夏の夕方、いつの間にか開いている夕顔。その匂いに、今夕もまた咲いたことに気づく。白い大輪の花に似合わず、清楚で儚げだ。光源氏が、このなよなよとした花に、目を留めたのには、黄昏時のもの哀しさを伴う、心の襞が重なったからだろう。
源氏物語は、原文を読んではいなく、田辺聖子氏の訳。それも、大和和紀さんのコミックからだ。なかなか、宇治十帖までは読みづらい。根気が失せる。しかし何とか読み終えた要因は、訳者が好みであったからだ。
祖母も、夕顔が好きで、畑の片隅に、数本を植えていた。夕顔には、もう一つあって、干瓢も相呼ぶのだ。こちらは匂いもなければ、花が大きすぎて草臥れる。巻き寿しの具になるだけで、食べようがない。きれいに干して売っていた。
干瓢の方は、蔕は牛に刻んでやる。それを足に挟んで歩いたり、手に填めたりして遊ぶ。芯は、種を取って食べる。種を一つづつ取るのが面倒で、庭に飛ばす。スルリとしていて滑るので、わざと飛ばす。上手くやると結構痛い。
今夏、最初に咲いた一輪。まるで月の子が生まれてきたような・・・