とmixiにも書いたが、まだ味の記憶が残っている間にこっちにも載せたい。京都・七条東山「イル・パッパラルド」北村さん製のピッツァ2種。
マリナーラ(トマトソース・ニンニク・アンチョビ・バジル)は最もシンプル。
ビアンコ(モッツァレラ・パルミジャーノ)はチーズ。
焼くのに1分。シンプル極まりないものだが、焼き上がりを安定させるのは簡単なことではないらしい。薪窯のお守も大抵ではない。火をつけて焼き始めるまで2時間掛かるという。簡単そうだから、やってみたいなぁと思うが、毎日この単純な作業に情熱を燃やしてできるかというと、この飽き性にできるわきゃないわな。やはり食うのが関の山だ。
宅配ピザのCMでは「海老マヨマヨ、海老マヨ~」とか「耳まで美味しい」とかいって、耳にソーセージを通したりしているが、ピッツアはあくまで生地を食うもの。具ではない。シンプルがベスト。もちもち、子供の頬っぺたのようなこの食感を楽しむためにある。ああ~また食いたい!
食いたさを伝えるために、写真は大きめにした。
ミナミ三休橋にある四川ダイニングの「えにし」へ。紹興酒の勉強に行く。行くったって、飲んでるだけなのだが。気鋭の料理人はいても、中国酒に詳しいソムリエっていないから、この時期狙い目かもしれない。
飲んだのは「古越龍山5年」、呉越同舟に非ず。スッキリとロックでいただく。
中国酒は大きく「黄酒(ホワンチュウ)」と「白酒(パイチュウ)」があり、黄酒の代表が老酒。老酒の中で最も有名なのが浙江省の紹興市で作られる紹興酒というわけ。
でも中国全土では圧倒的に白酒。この中には周恩来と田中角栄が乾杯していた茅台酒(マオタイチュウ)のような高嶺の花もあるが、庶民が飲む高梁(コーリャン)酒はクッサイ。度数は50度ほど。現地特派員O氏によると、こいつで「乾杯、乾杯(カンペー)!」と酒の強さを競ったりするというのだから、中国キライになりそう。翌朝ゲップにこの匂いが上がってきて、また吐いてしもたりする。
そこへいくと、紹興酒は16~18度と日本酒なみ。紹興ではこいつを酒屋で量り売りで飯茶碗みたいなのに受けて、飲むそうな。でも他の小吃店(食堂)などでこれを頼むと、店員にニヤッとされて「女の子の頼むもの飲んでやがらぁ」と馬鹿にされるのだそうだ。
普通は常温、冬場はヤカンで燗付けたりして飲む。日本みたいにザラメ入れたりはせぬ。紹興梅という梅干の砂糖漬けをポトリと入れて飲んだりするようで、いずれおかずを摘まみながら、お茶がわりにガブガブ飲むものらしいのだ。
浙江省のもち米と、かん湖の水が原料。あとカラメルやハーブ系の香菜を混ぜることであの風合いがある。かん湖も家庭排水か工業排水で
汚れ始めているとか。アミノ酸が多くて悪酔いしないともいうが、そんなことない。呑みすぎたら一緒で手痛い目にもあっている。
烏骨鶏・家鴨二種のピータン。麻婆豆腐は山椒もしっかり効かせてある。坦々麺もコクがある。青島麦酒の黒、金なども飲んだ。小さいカウンターだけだが、中華の一品を取って静かに飲める居心地いい店だ。
「今年もラッキョウが出来たよ、取りにおいで」と言われ、園田の伯父宅へ。ここは祖父母の家でもあったので懐かしい。田舎のない人間としては唯一そんな風情をとどめている家だ。ラッキョウの大きな瓶を頂くと共に、ちょっと一杯とギネスの黒ビールが出てきて、次々に伯母の料理が登場した。そもそも洋酒やパイプ、昔から珈琲をミルで挽いたりと何かと凝り性の伯父だ、この伯父に鍛えられたのか、褒められて腕を上げたのか、実に手早く、しかもその味は家庭レベルではない。「あまからアベニュー」をやっていた頃、伯母はしょっちゅう加藤敏彦氏の料理を作って寸評をもらったものだ。
鱧揚げ出し大葉添え。鱧皮と胡瓜のざくざく。鱧骨の唐揚…やっぱり関西の夏は鱧だんなぁ。梅雨の水を飲んで鱧は美味しくなるというが、三条さかい萬の主人に言わせると、暑くなって人間の方が滋養に富む鱧を美味しく感じるようになるのだとのこと。鱧皮というのも大阪のすたりもの、始末の最たるものだが、蒲鉾作りが盛んだった昔と違って、なかなか手に入りにくいものになりつつある。
いか雲丹。愛媛で漁師がごく小規模に作っている塩雲丹をさっと和えただけ。掛け値なしで美味。男の浪漫、ポテトサラダは形を残したジャガイモ、ピリ辛ソーセージが刻んで入り、マヨネーズとアンチョビで味をつけ、辛子を思い切って利かしてある。これがよく出来ていて、北新地のバーで出てきてもおかしくない。一体何処で覚えたんだろう。ゴーヤのきんぴらも面白い。イノシン酸のうまみ調味料を加えるのがコツらしい。野菜はその多くが自家製。伯母が丹精込めて作ったものだ。伯父はただ食べるだけ。これが老人が作った料理。う~む…市井には恐ろしい人が潜っているのだ。
この伯父というのが、戦後シベリア鉄道で労働させられながら、バンドを組んでマンドリンを弾いていたという変わり者である。その血はボクにも流れている。
羽田発大阪行きJAL123便、御巣鷹山での墜落事故があって21回目。搭乗していた坂本九は享年43歳。今、生きてれば64歳。どんな熟年歌手だったろう。歌は辞めていたろうか… 芸能に生きる人間はいい、死んだ時点で人々の記憶は停止し、永遠の生命を約束される。
美空ひばりだの、石原裕次郎を昭和の象徴としてくりかえし番組で取り上げるが、それはもっと年上の連中であって、オレらのガキの時代は圧倒的に坂本九だった。とにかくあの笑顔があるとブラウン管が安定して見られた。あの手の底抜けに人のよさそうな顔が…いま、世の中からいなくなった。
六・八・九トリオで数々のヒットを作った坂本九、オレの後を継がせたいとエノケンにいわしめた坂本九、開闢以来、日本人ビルボード第1位に輝いた坂本九、そっくりさん番組があると必ず真似された坂本九…「あゆみの箱」のチャリティーや手話の歌も積極的に歌ってた坂本九。障害を持った子供たちに囲まれ、手を取りながら「ともだち」を歌う姿を見て、あれだけ自然に偽善的でなくふるまえる人は子供心にスゴイ、と思った。どこかに「やだな…」と思う気持ちがあると、振る舞いがぎこちなくなってしまい、それを明るみに晒してしまうのがテレビカメラの怖さだ。
九ちゃんは21年前に星になった。それも、目で見ても小さくてよく判らない、ささやかな星になって、きっと今夜も瞬いている。
見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光りが
ささやかな幸せを うたってる
見上げてごらん 夜の星を
ぼくらのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈ってる
手をつなごう ぼくと
追いかけよう 夢を
二人なら 苦しくなんかないさ
見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光りが
ささやかな幸せを うたってる
(作詞 永六輔 作曲 いずみたく ‘62)
写真家で酒友だった乙雅一氏の残した作品。
「タイガーバーム・ガーデン」。
諸君、行ったことありますか?香港で行った時、「なんだかなぁ、こりゃあ…(阿藤海ふうに)」と思った。美醜ではなく、圧倒的なパワーが秘められたまさに奇園。小枝師匠言うところのパラダイス。
ここは、“萬金油”で一躍富を築き上げた創業者、胡文虎一族が、シンガポールと香港に作った奇天烈な空間である。園内は道教の教えを具現化した、セメントでできたフィギュアや彫像で構成してある。
『…歴史的な文化遺産としても芸術としても価値を認められていないこの庭園にも、中国三千年の長大な文化を今に伝える多様なイメージがあふれている。これらチャイニーズ・イメージの表現の中に「日本人にはドギツイ」と思えるような中国固有の民族的習俗に貫かれた独特の感性をつぶさに象徴的に見ることができるのである…』と編著の画家谷川晃一さんはいふ。文はねじめ正一、島尾伸三、草森紳一が寄稿。
この感覚、日本人にはない俗悪感が横溢している。油の悪い中華料理を食った後みたいに、さぞやお腹一杯になるだろう。ずい分たったのに、まだ胃酸が上がってくるような…これをファインダー越しに見つめ、バシバシ撮って切り取ってくる乙兄は、やっぱり端倪すべからざるものがある。