さてますます個人的な話になるよ。
当たり前だ、オレのブログなんだもの。 御用とお急ぎの方はパスしておくれ。
小仕事と同窓会かねての今回の東京行き。
行きはまだ体力有り余っているので深夜バスで向かうことにした。
カーテンを引けば個室状態で、快適な筈だった。
だが、寒すぎた。 寒くて寝られない。
不機嫌なまま、朝7時の新宿南口に着く。
喫茶店のモーニングもまだ開かぬ。
新宿南口、黄色い看板の「老辺餃子館」の上にあったバーでバイトしていた。
カクテルの注文が来たら、そっとカクテルブックを盗み見て作った。
合間にゃカラオケの司会もしてご機嫌うかがう、インチキバーテンダーだった。
京王線の改札は想像よりちんまりした感じ。
かつてしたたかに酔って鞄パクられ無一文になり、最低一区間分見知らぬ人にもらい、
とにかく眠ったのがこの場所、朝のラッシュの大雑踏に叩き起こされた。
そこから小田急に乗り、新宿~箱根、箱根~新宿、 新宿~藤沢、藤沢~新宿…と
めざす向ケ丘遊園までちっとも帰れず、着いたら夕方。三日酔いになったことがある。
あの頃はなんだかとても時間の余裕があった。
ともかくも、30数年前、東京生活の足跡を辿ってみたいと思う。
京王線「明大前」。 初めての一人暮らしはこの街から始まった。
ここで他人の家の二階に間借りした。
駅前に出てみると、田舎の風情はどこかへ消えていて、
すぐそこまでマンションが迫っていた。
ローカルなパン屋があったが、それも消失していた。
背中側、井の頭線の頭上渡り、明大の方に行くと、小林書店という古本屋あり、
そこで買った「芸のこころ~三津五郎・安藤鶴夫」はまだ手元にある。
牛丼とカレーの合い掛けの店があり、福神漬け山盛りにしてよく食った。
2軒とももう無い。
すずらん通りの喫茶店にいると、旧正月だったのか、三河漫才の太夫才蔵が入って来て、
訳のわからぬ店員に追い返されていたのを見た。
もうそんな街の余裕も残ってやしないだろう。
芝居してた頃には、よく明大和泉校舎に潜り込んで、舞台装置作ったりしたもんだ。
今ならセキュリティー問題になるだろうが、それぐらい世の中ゆったりしてた。
駅へと戻り、京王の高架くぐって反対側へ。
こちらはなつかしい風景が広がっている。 ちっとも変わらない。
駅からスグの割に拓けないのは、地権者が頑固なのだろう。
見た覚えのある古いアパートがあった。
この辺だ。
松原2丁目…そう、この路地に間違いない。
ここだ。Iさん宅。なつかし~
この二階の右側の部屋に下宿していた。
3人が間借りし、風呂なし、共同便所で当時2万円だったと思う。
変わらね~、まだサッシ窓ぢゃないよ。
よく女の子を連れこんで、大家さんに
「独身の男の子もいるんだから、困ります!」と叱られた。
靴を持って上がらせ、出て行く時も大家の部屋の気配をぬすんで、
サッと出させるのだが、こっちの行状はたいがいお見通しだったろう。
高齢だったからもう生きちゃいまいが、今は誰が住んでるのだろうか。
近所に松原カトリック教会があって、そこの学生寮でめしを食わせてもらってた。
渡辺さんという賄いのおばさん、親切にしてもらった。
敷地内に「オリエンス宗教研究所」という立派な建物あり、なんか怪しいが、
そこに潜り込んでは時々知り合いの神父にシャワー浴びさせてもらい、
出てきたら、コーラの瓶を差し出し飲ませてくれた。 有難かった。
朝の掃除してた事務員さんに、学生寮のことを聞くと、
もう10年も前になくなったとのことだった。
高槻から来た…と言うと、「あの、高槻?」と言われた。
小学生2名殺人事件がさかんに報道されていたので。
お、こんな昭和の門構えもなつかしすぎる。
いじわる婆さんが出てきそうでショ?
バイトした大衆洋食屋も、影も形もなかった。
そこでバイト中、クリスマス前にジョンレノンが撃たれたと記憶する。
ラジオから「Happy Christmas」が何度も何度も流れていた。
この高架下、こんなに暗かったかなー。
早朝というのもあって、学生の姿が少なく、なんとなく覇気のない
寂しい気持ちになった。 店という店が開く前だったからかな。
駅へと戻って、次なる思い出の地、「下北沢」へと向かおう。
ほんのちょっとの追憶・・・センチメートル・ジャーニーは始まったばかり。