枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

冬に逆戻りしたか?

2010年03月11日 | Weblog
 朝の気温が低い。寒い!奈良・東大寺二月堂の修二会、お水取りの頃は、身が引き締まるというが、ほんとうに寒くなる。旧暦の農事を知っていれば、実に様々なことが書いてあるのです。そろそろ土を囲って、苗床作りをしたり、苗が芽を出すように工夫しておく。この時期はそういった時で、寒いからとストーブの前にばかりは居られません。

 啓蟄までは、田畑へ出る準備をしておき、過ぎても慌てず、更に計画を立てておきます。野山の芽吹きが始まるので、何が、何時、何処に出てくるかを知って、使用方法も考えて採集しなければなりません。何もかも採り尽くすのでなく、必要な分だけ分けてもらいます。そうして余すところなく活用します。人間は、一つとして生み出してはいけませんから、感謝することは大切ですね。

 祖母は、霜柱を踏んで畑に行き、草を抜いて乾かし、土を囲っていました。1m平方の苗床には、茄子や人参、胡瓜、ほうれん草、トマト、瓜の種を撒くのです。霜は無論のこと、鳥や野鼠にも注意して、苗を育てていました。草が乾くと、火をつけて燃やし、土の状態を新しくしていた。春先から秋口まで、苗床ではいろいろな野菜の芽が出ていました。

 その頃には、店に行って買うのではなく、種を取って保存し、撒いたのから芽が出る。種を取っておかなかったり、保存状態が悪かったりすると、その年には野菜は食べれません。祖母は、風や雲や太陽の運行を、実によく知っていました。今では、旧暦の暦などがありますが、学校にも満足に行けなかった祖母です。書くという事ができませんでした。

 私は、祖母の傍に居れば、退屈することも無く、始終機嫌がよかったのです。また、野山を翔けることが好きで、堪えず引っかき傷がありました。寒がりなのでセーターを着て走りまわり、暑くなって木の枝にかけて忘れるのです。暗くなって探しに行ったり、そのまま何日か経って偶然見つけたりしました。そういう時には、誰かが濡れないようにしてくれているようでした。

 祖母は、自然に感謝しなければ、恵みを分けてはもらえない。と常々話していました。どんなにたくさんある物も、採り尽くしてしまうのでなく、自然に還していました。雨の日も風の日にも、日照の日や凍る日も働いて、働くことだけを生きがいにして亡くなりました。祖母のしてきたことは、何一つとして残ってはいませんが、私の心の中にはその想いが、静かに眠っています。

 枇杷葉を飲んでいると、足の痛みが消えます。腱鞘炎というのでしょうか。肩凝りもなくなりました。血管がきれいになるので、関連性があるのでしょうね。病院が好きな方はいいですが、出かける時間や待つ時間、独特の雰囲気と、ウイルスのことを考えると、躊躇します。それよりも自分の、自然治癒能力を使った方がどんなにかいい。病は、人を当てにして治してもらう。のではなく、自分で治るように努めることにあります。

 私は、時間もお金も惜しい。加えて、澱んだ空気の中に、敢えて行こうとは思わない。浄化された我が家に居て、枇杷葉温圧療法をしているのがいいですね。枇杷種酒を飲んで眠った方がいい。しんどい思いをして出かけて、疲れ果てて帰宅する悪循環にはなりたくない。枇杷葉にはそういった面倒さがなくて、心の襞が埋まっていくのにほっとする。
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春の香りもさまざまに

2010年03月10日 | Weblog
 早春の香りには、蕗の薹、菜の花、蝋梅、紅梅、白梅と続く。こういった一連の馥郁とした匂いを消してしまうのが沈丁花。何か毒々しくきついです。風向きで臭ってくると、ちょっとたじろぎます。花の姿は愛らしいのに、どことなく損な花ですね。でも、そういった独特の臭いに引寄せられる、昆虫の類がくるからこそ、季節を間違わず咲くのでしょう。

 枇杷葉の花は、硬い薄茶色の苞に包まれていて、10月頃から大きくなって、早ければ11月下旬から咲き始めます。白い可憐な5弁の花びらには、思いの外馥郁とした香りがあり、蜜蜂が自然に寄って来ます。花の花粉を体中につけて、夢中で飛び交っています。枇杷蜜は最高の栄養素があります。優しい風味もたっぷりですよ。でも、中々手に入りません。

 師走の時期には、至る所で満開となっていますが、それが枇杷葉の花だとは、誰も気がつきません。それくらい花の姿からは想像できないのです。花芽茶にするのはこの時期です。できれば節分までには採り終えておきます。立春からは実を作るよう準備を始めます。とても小さな実ですが、形ができています。剪定も止めておきましょう。

 アミグダリン。というB17は、青酸カリに匹敵する威力を持っています。焼酎に漬けるにしても、お茶で飲まれるのしても、そういったことを充分に知った上でしてください。またアミグダリンは、熱処理には弱いため、お茶で飲まれる分には、心配ないと思いますが、気をつけるに越したことはありません。そういった意味でも、できる限り12月、或いは寒中の作業にしてほしいのです。

 昨年の初夏に食べた実が芽を出して、すくすく育っていることでしょう。移植されたいことは重々承知していますが、来年まで待ってください。決して慌てないことです。私の体験的な失敗があるので、気になっても待ちましょう。それより先に、大きな鉢を買ってきて、土作りをしておきましょう。植えた苗が育っていくよう、土台を作る事が先決です。

 ま、もっとも地植でも同じです。土作りができていないと、移植しても育ちません。枇杷葉は生命力の強い木ですが、風向きに依っては、悪臭を吸い込んで枯れてしまうのです。だからこそ、枇杷葉を屋敷内に植えるな。と言われてきたのです。そういった方位を知っていれば、何等厄災はありません。却って、清々しい場所を作ってくれ、運気も上昇します。

 我が家の周りだけが、守られている。というのもそういった理由があるのです。私には、占いの資格がある訳でも、何故そういったことがわかり、できてしまうのか説明できませんが、視えてしまいます。知らせてもらえるのです。オーラというのでしょうか?与えられた力としか言いようがありません。だからこそ、私に危害を加えようとすれば、相手に還ってしまうのです。

 私自身も、そういった力を悪用すれば、自分に還ることがわかるだけに、枇杷葉に関してはできません。従って、料金はもらわないし、無理には薦めないのです。必要な人には必ず贈れるようになってしまいます。命を紡ぎ、強め、未来へと渡していくのです。枇杷葉にはそういった不思議な力もあるのです。また枇杷葉茶や花芽茶、種茶にしても、飲んでくださっていないと、私のオーラは届きません。感じとれないのです。

 12月の花芽。高さ、5mほどの木に、たわわについて咲き誇っています。その香りは、得も云われぬ匂いで、流石は薔薇科だと歓心します。お茶で飲むと心が和みます。
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春は遠い・・・

2010年03月09日 | Weblog
 今日は休みで、布団に居よう。と思っている時に限って、携帯が鳴る。昨夜、大逆事件を少しばかり読みかけた。時代背景が掴めない。事件の起きた事さえ知らなかった。という不覚に呆然としました。自分には如何に関心がなかった。ということがわかって、それがショックだった。専門的なことになるのでしょうが、其処に携わる人がおいでなのも、ちょっとした驚きです。
 
 知識は広く浅くと思っていたが、知っていないことの何と多いことか。志を捨てないでいられたことはありがたい。少しづつでも学んでいこう。一つの事柄を調べている人は、気の遠くなるような時間の中で生きてこられたのですね。感服します。私には、到底できそうにありません。また、一人ひとりに違った生き方があるのですね。私には、枇杷葉の研究が使命なのかもしれません。

 某作家さんが、お送りした枇杷種茶を飲んでくださっている。でも、お茶の色がちょっと濃いような気がします。我が家では、梔子色ですから。これらの原因は、水が関係しているのかもしれません。東京の水は美味しい、と聴きますが、無論、井戸水はないでしょう。都内でもあるにはありますが、某作家さんの周辺ではないようです。

 私が送ったのは、種のままですが、胡麻擂り機で擂ったら、珈琲の感じでいいかもしれません。種の場合にも、1回で捨ててしまわないように。また捨てるのも、土に返してください。間違ってもゴミでなど出さないでくださいね。猫のトイレに混ぜておいてもいいです。取り敢えずは、10回は飲んでみましょう。それと温かいのを飲んでくださいね。冷めたら電子レンジで温めてください。私は、枇杷茶専用のポットを使っています。

 枇杷葉酒の方が、体が温まったり、就寝の時などに便利かもしれません。目覚めがすこぶるよくなります。花粉症に効く。というのも寝ている間に、体に抗体やら免疫ができるのかも。枇杷葉は生命力の強い植物ですから、人間の体に及ぼす影響力は、計り知れないのかもしれません。それでも飲み方は、個々に違っていてもかまわないと思います。これでないとしてはいけない。というのでは飲まれる方がいなくなりますから。

 枇杷葉は、自分でしてみようと、されるところから始めるのがいいのです。どんなに素晴らしい物も本人の思いようで、価値観が違うと考えます。そこから効果が出てくるような気もします。りささん、ありがとう!某作家さんに、今までお送りしたくても、ご本人が何ておっしゃるか、心配だったのです。お隣に大きな枇杷の樹があることだし、安心いたしました。あ!花芽は採らなくて、実にしてください。種で採られるのがいいですよ。実の味は二の次で、焼酎に漬けて飲んでみて♥

 今日は、休みだったのですが、朝から猛吹雪で散々でした。ポストの新聞はびしょ濡れ。読めるものではありません。今回が初めてではないので、新聞販売所に電話をかけた。代わりの新聞が要ります。途中出かけて帰宅したら、新聞受けには、他社の新聞とナイロン袋が売るほど入っています。???メモが添付してあるので読む。これで我慢しろ、ということらしい。冗談でしょ!確かに新聞には違いないけど、私が購読しているのではない。

 いい訳には、我が家の購読している新聞は、部数がなくて予備では置いてないらしい。それ、電話で言ったよ。町内に置いてないのがわかっているから、電話したのです。他の新聞でいいのなら、電話なんかしません。って、わっかんないのだなぁ。これで新聞配達が、よく務まるまるね。どんな仕事にも言えることですが、自分ではなく相手の気持ちになってみる。ということの意味がわかっていない。

 地元の新聞ではなく、某新聞には、読みたい記事が満載だし、楽しみにしている連載もある。そこんところのかみあいがわからない・・・。しょうがないから、ストーブを点けて乾かしました。活字中毒なので、新聞を読まないと落ち着きません。やれやれしんどかった。枇杷葉茶もやっと喉を越しました。普段の生活が何かで壊されると、修復するまでがほんとうに難儀です。
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気候の変動には

2010年03月08日 | Weblog
 今朝は寒さがぶり返して、なかなか暖かくならなかった。懐炉が離せない。それでも枇杷葉茶を飲んでいるおかげだろう。骨の髄まで冷え込む。ということがなくなってきた。ありがたいことです。枇杷葉茶を飲むまでは、寒いというのを通り越して、感覚もなくなるほどの冷え性だったのです。子どもの頃は体温は幾分高めですが、血管の流れが悪く、どんなに着ても、炬燵に潜りこんでも、暖かさは感じなかった。

 祖母は、そんな私に、手覆いを作ってくれたり、靴の中に藁や唐辛子を刻んで入れてくれたりするのだった。肩には、山繭の真綿を少し乗せてくれた。背中一杯に薄く伸ばしてもくれた。でも肝心の学校にはしていけない。子どもは風の子。と言われ、そこまでするのは病人だけでした。冬は、大嫌いな季節だった。霜焼けの治りかけが一番辛い。あの、痛痒さは地団駄踏むような腹立ちがある。

 近年は、温暖化が進んで、かなりな暖かさがあり、霜焼けになりそうなら予防をする。亀の子束子で手の甲を擦る。足もしっかり、くるくると円を描きながら擦っていく。顔も耳がなっていた。ここは何もしていないが、霜焼けも爛れも起きていない。これは枇杷茶のおかげでしょうね。枇杷葉茶を飲んでいると、なりにくいのと、治り易くなります。

 枇杷茶を飲みだして、血液がサラサラになることは何度も書きましたが、赤ら顔もきれいになります。林檎のほっぺが消えました。おてもやんのようでした。中学生の時には、悩み抜いた想いがあります。冬の肌がザラザラでした。粉を噴いていました。ところが肌は滑々で艶やか、潤いたっぷりのしっとりさです。この頃は、枇杷種酒を化粧水にしています。香りもいいし、お肌の状態もベスト。花芽でも枇杷葉でもいいですよ。

 リエさんの友人Mさんのお祖母ちゃん。ご自分で枇杷葉酒を作られたようですね。顔のマッサージをすれば、たっぷり角質が取れますよ。足の指の間、裏、踵、たっぷり塗ってマッサージをしてください。足がとても軽くなります。裏技ですね。顔もリンパ腺のところを、丁寧にやさしくしてください。疲れがとれて気持ちいいです。この時に、瞼のところは枇杷葉茶で冷やしましょう。

 腰や、背中には、枇杷葉酒のエキスを塗って、その上から温めた蒟蒻を乗せます。この時決して蒟蒻をスライスしないように!薄くした蒟蒻では効果がありません。タオルか手拭、或いは晒の布に包んで乗せます。間違っても肌に直接が置かないようにします。体の臓器はその殆どが温めます。冷やしていいのは虫垂と心臓くらいです。

 頭寒足熱。これは絶対に守ってくださいね。何度も言いますが、枇杷葉茶で飲まれた後はお風呂に入れます。枇杷湯をしましょう。これをすると、全身の角質が取れて、湯船が真っ黒になる。やってみなければわかりません。でもしてみる価値はあります。変身したい方にお薦めです。半身浴で入って、皮膚を軟らかくし、それから丁寧に螺旋を描くように、タオルで擦っていきます。では、今晩から早速してみましょう。

 またこの時期には、手洗いと嗽は、持続させてします。気の緩みが風邪を引いたり、体調不良の原因になります。充分に注意してくださいね。
 
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薪御能

2010年03月07日 | Weblog
 毎年、この時期になると、奈良県の薪御能保存会から、1通の封書が届く。五月にある野外での御能の開催と、演題を知らせてくれる。今年は、『翁』と『玉蔓』ですが、例年の南大門でなく、他の場所だと記している。何か発掘されているようで、立ち入り禁止らしい。奈良は、阿修羅王像を観に通った。新聞によると、展示去れている阿修羅王に、直におめにかかれるようですね。ガラスケースには入ってないのだそう。

 薪御能は、内田康夫の『天河殺人事件』でだった。岸惠子が主演だった。能面に魅入られたようだった。『羽衣』の衣装の美しさと、演じての舞と、奏でられる楽器の音色に、魂を奪われるようだった。そして、野外での炎の艶やかさ、夜空の満天の星の輝きを、昨日のように覚えている。夜露がいつの間にか下りていて、しんなりと服が湿っていた。

 今年の奈良は、平安遷都1300年らしい。きっと大勢の人混みだろうな。でも、行きたいなあぁ。と思っています。希望休で出しておこう。還ってきた阿修羅王にも、遭ってこよう。奈良は、いいなぁ。入江泰吉記念写真館にも寄ろう。春日大社、万葉の小路、奈良公園をぶらぶらしたい。飛鳥村に行ったら、帰れなくなりそう。手塚治虫の作品の読みすぎか?

 勤務先では、わりと研修が多くて、出席云々ではなく、自分への向上心というか、好奇心が旺盛なのです。学べることが楽しい。専門的な分野になりますが、物事の基本は同じで、自分の質を高めることにあります。知っているようでも、忘れていたり、生半可な知識だったりすると、尋ねられた時に答えられない。また、右往左往して、時間ばかりがやたらと過ぎることになる。

 働くということは。ある意味、体が動かなければ駄目な訳で、動くまでは考えていればいいが、それは最短時間での動きにしなければ、意味が無い。時間をかければできる。のでもないのです。阿吽の呼吸には、心を通わさなければ、不可能になってしまう。即ちやったことが、何もしていないことになってしまう。覆水盆に還らず。今一度、自分のしていることを見直してみなくては。と思うのです。

 菜の花や月は東に日は西に。この句の作者が、誰であろうと、生活に支障がある訳ではありません。けれども、一人の人にとっては、そこから会話が出てきたり、心が落ち着いたりすることだってあるのです。万葉集や百人一首もです。その人の生活から紡いでこられたことで、話を聴き出してあげないと、自分都合になっていき、大声を出させたり、奇声をあげさせたりするのです。

 私は、自分の趣味で本を読んでいることと、知識を吸収しておいて、いざという時に何かの役に立てば、相手の方が安心し、共有できるかな?と、読んでもいる。知っていることを教えるのではない。知っていることから、出発していくことができるのだと考えています。心がよめる。というのも、そういった諸般の事情を察知できれば、自然と視えてくるし、あたりまえにわかってくるのではないかしら?

 枇杷葉の素晴らしさ。っていうか、不可思議なところは、何かの手がかりになったり、新しい想いが芽吹いたりすることでしょうか。これで終り。というのではなく、これから始まっていく。そういった思いや考えが、少しでも広がっていくのは、とてもうれしいし、愉しみでもあるのです。花粉症でお困りの方に、枇杷茶を薦めていますが、全ての方に効くのかは謎です。私が、花粉症でないので不明です。

 それでも、多少は症状が和らげばいいかな?と思うのです。飲んだ翌日に効いて、差し上げたこちらがびっくりしたこともある。アロエが効くとか、何がしが効いた。とかも言われます。情報に流されず、自分で確かめてください。そういう手間隙を惜しんでは、治ってはいかないでしょう。

 今を盛りに咲いている、シクラメンです。台所の出窓に置いてあります。真紅のシクラメンです。夜など、まるで明かりが点いているようで、心が温かくなりますね。
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あたりまえのことが・・・

2010年03月06日 | Weblog
 どんな仕事でも、働かなければ給料はもらえません。また、そこに働く気持ちの持ちようで、ストレスを抱えたり、馴染めない空気を吸い込んだりします。先日の落語に、『子猫』の噺がありましたが、人が嫌う仕事を敢えて行なう。と言うのも然りで、その人を批判することはできないと思います。当然ながら、其々にやり方が違うのですから。

 人間は、生身の身体を持つが故に、生への確執と、死の恐怖に、絶えず揺れているのではないのでしょうか。私は、生きて死を迎えるのではなく、死ぬために、生き方を記しているのだ。と考えています。命は、自分のものでありながらも、新しい命に繋げるために、与えられていて、たった一つの使命のために、生かされているのだ。と思えるからです。

 至極、あたりまえのことです。そのために、自分は何をすべきで、どういう役目で生まれてきたかを、知らなければなりません。ありとあらゆる生命によって、人間もまた生かされていることに気づかなければ、命の大切さは無駄になります。命が生を終えるとき、同時に新しい命となって、来世に繋がって往くように思えます。

 神さまは、どうしてそういう手の込んだプログラムを、人間に課したのでしょうか?あたりまえの心に思い至ることができるよう、諭されているのでしょうか。人間の傲慢さをじっと視ておいでなのでしょうか。この場合の神とは、全知全能・宇宙のことです。あたりまえに生きることは、人が人として生を全うすることです。そこには何の差別も障害も、分け隔てするべきものもない、命そのもののことです。

 人間が人である以上、それ以外の命に感謝して、生活をさせてもらうことなのです。この地球上に、人間だけが生きているなら、きっと明日には全滅するでしょう。人間に対する生命の繋がりがあればこそ、空気もあれば、食べ物もあるのです。況してや水と土、風と木が織り成す自然がもたらす恵みには、人間はどれほど援けられているでしょう。

 人間は、自分から何一つとして、生み出してはいかれません。堪えず何かの力を借りています。酸素を作り出せないから植物からもらい、人間より他の者の命を奪って、食料にしているのです。彼らが人間よりも下等、というだけの理由です。命を分けてもらうことを感謝しなければならない。その上で、生かされていることがわからなければ、命を繋ぐことなどできないでしょう。

 あたりまえの、感謝するという事。命を頂くと言う意味で、『いただきます』があるのです。野菜も、魚も肉も、人間以外の命です。人間だけに心があるのではなく、人間だけがそういうことに気がつかないのです。なんだかね、すごく滑稽でしょう。簡単ですが、できないのが、あたりまえのことなんですね。

 枇杷葉茶を飲んでいると、普段は気づかない、ありふれた自然の想いに浸れます。心が緩んできて、とても幸せな気分になります。
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菜の花や・・・

2010年03月05日 | Weblog
 祖母は、菜種油を取って、灯心に使うべく溜めていた。揚げ物には分量が足らなく、また贅沢でもったいないとされていた。今時と台所事情が異なるのだった。畑の片隅に植えてある菜種は、黄色の可憐な花であった。でも、春の弥生の夕暮れに、向うが霞んでしまうほどにはならなかった。それよりも灯篭か提灯のように、春風の中でゆらゆらと揺れており、至極幻想的だった。

 我が家の球根も芽を出しているが、勤務先でも伸びていて、様子を窺っている。ちょうど折りよく雨が降っているので、慌てて皮を脱いだようです。ホトケの座が群れを成して咲いている。母子草にぺんぺん草もある。ひよこ草など、お浸しにすれば美味しそう。そろそろ蓬が出てきています。湯がいて冷凍にしておけばいいですね。

 蓬ジュースには、レモンかお酢を加えて、氷砂糖の湯煎したのを混ぜたら飲めます。但し生臭さはありますよ。春の風味を愉しんでください。私は、そういった手間をかけるのでしたら、草餅にしますね。餡ころ餅もいいなぁ。梅に鶯、草餅・団子といったのもいいものです。自然を満喫するのは、食べるに限りますよ。店頭に行けば売っていますが、防腐剤や添加物が入っています。手作りは美味しいです!

 歳を重ねてくると、知っていなければならないことと、知らなくてもいいこととができてくる。私は、噂話には疎いが、その他諸々の諸事一般は知っていると思う。先日も、寿し飯を洗うのはどうするん?と困っていたので、お酢で拭けばいいよ。と教えました。こういう場合に、洗剤をつけて水で洗うと、時間がかかるし手間です。お酢には、殺菌作用もあるのですから、拭くだけで充分なのです。

 化学薬品をやたらと使うより、身近な物で処理した方が、経済的だし、安心且つ、時間も省略できるというもの。知らないでいると、大損しちゃうよ。こういったことは、新聞の端っこの方に載っているのです。それも1行ほどの簡素簡潔文。無駄がない。実用的です。そこで思い出すのが、アガサ・クリスティの『マープルおばさんの事件簿』村から何処にも出かけないのに、ちょっとした推理で、犯人を当ててしまう。加えて、犯行を完璧に解き明かす。この本、面白いです。

 亡き師の光瀬龍が常日頃云っていたのも、日常のなんでもないことからアイデアは生まれるし、実際そういったところにこそ、創作のヒントはあるんだよ。という言葉だった。受話器の向うで、静かにおっしゃってくださった声が、未だに耳から離れない。私は、講座には通えなかったが、優しい眼差しで、創作の秘訣を語る声音は覚えている。温かく包み込むような声だった。奥様が手渡しでくださった写真。若くて渋いなぁ・・・

 春のゴールデン・ウィーク、秋のシルバー・ウィークを、連休が重ならないよう、地方で分散する方針?だって。小さな親切、大きなお世話。そういうこと、大体が決めてもらうことでもないよ!いい大人が、決めなきゃできないことでもあるってか?
 
 枇杷葉も、日々変化しています。目に見えないようでも、時が移っていくように、時間も変わっていっていますね。お彼岸までには、枇杷葉茶をしなくちゃ。
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贈り物の行き違い

2010年03月04日 | Weblog
 季節は違うが、ある国のある恋人同士が、お互いに相手には、これがぴったりというプレゼントを渡し合う。青年は娘の自慢の髪に似合うであろう髪飾りを。娘は青年にぴったりの金の時計の鎖を。だが、二人は同時に驚く。青年は、時計を売って髪飾りを買い、娘は、自慢の髪を切ってしまっていた。その髪を売って、金の時計の鎖を買うために。

 そして二人は同時に、一番大切な物は何か?に気づく。時計は、働けばもう一度買える。髪は、時と共に伸びていく。お互いの心を思い遣る、その気持ちには何の迷いもない。幸せとはお金では買えないことと、そういった幸せな在り方もある。ということを教えてくれた話です。でも、昨今の現状では、これは明くまでも理想にしかとれません。

 金色夜叉ではないけれども、お宮は如何に寛一が好きでも、しがない学生の身であり、生活の基本がありません。待てと言われて、ひたすら信じて待てるでしょうか?ダイヤモンドに眼が眩むのは、お宮だけではないでしょう。一時の贅沢を選ぶのは、人間だから尚更ですよ。お宮を責めはできません。私も、若い頃なら一瞬、迷ったかもしれません。それでもシンデレラにはなれないことは知っていました。

 プリンセスの条件には、教養も知恵も兼ね備え、敢えていえば、困難に立ち向かうべく、勇気と根性がなくてはならない。辛くなったから止めちゃえ。では、一国の国でも治まりません。庶民ならともかく、王子の后になるのです。相当の覚悟が必要になる。加えて心身ともに美しくなくては務まらない。その時代にあった美しさがいるのです。

 ローマの休日での、アン皇女が、宮殿に帰ってきて言うのです。『わたくしに皇女という心がなかったら、帰りませんでした』その毅然とした姿こそ、皇女そのもの。もう泣けちゃうよ。そこまでしなければならないなんて。私など凡人の迷う心は、微塵もないように見えてしまう。映画だからでしょうか?オードリー・へプバーンが演じたから、そう思えるのでしょうか?シンデレラにはなれなくてよかった。としみじみ思うのです。

 昨日は、新暦の雛祭りでしたね。桃の花は、蕾すらないような有様。今は梅が満開です。昔は、花見と言えば、梅見だったそうです。梅には、風情があって、眺めていられる趣がいい。語らう時があって愉しいです。今日は嫁の誕生日で、孫たちと示し合わせて、誕生会をしました。孫は、プログラムを作って、妹と交互に司会をする。お誕生会には、嫁と娘夫婦が居り、歌を歌ったり、ケーキにローソクを立てたりを、進行させていく。

 私と孫たちとで、何度も相談して作ったプレゼント。買った物でないので、恰好は不細工かもしれないが、心は何にも優る。私は、孫たちにはお金を与えて、買わせたくなかった。子どもにだってできることはあるもの。保育園の孫は、折り紙を折って、母親の顔を描いていた。小学二年生の孫は、手紙を書いていた。自分たちの思いを言葉にできることは、何という幸せなことだろう。

 枇杷葉の種茶に、今日は花芽を加えました。いい香りです。
 クリスマス・ローズの花。この時点では未だ蕾でしたが、今は半分は咲いています。
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たまさかの贅沢

2010年03月03日 | Weblog
 行って来ました。いっやあぁ、愉しかった!久しぶりに声を出して笑って来ました。勤務先では、かなりな精神的な重圧を感じて、池の鯉ではないけれども、海に彷徨い出ているようでした。それには主任の不在というのが大きな要因です。皆で話し合って決め、そのことを守ってすれば難なくできることが、自分勝手に動こうとするから、てんでばらばらになるのです。そういうのについていけない。心身ともに疲れていた。

 落語って、いいです。噺家にもよるでしょうが、私は、声のトーンに微妙、絶妙な言葉の響きを感じます。若手は、声を張り上げるだけですが、年季が入ってくると違うんです。言葉の持つ意味合いを、色気で話す。それがまことに上手い。また、間の取り方が、阿吽の呼吸である。聴いているこちらが息を止めて待つ。合いの手が入ったり、歴史上の人物が登場したり、諺の謂れを解説してくれたりする。

 太公望、と言えば魚釣りですが、この事実と、史実を知っていなければ、何のことやらわからないのです。本を読んでいてよかった。と思うのはこういった時ですね。わが意を得たり。共感できる部分に納得しちゃう。落語は奥が深い芸術です。様々な人間を一人で演じ分ける。今日は、鞍馬山の天狗が出てきました。噺家なら、誰が演じても同じようなものですが、贔屓の桂文我師匠(弟子入りはしていません)は、表情や声音が実に面白い。

 今年は、3回あるようです。次回は、6月らしいですね。チケットの値段は、安いとも高いとも言えませんが、其処に行く時間や準備を思うと、ちょっとした贅沢になりそうです。娘夫婦と一緒に行くため、必ずお弁当を作って行くのです。枇杷茶も魔法瓶にたっぷりと淹れて行きました。中入りで頂きますが、こういう時間があるのもいいのです。

 駐車場のフェンスに絡ませている蔦を、誘引して満遍なく這わせた。枇杷葉をよく見ていると、葉が傷んでいたり、枯れていたりするので、手入れをしておいた。少し傷んでいるのはお茶にしようと鋏で切る。我が家で飲む枇杷葉茶は、紙袋に充分過ぎるほどある。毎日飲んではいるが、入れ替えは頻繁ではないので、貯まってしまう。そう言えば、某作家さんは花粉症とか。お送りしたら、ご迷惑かしらん?

 リエさんの親友。Mさん家には、大量の枇杷葉をお送りさせてもらったのですが、せっせとお茶パックに詰められたのかしら?ダンボールで送ったまではいいが、その後がどうにも気になる。何故かって?枇杷葉の葉を一枚づつ切って、市販のお茶パックに詰めていく作業には、根気もいれば、我慢もしなくちゃなりません。1時間でできる。というものではないのです。時間があれば作る。無心にやる。一心不乱にするのです。

 我が家のは、正真正銘の無農薬です。でも、そうで無い物もあります。また、その見分け方はできません。お茶で飲むのですから、害は無いに越したことはありませんよ。花粉症には、霧吹きで部屋に散布したり、顔を洗ったりして、直接の被害から逃れましょう。飲んでいれば痒みが、多少は和らぎますが、睫にはたくさんの埃が下りています。しっかりと洗い流してください。
 
 
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春への誘い

2010年03月02日 | Weblog
 3月になると、何処かしら浮きたつ想いがしてくる。加えて、緑が青々とし始める。ヒヤシンスもパンジーも、太陽の光を浴びようと、土の中から伸びをしてくる。薔薇の新芽も萌えている。鳥の囀りもかしましい。と、油断していたら、枇杷葉の花芽を食われた。東側の川沿いのだが、たった1枝ついていたのが、きれいになくなっている。

 自然のものにも、体の変調があったのだろう。咎めだてはしません。人間が薬を与えてやれるのではないから、本能で啄ばんだのでしょうね。台所の窓から見ていて、鳥のさえずりが、思わず人間の言葉に聴こえて、慌てました。そういうことってあるのですね。聞くよりも聴いていなければ、単なる鳥の声にしかならないですから。

 仕事の内容にも依るだろうが、正社員も、パートも、派遣さえ、会社の中に於いては、同じ人間と思います。部署や与えられた内容で、違ってはくるでしょう。けれども違うことをしているのではなく、役割が異なっているに過ぎない。時間の観念が全ての物にあればいいが、人間にしか理解できていない。考え方を変えてみれば、人間がしたいように、時間を作った。というべきか。虫にも必要ないし、魚にも要らないからです。

 でも。それは人間が自分に都合よく解釈しているだけで、魚には魚の時間があり、虫には虫だけの時間があるのです。そうでなかったら、子孫を増やしていける筈もなく、季節に対する生き方もできはしないと思うのです。人間が、自分の主観で考え、物を見ているから間違いが起きるのです。客観的な眼を持って、いろんな角度から見ることをしないと、視えてくる筈がない。見落とすばかりになっていく。然し、それさえ気がつかない。

 言葉のもつ意味を理解することも大切で、一つ一つの言葉は、各々違った意味合いがあって、それらが集まって接続詞や、句読点につなげられて、文章ができるのです。書きながらそういった配慮をしなければ、文章は成り立ちません。況してや、大勢の皆に納得させる説明には至りません。これらは経験にも依りますが、本を読むことにも一因があります。

 私は、ある程度の書籍と、ジャンルに関しては、勤務先の誰よりも多いと思います。本屋に勤務していた時には、パート代の殆どが本代でした。言い換えれば、働いた給料全てが本を買うお金でした。一時、新聞や雑誌に投稿しては、図書券をもらうべく書きまくっていました。でも、買いたい本がありすぎて、到底足らなくなった。仕方なく働きに出た始末。

 当時は、図書館は冊数が少なく、私が読みたいジャンルはなかった。また、本屋でも注文でなければ手に入らなかった。そうこうする内に、家が傾くと家人には渋い顔をされ、ようやく図書館で借りることにした。今日も、大逆事件のあらましが知りたく、図書館に頼んでいた。松本清張の名がある。信用してよさそうです。リエさん、これから始めるからね。

 松本清張の作品は、その殆どを読んだ。特に『黒い福音』『小説 帝銀事件』『砂の器』には、心を抉られるようだった。その他の作品でも、歴史的な史実と事実を、巧みな文章で書かれており、一気に読み進んだ。小説なのに、体の震えを止められなかったし、怒りと言葉にならない人間の業に、眼を背けたくなったものです。『けものみち』での小滝の笑い声が、今でも耳に残っています。黒の作家と言われる所以です。

 仕事と何等関係がないようにも思われがちですが、阿仁図らんです。いざという時には、本を読んでいるか、いないかの評価が出ます。これらは資格だけでできることでも、経験をプラスして尚のことだと思えます。芸は身を助ける。と言いますが、言われてできるのではなく、身体が自然に動くようになります。つまりは、相手の行動をよめるようになるからです。理屈でもなく、次に起きるであろう行動がわかるのです。

 今日の天気は、晴れから曇ってしまいました。洗濯物が梅雨時のようです。除湿機がフル運転をしています。明日は、夕方から桂文我の落語です。最近、あんまり笑っていない。ストレスが溜まってたので、行ってきま~す!
 暖かさに誘われて、葉が繁ってきたアネモネ。よく見ると、蕾が背伸びをしていました。
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