たまには音楽のことも書かねば、ただの食い意地のはったオッサンのブログになってしまう。
いやもう、なっておるわい。 今回は、わが愛するヒルビリージャズ、またの名をウエスタン・スイングのことを。
カントリー&ウエスタンと混同される方もいるかもしれない。だが、少なくとも私はそう理解していない。
たとえば、もっとも知られたボブ・ウイルスはフィドラーで、40年代はB級西部劇にも出演してるが、
同志でありパイオニアの、ミルトン・ブラウンは一切ウエスタンムードで売ったことはなかった。
ボブウイルスも一時期、上記のようにホーンを入れ、テンガロンを被ることもなく、
南西部の人々に向けた田舎のジャズを追及していた。 さよう、ウエスタンスイングはジャズに一番近い。
Bob Wills And His Texas Playboys がスタートするのは1934年、オクラホマ。
ボーカルは、トミーダンカンである。
1911年、テキサス州ウイットニー生まれのトミーは14人兄弟。ラジオから聴こえてきた
ビングクロスビーからはクルーナー唱法を、エメットミラーやジミーロジャースからはブルースを学んだ。
トミーの温かく、時に鼻歌のような、居心地のいいボーカルは、プレイボーイズの看板となった。
歌のほかピアノ、ギター、ベースもこなし、多くのヒット曲も書いた。
1937年のリハーサル風景。左から Everett Stover, Zeb McNally, Leon McAuliffe,
Allan Franklin(アナウンサー),Tiny Mott, Herman Arnspiger, Al Stricklin, Joe ferguson,
Bob Wills(中央フィドル), Smokey Ducus,Tommy Duncan(腕組み), Son Lansford, Sleepy Johnson
1942年にトミーは太平洋戦争に応召。メンバーは次々に戦地へ駆り出されて行く。
その頃からバンド内では争いが勃発していた。
ボブの飲酒が主な原因である。奇行が目立つようになり、仕事に穴を空けるようになった。
リーダーなしでの演奏に怒った客の矢面に立たされるのは、メーンボーカリストだったりする。
トミーはボブに待遇の改善を求めていた、1948年。
ある日、ステージの出番前にボヤいていたのを、ボブに立ち聞きされる。
「オッサン、酒ばっかりかっくらって、この頃グズグズやんか。これぢゃアカン、アッハー言うてる場合やないで」
ボブは怒り狂い、ギターのEldon Shamblinに言った。 「Fire!」
「火事だ!」 いや、ちがうだろ。
「タバコの火、貸してくれ!」 なんでやねん。
「やつはクビだ!」 これだ、英単語もいろいろ意味があってややこしい・・・。
こうして、ボブは手塩にかけて育てたトミーダンカンを、一夜にして切った。
トミーはその後、自分のバンドを組むのだが、やっぱりボブウイルスとやってる時代がよかったな。
だが、時代は徐々に変わってきていた。 エルビスプレスリーの出現。
ウエスタンスイングからロカビリーに転身するものも続出。 ビルヘイリー&コメッツなどもそうだ。
58年に加入した歌手は、Leon Rausch ミズーリー州出身。
トミーよりぐっと地味になってしまうが、トミーのソフトな語り口ではなく、
線の太い、西部の男をホーフツさせる塩辛声で、これはこれでいい。
レオンを得て、ようやく、トミーの陰から脱することができたといえる。
1960年のリユニオン・アルバム。 ここで久々にボブとトミーは共演を果たす。
ボブ55歳、トミー49歳。 トミーは成熟したメロウなクルーナーへと進化を遂げていた。
1997年、サンディエゴのモーテルの部屋で彼は心臓疾患で亡くなった。
今年でトミーは生誕100周年。
トミーダンカンという優れた歌手がいたことを、覚えておいてもらいたい。
そして、ウエスタンスイングという音楽があることを。
そして、この音楽に魅入られた、オレたちみたいな“はぐれ者”がいることを。
来る7月2日(sat) うちのバンド マーベラス桜井& His Hot Fiddle Band が公開リハーサルをするよん。
大阪・高槻市のWestern Saloon 「Route 171」という店で。 リハなのでLive Fee などいりません。
興味お持ちでお近くの方は、どうぞお店まで。 072-674-3160