お茶でもどうぞ。お茶をどうぞ。どうでもいいような言葉かもしれないが、『でも』は余計だ。例えて云うなら「おいしいお茶でも淹れましょうか」より、「おいしいお茶を淹れましょう」の方が、とても美味しく感じるのだが。どちらの言い方が、心に残りますか?
日常の中で、割りと平気で、或いは気づかないで言う言葉ではないか。まあ、ちょっとした違いであるから、どうでもいいのに。という方。そういう方には、お茶を淹れてほしくはありません。淹れる容器が、綺麗に洗えてなくても平気です。
家事を疎かにして、介護はできていると思いますか?丁寧な言葉が使えれば、相手の心に届くのでしょうか。普通の会話でも、地元の言葉でも、相手に応じているなら、通じるのではないかしら?自分の生きざま、または信念が相手に添えられればいいようにも思う。
台所の流しにゴミがなく、排水口が臭わない。食器類がきれいに洗われ、鍋や薬缶も、炊飯器も手入れが行き届いている。そういった台所で、食事の用意をしてくれれば、どんな物も美味しくなろう。何よりも、食べることが生きがいであるのだから。
友人が訪れて、近くの薔薇園に出かける。初夏の園庭のようには花はなく、淋しい限りだ。その後、父母の墓に参って、紅玉を半分づつ供える。友人もお参りしてくれた。荒れ果てた埴生の宿には、猪の樋爪の後があるのみだ。
帰宅して、サンタさんからの紅茶を淹れる。おいしい~!紅茶を飲みながら、枇杷葉談義である。小一時間しゃべって友人は帰っていった。土産に持って来てくれたキウィは、丸いのと長細いのとがあるらしい。これには安物の林檎を入れておこう。
布団はほかほか。洗濯物はよく乾いた。汗ばむような天気である。ランタナを仕舞いこむ。まだ大丈夫かとも思うが、霜が降ってからでは遅い。今度の休みには、置き場所を考えなければ、そこら中が鉢だらけだ。
百日紅。紫から赤と、白が咲き、最後にはピンクが咲いた。赤の絞りのは、今年は咲かなかった。隔年なのか。