本という島国の見えない大名。

東大も、

何代も東大ゆかりの学者家系が、、、一定以上の裕福な家族が

幼少の頃より、、、フィギヤスケーターのように

4回転の必要な東大は、学者や、指導者や、官僚のレベルの基礎が必要。

はいり方に沿った教養に多くの時間と、

環境を整備できているはずである。

 

戦地、、、疎開、、、

中学単身東京復帰、、、

両国高校、、、東大不合格、、、

良くやった!、、受験しただけでも立派です。

私なら、、、

東大を受けようというところまで来た兄にメダルをあげたい。

 

両国高校は、、、合併した後、、、

今は、何という事のない都立高校になっているが、

昭和30年の頃は、名門都立高校の3本の指に入っていた。

そこの高校の10番以内常駐の9歳上の兄貴は

高校の先生からも、「東大は太鼓判!」と言われていた、、、が、、、

落ちた、、、、

その次の歳も、、、落ちた、、、!

自身のプライドも無くなった兄貴は、

人が変わってしまった。

チックの表情のように片目を細めて言った。!

北大を受けると言えば、、、

「あほか!、、、女子短大にしなさい!」

ミカン箱いっぱいの、短大の願書を取り寄せて、

家事を覚えて、短大を出て、チャーミングスクールに行って

ササッと、、、家から出て行け!、、、というのでした。

下宿をしなければいいのでしょう!

雪の研究とはいかなくとも、、、

女性も男性社会にお茶くみとして侍る時代は終わっていた。

しかし、、、女性の社旗進出が

少子化、、、高齢化社会の原因の一つであるのではなかろうかと

兄は、、、正しかったのかもしれないと、、、

76歳になって思うこの頃である。

 

 


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