ロックンロールの源流にいる、ビルヘイリー。
映画「暴力教室」のテーマとなった、Rock Around The Clock のヒットで、
一躍ロックンロールは世に躍り出る。
彼は元々、ウェスタンスイング出身である。
1925年ミシガン出身、父はバンジョーやマンドリンを弾いていた。
13歳で初めてギターを手にしたウイリアム少年。
18歳で初レコーディング。
The Downhomersのグループ名で、ローカル局で活躍。
その後、
1948、The Four Aces Of Swing
1950、Bill Haley And His Saddlemen
52年にCometsを結成。ここでR&Rになる。
何が分岐点になったのかはつまびらかではないが、
リトルリチャードやチャックベリー、ファッツドミノなど、若い黒人ミュージシャンの
R&Bに強い影響を受けたのは確かだ。
ロック・アラウンド・ザ・クロックのヒットは54年。
55年にはビルボード8週連続1位と爆発的に。
2500万枚、ロック史上、最初で最高の売上げたシングルだったが、想像がつかない。
いろんな歌手が競作したsukiyakiは63年の1位で、1300万枚以上らしい。
それと比べてもギネス級だろう。
その翌年、いよいよプレスリーがハートブレイクホテルで登場し、
大向こうの熱視線をかっさらっていく。
ウエスタンスイングは急激に凋落を迎え、
歌手たちは一様に、ハッとを脱ぎ、ロカビリーに傾倒していく。
ビルのカールを巻いた前髪、何処となくいけ好かない感じが反抗的な若者に受けたのか。
のぺっとした顔は爬虫類というか、ミュータントっぽくて、おもしろいけどね。
黒人のリズム&ブルースを、白人が歌うとカントリーにチャートされるという時代。
その間を自由に行き来できた新しいタイプのミュージシャンの到来だった。
西成区を南北にはしる、紀州街道。
その南の端に位置するのが、塚西。
帝塚山の古墳の西に位置することから、この名がある。
時折、チンチン電車(阪堺線)が往来する。
NHKカルチャーの講座「下町グルメさんぽ~天下茶屋篇」が終わったので、解禁とする。
ああ、ここに書ける日を待っていた。
昼の日中から、店は帝塚山マダムやら、西成マダムやら入り乱れて賑々しい。
おとっつぁんは社食やらコンビニ弁当などでお腹を満たしているというのに…、まぁよろし。
下町洋食というには、見事に先入観を裏切ってくれるだろう。
若い厨房スタッフたちが14~5人もいて、黙々と働いている。
ここは、住之江区の老舗「源ちゃん」出身の「Genji」。
その名前はつとに聞いていたが、ようやく来ることができた。
余裕を見て来たのに、乗り換えを間違えて堺まで行ってしまい、
慌ててUターンし、タクシーで昼営業のギリギリに滑り込む。ハァハァ・・・
無駄なカロリー使こてもた。
こっちは一人なので、カウンターに通される。
迷わず注文したのは、源氏弁当・十品。
これを頼むつもりで来た。
すっと、新聞が届けられる。
いいな、キレがある。
そんなサービスはミナミの「バー238」以来だ。
ほどなく届いたのが、これだ!
1…2…3…!
デデ~ン!! 源氏弁当(10品)¥2100 食のワンダ~ランドやぁ・・・
フレンチでいうところのムニュ・デギュスタシオン。
ちょっとずつ味見のできる小皿料理。
私みたいな口から生まれた口卑しい人間には、もう、何をかいわんや。
幸せすぎてなんだか怖い。
迷い箸も自由。こころゆくまで迷って下さい!
煮込みハンバーグのエッグソース、鱒の西京漬け・・・かな。
海老フライが2本。タルタルソースもつく。
しかも!10品揃えりゃいいってもんぢゃなく、ちゃんと熱いものは熱いことに感動した。
生春巻き、ウニのジュレ、ポテサラ、右上の小鉢はワナワナ震えながら忘れた。
熱々の海鮮グラタン、茄子の煮ものの上には新子。
説明してもらったが、これだけありゃ憶えられない・・・!
一気加勢に食べ、もちろん口の中をやけどしたグラタン。
10品と言いながら、実は11品。 一皿多くて文句言うヤツはいない。
基本、温菜5、冷菜5で構成するらしい。
オレならこれで、日本酒1合、焼酎1杯、ワイン白赤1杯ずつはいける。
下見という大義名分ゆえ、自主規制。
ごはんも美味い。
いい店はこういう小さな香の物まで大事にする。
漬物が美味い店はなんだって美味いといえる。
「おかわりお持ちしましょうか・・・」
オレの体格を見て、向こうから声をかけてくれる。
しかも! 出て来たおかわりには
ちりめん山椒が乗っかっているではないか。
不覚にも胸がジ~ンと来た。
どこの新婚家庭で、ここまで気の付くヨメがいるだろうか・・・!
食べ散らかしたあと。
ああ、洗いものが大変だ・・・と思う吾は、小物なりき。
小物けっこう。
シメはコーヒー。
これはお値打ち、満足なりき。
コースはなんと週替わり!
台北の「鼎泰豊」に負けじと、洋風の焼き小籠包を考案!
お隣のファミマの前や、日本橋オタストリートで販売もしている。
若い連中に常に刺激を与え活性化させ、チームをまとめて行く店主、元川篤さん。
まだ44歳の若さだから畏れ入る。
店主が「大阪の田舎」と言うがごとく、かなり来にくい場所ながら
誇りを持ってこういう店が頑張っていることに心強く思った。
大阪、自信喪失してる場合ではない。
うまいもんをガッツリ食って、さぁ、明日も生き抜こうではないか!!
どう考えても40年ぶりぐらいの浜寺公園は八重桜が盛りだった。
なつかしいというかなんというか、記憶も消えかかっている。
ガキの頃、ちゃりんこ転がして、浜寺公園プールにさんざん通った。
浜寺プールは昭和38年のオープン。高度成長期、子供の声が響き渡った。
堺出身者なら、浜寺か金岡プールの水をちょっとずつは飲んでいるだろう。
この紀州街道に面した公園の入り口はちっとも変っていない。
浜寺公園ができたのは明治6年(1873)。日本最古の公営公園。
すぐ目の前は白砂青松の浜が広がり、東洋一の海水浴場となっていた。
我々の時代、浜寺水練学校出身の泳ぎの達者な学友が何人もいたが、
その昔はこの海岸で行われたらしく、水は澄み、
簡単に素足で砂に潜る貝を探り当てることができたそうだ。
東の湘南、西の浜寺と称され、一帯は海浜リゾート地。
芦屋などと並び、浜寺・上野芝は高級荘地だった。
逆側を見ると、南海本線「浜寺公園」の駅舎。
アーキテクチャーに興味のある方は、このモダンな名建築をご存じだろう。
明治を代表する建築家、辰野金吾、明治40年(1907)の設計。
東京駅、日本銀行などでおなじみの西洋建築の第一人者。
駅から公園まではまっすぐ、商店街が伸び、そこにはかつて古い食堂が何軒も並び、
店先には浮き輪やスイカに似せたビーチボールみたいなのが店ざらしになっていた。
そんな古ぼけた、失礼、いい時代を知る食堂も姿を消し、マンションになっていたのに愕然。
この「富士家」はその生き残りとみえる。
この並びに精肉店が一軒あったように記憶。
なんだか黄色っぽいコロッケだったような。半日、プールで発散した体には無性に旨かった。
金岡プールは関東煮とキリンレモン、浜寺はコロッケがガキどもにはちょっとした贅沢だった。
海水浴時代を知っているのだろうか。
疲れてトボトボ帰る客の中には、ここへ寄る家族連れなんかがいて、
真っ赤に日焼けした首筋に冷たいおしぼり当てて、お父さんはビールを。
お姉さんはバヤリース、子供はオムライスなんぞを食ったのだろう。
公園の正面入り口の手前に、阪堺電車の終着駅がある。
この駅舎の古くさいこと。もちろんメンテナンスの手は入っているだろうが、
公園の松林と一体化も甚だしく、見過ごしてしまいそう。
建て替えなどせず、そっとしておいてほしい。
潮風にさらされたような、漁具の物置みたいな駅舎を置き去りにして、
高度成長とともに水質の悪化は著しくなり、プールになり、
潮の音ははるか西へと耳に届かなくなった。
さて駅前の道の拡幅工事が行われたとかで、南側にあった商店は一掃され、
古くから続く和菓子屋も奥へ下げられていた。
明治40年(1904)創業の菓子屋、「福栄堂」。
ここの看板商品がこの、浜寺公園の松林ゆかりの「松露だんご」。
これがばかに美味い。
球体に近づけようとして、なんとなく不揃いなのも、いとおしい。
上品なこしあんの中は、松露よろしく柔らかいお餅。
オレは洗練された京都の上菓子よりも、ひなびた団子の方に惹かれてしまう。
生まれついた性分、べたべたの庶民であるから仕様がない。
薄茶に合う菓子より、番茶に合う団子だな、やっぱ。
茶団子も、ういろうのごとき柔らかさ。
ほの甘さがすっと消えて行く。
ガキの頃は、行きは公園見えたらダッシュ。帰りはコロッケにダッシュで、
こんな老舗菓子店の存在なんか、気がつかなかったよ。
贅沢はいえないけれど、向かいの松林の中で、緋毛氈でも敷いた床几を置いて、
こういう団子でもって茶の一服もいただけたなら、こんないいもんは無いと思うんだがな。
お前、しょうもない女にひっかかる前に、ぼちぼちお茶屋へでも行って
きれいな遊びというものを覚えなさい・・・掛け取りはワシがあんじょうしとくさかい。
そんなふうに親爺に言われてですな、幼少のみぎりより祇園町をうろついて、
「ぼんぼん、こんにちは」、「若、どちらへ」などと声がかかり、白粉の匂いなんぞを嗅ぎ、
都おどりでぽーっと見染めた舞妓に通い詰め、襟替えの時に無理を言うて所帯を持ち・・・
などということはただの一度もなく。 ああ、そういう商家の倅に生まれてみたかった。
だいたいがそういう財力も胆力もないタラリーマンの子倅に生まれ出で、
三味線の音がチリンともならぬ家で育ち、お姐さん方に洟をひっかけられることもなく、
今日まで京都の花街とは、ただ「通行する人」として心安くさせていただいている。
しかし、人間半世紀も生きてきて、我等のような世にいう「軟派」な仕事をしていると、
お茶屋に上がる機会も何度かはめぐってくる。
そんな経験上いうと、キャバ嬢などよりもはるかに献身的に楽しませてくれる。
しかしながら、同時に座敷とは人品が厳しくはかられる場だ。
お姐さんたちは、お酌して軽口に応対し「へぇおおきに・・・」と言いながら、
明晰な電算機をはじいてるわけだ。
まずキャバ嬢などと決定的に違うのは、芸の存在である。
彼女たちは女紅場という技芸学校で日夜芸を磨いているのだから、
その芸…舞いをきちんと見てあげることがマナーだ。
そして、ある程度善し悪しを知り、その上達ぶりを褒めたりすることが大事である。
そのためには、やはり安くない授業料が必要となるんだなぁ。
私など授業料を払わず、NHKの芸能花舞台などで垣間見る程度だから、何にもわかりゃしねぇ。
しかし何度めかの茶屋遊びともなると、ちょいと唄の一つも歌いたくなるのが人情。
小唄・端歌はダメでも、都々逸の一つ。江戸や明治の流行り唄でもまぁなんとか。
ちょっと一曲憶えて行って、お座興でひとつ…なんてのも悪い話ではない。
一度、「姐さん、あれ弾いてくれる・・・?」というと、
すんまへん、私知りませんねん、といわれ、ガック~~ンと肩すかし食った経験がある。
あれは本職の地方さんではなかったのかもしれぬ。場所は宮川町だった。
脱線するが、宮川町は格式としては、祇園町・上七軒・先斗町などに先行されているも、
むちゃくちゃ可愛い子がいるのだ。 むろん洟もひっかけてくれやしないけど。
世の中から旦那衆といわれる大人が急速に姿を消している昨今、
お座敷の客のレベルも下がっているとみる。
芸を求めていない客に見せるならば、おざなりでいいということなってしまう。
客となるからには、少しは技芸に興味を持ち、歴史やら風俗を解っていないと
座敷の芸なんておもしろくもおかしくもない。
芸の道を進ませるも、ただの酌婦にしてしまうのも、客にゆだねられている。
いつまでも「祇園小唄」や「虎虎」でお茶を濁されては冗談じゃないぞ!と怒れ。
いい芸を見せてみろ、ぽっちりの一つも買ってやらぁ・・・なんて言いたいぢゃないか。
ぽっちりたぁ、舞妓の帯どめですな。あの古びた宝石を打ちこんだチャンピオンベルトみたいなの。
あれって一点もので、何百万もするそうである。 前言取り消し~!
回転すし、固定すし、何だっていただいちゃう。
それはそれなりに頭をガチャッと切り替えたら、楽しめるものだ。
頑固な職人の技だけを頂こうと思うと、財布の方がついていかない。
高槻に来て、当初はあちこち探してはみたものの、
近所にこれといった寿司屋が見つからず、回転すしの「長次郎」で納得させていた。
でも、最近当初感じた、「回転すしにしたら、まぁええやん」という印象がなくなった。
長次郎さんよぉ、言いたかないが店広げて、ちょっと寿司がおろそかになっちゃあいませんか。
何がというのは言いにくいが、魚も当初感心したレベルではないし、寿司めしも別段。
こう何回も肩すかしを食わされると、もういいやって気持ちになる。
全国にチェーン展開するようになったのと、味の低下がほぼ同時期だったから、
こうも言いたくなる。 当初は回転寿司といわせないぞという気迫に満ちていた。
さて、最近の若けぇのはサーモンの寿司なんぞを喜ぶ傾向があって、回転ずしでもマグロに
次いで人気第2位ぐらいにランキングされる。オレぁ生ジャケの寿司なんてやだね、
ヒグマぢゃないんだから。いくらでも旨い魚があるぢゃねぇか。
ま、しかし、嗜好なんつうものは時代と共に変わるもので、戦前まではトロなんて見向きもされ
なかったそうだ。貧乏人が脂ののった安マグロを買って、ドロドロのネギマ鍋で食ったと聞いて
いる。マグロはすっきりした赤身と決まっていた。
ずいぶん前の本だが、日本橋吉野鮨の先代がまとめた「與兵衛のすし」の口絵に、
文政年間 に始まったにぎり鮨の祖、華屋與兵衛の鮨の絵が乗っている。
鮎の姿鮨(四谷の纏寿司にあった)やら、いかの印籠詰め(人形町喜寿司にあった)に交じって
紅い魚が見える。これ、マスなんだそうな。
鮭鱒(けいそん)といって、ひとっくくりにするような魚だ。
するってぇと何かい、おまいさん、江戸時代からサーモン鮨みたいなのがあったのけ。
ああ、そのようだ。つまんねえ!