枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

ああ・星が観えない

2021年08月29日 | Weblog
 昨夜も雨こそ降っては無かったが雲の広がる宇宙で、星は愚か月さえも観えない運の尽き。あの宇宙に翔けて往きたいのを、どんなにか焦がれても遇わせてくれないという理不尽さだ。気持ちがささくれ立ってしまい、余りのやるせなさに読書に沈没。子どもの頃には、無医村で学校には書籍すらなかった。

 近所に教師の年下の男の子が居て、文字の歓びに目覚めたが田舎は子ども心を平気で傷つける。貧しい農家では本どころか、雑誌の類も買っては貰えず山を田畑を駆け回っていた。貧乏は恥ずかしく、貧しいことは罪悪感が常にあった。今はそういったしがらみはどうでもいい気が、自然の力を知れば佳。

 宇宙を眺める愉しみは誰に文句も言われない筈が、藪蚊に襲撃されるし腹が空く。昼間に全身で遊んでいるから、口くなると瞼が下りて来る。五右衛門風呂にも一人では木の板が浮いてくるので入れない上に、熱ければ井戸水を酌み足し温くなれば追い焚きをしなければならない。母の小言は毎度のことに。

 夕餉の段取り良く素早く済ませることで、労力を押さえ無駄を省くのも知恵と工夫。母は何時でも最期で、冬になると祖母は毎日ではなかった記憶も鮮明に。それでも貰い湯に行くことを思えば、内湯があることは贅沢なことだった。あの頃には隙間風は絶えずであったが、当たり前との気持ちも残るもの。

 不思議な夢を視た。祖母が独り暮らしをしていて、緊急事態が発生して集まっている処に胸騒ぎがして行く。母のお盆に乗せた湯呑がひっくり返りそうになり、妹の勝ち誇った顔が覗く。遺産の問題?小賢しい者には、相手を思いやる心根が欠けている。そういうことに疎いから、誰が知らせたと内緒の声。

 祖母に逢いたいだけのわたくしと、生きている間に配分を多くしようと考える。実際には祖母はわたくしの目の前で亡くなり、既に50年以上が経つ。何故だろう?祖母や母が呼んだのか、毎朝のお茶湯に悦んでくれてのことだろうか。不信心であることを憐れんでくれたか、不徳の致すところでもあるなぁ。

 人間年齢を悪戯に重ねていると、ふと我に返った時に焦燥感を持つことも多くある。だが過ぎた時は戻らないし、その刻には還れない。募った想い・激情や恋慕は一体何処で彷徨っているのだろう、居場所を探して旅を続けるしかないのか。終着時点へと歯車は停まらず、軋んで回転も怪しい気配ばかりで。

 ブログ訪問をやっと済ませての更新だが、嫌な気配も感じる。何か不穏な動きもあるようで、心は千々に乱れていく。人間の心理状態の不可思議さは誰にも止められず触れないもので、見守ることでしかなく固唾をのむ。天を星が動いて逝く、数多の星があれども存在数は決まっているので、増えれば減る。
 
コメント (4)
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