枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

看取る意味・・・

2011年12月17日 | Weblog

 つい最近まで、家での看取りが当たり前であった。ここ数年、施設や病院での最終看取りに変わってきたが、事情にも依るので一概には言えない。或いは本人の症状もあり、環境的なこと、精神的なことが整わずに、止む無くという場合もあるかもしれない。

 本人が思考できればいいが、日々困難になっていくのでは、家族の負担も増えるだろう。そういった事情に、何がどう幸せなのかは、誰にもわからないことだ。私も、父母が亡くなってからようやっとわかる。後悔することしきりである。

 毎朝、枇杷葉茶を淹れながら、母の淹れてくれたお茶を想い、何ということもない母との会話を偲んでいる。日常の、謂わば何処にでも転がっている、たわいのない事柄である。孝行したき時には親はなし。と云う訳である。

 それでも私には、視えたり感じたりすることができるので、少しは救われる。まあ、欲を言えば限がない。知人や友人の場合には、心中を慮ってかける言葉も見つからない。家族の深い絆を察するのが精一杯だ。

 看取りの基本は、傍にいて見守れること。でも、四六時中見ているのには限度がある。したがって施設での対応が必須となってくる。何もかも完璧にはいかないが、話し相手になったり、毎日の生活の中で、異常を見落とさないようにはできる。

 和やかで、ゆったりとした時間が過ぎていければいい。笑い声のある生活ができればいいとも思う。家庭的な雰囲気が、少しでもあればいいとも。自分自身に言い聞かせ、精進するべく努力をしている。力が足らないのは自覚しているが。

 綿の苗。この後、小さな綿ができた。

コメント
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