大学を卒業して某国立大学の技官として就職しました。
はじめの3ヶ月は国家公務員
やがて、研究生という身分になって、
学内で使える身分証明書をいただきましたが?
丁重に扱っては下さるのですが、
よっぽどのお嬢様で、未来が自給自足できる家のバックがないと
ここに居る意味が見出せなくなり
臨床の激務の大学に派遣していただきました。
朝、7時から5時までびっしりの仕事は充実感がありましたが
内規により、何ヶ月間かは月給も交通費も出ませんでした。
同じころ、未来の夫は旭川の某病院に、医局からの人事で勤めていました。
医学部には、当時闘争があって、ほとんど99パーセントの学生が
国家試験をボイコットしていました。
免許のない医大卒業生は、準看さんの下の扱いで、無給でした。
翌年国家試験を受かって、一年以上送れて月給が出ました。
その間、厚生年金も共済年金も、国民年金も空白の事務扱いとなっていたようです。
当時大学は、3ヶ月おきに、あっちこっちの地方へ派遣されました。
一枚では書ききれない、パッチワークの勤務状況の中、
50歳近くなってやっと定職となりました。
いまだにあっちこっちの窓口と交渉しながらも埒の明かない手続きが
延々と続き、
収入があるからと70歳直前まで厚生年金料金は引かれました。
そして、受け取りは、、、すずめの涙、、、。
忙しい仕事の合間に基本の手続きはしてあったものの、
日本年金機構から、念のために厚生年金加入記録を
再度、誤りがないか、、、確認をしてくださいという
大きな封書が届いた。
最後に勤めたのは「札幌医大の薬剤科でありました。
「何ヶ月か勤めましたが、内規はわかりません。」
地方の大学や、公務員の内規は、
ほとんど、大学の部署が独自の評価で行うので
勤めてから、自分には適合しなければやめてゆくか、
お金持ちのお嬢さんや子弟は
医大という月給以上の文化的刺激を必要とする場合
ほとんど、文句も言う人もなく、楽しんで勤めているようだ。
私の場合
医大には7時に行き、5時に終わり、
1~2時間、薬学関係の資料に目を通して居ました。
月給自体は民間の勤務の3分のⅠ程度の金額で
薬剤師としての資格は必要で、
責任も、身分も普通に扱ってくれましたので
勉強になる間は研修と思って通っていました。
結果的には「2ヶ月」厚生年金がついていました。
地域の体質だと思うのですが
一律に同じ条件で働いていても
将棋のこまのように、
歩から金、、、飛車角まで
待遇が異なることが、、、おもしろいシステムだと思いました。
学問の上下のはっきりした、特殊な評価の地方のシステムは
辞めてみないと
どのような立場で迎えられていたかはわかりません。
仮に、厚生年金がついていようがいないだろうが
見えない、内規がありますので、
自分で事務に行って交渉することも特にしませんでした。
はじめの、月給が無資格の助手さん以下だったので、
助手さんからは「薬剤師さんの臨時は本当に大変ですね!」
よく言われました。
医大の方から「手伝ってほしい」と言われたので
条件は一切聞かないで「いいですよ」ということで
引き受けました。
何ヶ月か毎日通って、医大の中が大体わかってきたころ
「ありがとう、いろいろ勉強になりました。」
こちらの方で家庭が忙しい時期になり、
いつまでも、、、フルタイム10万前後でボーナスなしで
働き続けられるほど、金持ち家庭でもなく、
ローンも2千万以上残っていたので
いつまでも、時間の拘束の多い安月給の職場は家族から
「そろそろ、、、」と文句が出始めた。
働き続ける都合がつかなくなり
孫も次々生まれ、
家事に忙殺されそうな忙しい時期を迎えました。
そのような事情でしたので、
大学の内規はまったく、頓着なしに
人が足りない、、、「たのむ」、、、「短期間なら」と引き受けたので
厚生年金がたまたま2ヶ月あったことは、、、
「そういうシステムなんだ、、、」と思うのが
私たち昭和10年代に生まれた「医師」「薬剤師」の
通念でした、
今の時代の「研修医」や、企業の薬剤師さんの待遇を考えて比較すると、
無給時代の「夫」の待遇は、、、、考えられないほど
不遇の時代でした。
選挙も7月11日に迫り、、、地方の時代に偏るのも
恐ろしきかな?
かといって、、、国立天下りのこと、
年金の不思議な手品を思うとき、、、
日本人!!!自分の存在をアピールするために!!!
いつしか、おとなしい者を喰う行動が露呈したと思わざるを得ませんよね。
根本を直しましょう!!!全員が!
元の質素で堅実で夢追うがんばりやに
全員でなりましょうよ。
はじめの3ヶ月は国家公務員
やがて、研究生という身分になって、
学内で使える身分証明書をいただきましたが?
丁重に扱っては下さるのですが、
よっぽどのお嬢様で、未来が自給自足できる家のバックがないと
ここに居る意味が見出せなくなり
臨床の激務の大学に派遣していただきました。
朝、7時から5時までびっしりの仕事は充実感がありましたが
内規により、何ヶ月間かは月給も交通費も出ませんでした。
同じころ、未来の夫は旭川の某病院に、医局からの人事で勤めていました。
医学部には、当時闘争があって、ほとんど99パーセントの学生が
国家試験をボイコットしていました。
免許のない医大卒業生は、準看さんの下の扱いで、無給でした。
翌年国家試験を受かって、一年以上送れて月給が出ました。
その間、厚生年金も共済年金も、国民年金も空白の事務扱いとなっていたようです。
当時大学は、3ヶ月おきに、あっちこっちの地方へ派遣されました。
一枚では書ききれない、パッチワークの勤務状況の中、
50歳近くなってやっと定職となりました。
いまだにあっちこっちの窓口と交渉しながらも埒の明かない手続きが
延々と続き、
収入があるからと70歳直前まで厚生年金料金は引かれました。
そして、受け取りは、、、すずめの涙、、、。
忙しい仕事の合間に基本の手続きはしてあったものの、
日本年金機構から、念のために厚生年金加入記録を
再度、誤りがないか、、、確認をしてくださいという
大きな封書が届いた。
最後に勤めたのは「札幌医大の薬剤科でありました。
「何ヶ月か勤めましたが、内規はわかりません。」
地方の大学や、公務員の内規は、
ほとんど、大学の部署が独自の評価で行うので
勤めてから、自分には適合しなければやめてゆくか、
お金持ちのお嬢さんや子弟は
医大という月給以上の文化的刺激を必要とする場合
ほとんど、文句も言う人もなく、楽しんで勤めているようだ。
私の場合
医大には7時に行き、5時に終わり、
1~2時間、薬学関係の資料に目を通して居ました。
月給自体は民間の勤務の3分のⅠ程度の金額で
薬剤師としての資格は必要で、
責任も、身分も普通に扱ってくれましたので
勉強になる間は研修と思って通っていました。
結果的には「2ヶ月」厚生年金がついていました。
地域の体質だと思うのですが
一律に同じ条件で働いていても
将棋のこまのように、
歩から金、、、飛車角まで
待遇が異なることが、、、おもしろいシステムだと思いました。
学問の上下のはっきりした、特殊な評価の地方のシステムは
辞めてみないと
どのような立場で迎えられていたかはわかりません。
仮に、厚生年金がついていようがいないだろうが
見えない、内規がありますので、
自分で事務に行って交渉することも特にしませんでした。
はじめの、月給が無資格の助手さん以下だったので、
助手さんからは「薬剤師さんの臨時は本当に大変ですね!」
よく言われました。
医大の方から「手伝ってほしい」と言われたので
条件は一切聞かないで「いいですよ」ということで
引き受けました。
何ヶ月か毎日通って、医大の中が大体わかってきたころ
「ありがとう、いろいろ勉強になりました。」
こちらの方で家庭が忙しい時期になり、
いつまでも、、、フルタイム10万前後でボーナスなしで
働き続けられるほど、金持ち家庭でもなく、
ローンも2千万以上残っていたので
いつまでも、時間の拘束の多い安月給の職場は家族から
「そろそろ、、、」と文句が出始めた。
働き続ける都合がつかなくなり
孫も次々生まれ、
家事に忙殺されそうな忙しい時期を迎えました。
そのような事情でしたので、
大学の内規はまったく、頓着なしに
人が足りない、、、「たのむ」、、、「短期間なら」と引き受けたので
厚生年金がたまたま2ヶ月あったことは、、、
「そういうシステムなんだ、、、」と思うのが
私たち昭和10年代に生まれた「医師」「薬剤師」の
通念でした、
今の時代の「研修医」や、企業の薬剤師さんの待遇を考えて比較すると、
無給時代の「夫」の待遇は、、、、考えられないほど
不遇の時代でした。
選挙も7月11日に迫り、、、地方の時代に偏るのも
恐ろしきかな?
かといって、、、国立天下りのこと、
年金の不思議な手品を思うとき、、、
日本人!!!自分の存在をアピールするために!!!
いつしか、おとなしい者を喰う行動が露呈したと思わざるを得ませんよね。
根本を直しましょう!!!全員が!
元の質素で堅実で夢追うがんばりやに
全員でなりましょうよ。