マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

帰るべき故郷もなく

2017-04-24 01:32:44 | Music

録ったままだったボブ・ディランの「No direction home」をやっと観た。

公開は2005年だから、10年以上の周回遅れだが、大丈夫。こいつは古びたりはしない。 

監督はザ・バンドの解散コンサートを撮った「Last Waltz」、「Taxi Driver」、近くは「沈黙」の

マーチン・スコセッシ。 彼でなければこのインタビューはうまく行かなかったと思える。 

 

 

【監督】マーティン・スコセッシ 【出演】ボブ・ディラン,ジョーン・バエズ,アレン・ギンズバーグ,
ピート・シーガー,ザ・バンド,アル・クーパー,ピーター・ヤーロー,リアム・クランシー,ジョニー・キャッシュ,
ミッチー・ミラー,デーブ・バン・ロンク,ウディー・ガスリー,マリア・マルダー,スージー・ロトロー,ブルース・ラングホーン,
ジョン・コーエン,トニー・グローバー,ロビー・ロバートソン,ミッキー・ジェームズ,イジー・ヤング
【翻訳・監修】菅野ヘッケル,【ディラン訳詞】中川五郎
 


顔ぶれがスゴイ。 つまりディランが歩いて来たのは、40年代~60年代の米国音楽史そのもの。

最初に音楽に興味を持ったのはラジオから聴こえて来る、ビル・モンローの「Driftin' too far from the shore」。

へぇ~、オレたちと近いぢゃないか。


ミネソタ州生まれのロバート・アレン・ジンマーマンは、ハンク・ウイリアムスに憧れ、エルビスや
ロカビリーに影響されたごく普通のギター少年だった。 ミネソタの玉子売りとは関係ない。 


しょうもないこと言うな。


そのうち、生ギター1本で自作の歌を歌う、ウディ・ガスリーという人のことを知り、

病床に居ることを知り、紐育の病院を訪ねた。 ウディはハンティントン舞踏病を患っていた。

ディランはウディ・ガスリー・チルドレンともいわれるが、直接はほとんど教えを請うこともなかった。




 

 
ウディは30年代だかに流行ったアーヴィング・バーリン作曲の「God Bless America」を聴いて

米国に神のご加護を…という軍威高揚歌に、なんと勝手な歌と腹を立て、俺たちの米国の歌をと、

「This Land Is Your Land(我が祖国)」を書いた。 誰もが一度は耳にしたことがあろう。

オバマ大統領就任式で、老齢のピート・シーガーがブルース・スプリングティーンらと歌い、

大合唱したあの歌である。あれは感動的な光景だった。


ディランはウディと行動を共にした、ピート・シーガーや、ランブリン・ジャック・エリオットによって

ギター一本で歌うその精神的なものを学んだに違いない。
 

 

 


ピート・シーガーは戦時中、アルマナック・シンガーズでウディと一緒に社会的な歌を歌い、

その後はウィーバーズで世界の民衆の唄を掘り起こし歌って来た。

60年代フォークリバイバルのシンボルのような男。

ディランも彼と行動を共にして、ステージで歌い始めた。

エレキギターを弾くようになって、ピートは烈火のごとく怒り、斧でケーブルを

ぶった切りたいと言って、ディランは決別するようになるが、そんな時代だった。

エレキギターを使うと商業主義だの、時代に迎合してるだのといわれた。


 
 



 ディランをフォークの神様的な扱いをし、反権力のシンボル化しようという流れに

 うさんくさいものを感じて、嫌気がしたに違いない。

 自分は反戦でもティピカルソングを歌いたい訳でもない、とかつてのインタビューで答えている。

 オレは音楽をやりたいんだと。

 これはキツかったと思う。

 同時代にプロテストフォークを歌っていたフィル・オクスという歌手は

 ディランよりさらにジャーナリスティックな目を持ち、鋭い歌を歌ったが、

 ディランのようにはなれず、自ら命を絶つはめになる。



 日本でも同様のことが起こり、マスコミは岡林信康、高石友也をまつり上げ、

 岡林はとうとう、キューバへ行くとギターを置いてしまったり、

 高石は米国へ行ったり、田舎に引っ込んだりして、ブランクを置かなければならなかった。

 歌手に何を求めようというのか、歌で世の中を変革できるとでもいうのだろうか。

 そこはよく判らないが、持ち上げて落とす、マスコミもレコード業界も功罪がある。

 もちろん、当時のファンにも。

 

 

 

 
 直接的なことばではなく、あくまでも私的な心象風景を歌い、

 それが聞き手に自由に解釈される。 それでいいという。

 そんな方向性を見つけたところに、ディランの凄さを見た思いがした。 

 昨年ノーベル文学賞を受賞して、歌は文学かよ?と違和感を感じた方々、

 まだディランが謎の人は、一度機会を見つけて視聴なさるをお勧めしたい。
 

 
 

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年度の終わりは蕎麦で締めますか…。

2017-04-01 01:46:44 | 大阪キタ

蕎麦屋で一杯っていうのは至上の悦びですな。

ちょっと前まではどうもキザでいけなかったが、(それでも臆することなくやってましたが)

もうそういうのが似合う年齢になっちまったというんですかね。

というわけで、西天満のいつもの蕎麦屋さんへ。

「なにわ翁」。尊大に聞こえるだろうが、常連みたいな顔が出来るほぼ唯一の店。





 

というか…常連みたいなふりをさせてもらってるだけですな。

そんなしょっちゅう来れるほどの日常の蕎麦屋とは異なる、いうなれば上等蕎麦屋。


ここではいつも、島根の豊の秋というお酒をいただく。

酒だ酒だという主張をしない、蕎麦を惹き立てる酒だと思ってる。

肴は…と。 春だから、蛍烏賊の酢味噌。



 


この酢というのがまた、日本酒と相性がいいとくる。

ぬた、〆鯖、たこ酢、南蛮漬け、梅干し、らっきょう…なんだって酸だ。



 

 

季節は、浅蜊と蛍烏賊。

濃いつけ汁にプカプカと蛍烏賊が浮いているざるっていうのも美味いが、

ここは温かい浅蜊そばにしようかな、と思ってると、

「浅蜊そばはヌキにして、ざるを召上ったら…」と若女将に言われた。

そいつはいい。 ヌキという手があったか。

但し、これも若いのが背伸びして「ヌキで…」なんて言うのは五万光年早い。

アタシだって、キザになるから今までよう頼まなんだ。

程なく来た、浅蜊のぬきがこちら。
 






大ぶりの浅蜊がたっぷり入っている。

今日の浅蜊は熊本らしく、来月には浜名湖に切り替わるという。

こいつをグビリとやりつつ、酒を飲む。 これは堪らない。

身はやわらかく、香りがいい。 

となりに座った中国人カップル客には悪いが、

蕎麦好きの日本人てのは、こうして、酒を楽しむ訳だよ。 わかる?



蕎麦は翁、高橋邦弘譲りだが、温かいかけ系に限っては、

昭和5年創業、初代譲りのだしを守っている。

このだしは東京にはないね。 東京中食ったようなこと言うけど。





 

蕎麦はやっぱりここの定番、二八をいただく。 味もさることながら、喉越しが重要だからね。

香りは申し分ない。

なんていうのかな、野の香り。 ナッツともちがうが、野っ原にひっくり返って

いろんな野草や土の入り混じった、野生の香り。 これが最も大事だと思っている。

スルスルと小気味よく啜って、間合いに一杯。 これがまたいい。

うどんぢゃこうはいかない。 やっぱり先人達が言ってるように蕎麦と酒は引き合う。



蕎麦が少なくなったら、蕎麦猪口の中へ入れて、余ったネギと蕎麦湯をちょいと入れる。

へっへ、これで一口のかけそばが楽しめるってわけ。

ざるに蕎麦の一本二本、残しなさんな。

箸を立てて、きれいに摘まみあげるんだ。 な、外国人観光客よ。 オレのざるを見な!





 

さっと洗えば、お職人だって手間が省けるてぇもんぢゃねぇか。 ありゃ、いつの間にか江戸っ子だ。 

これは最低限のエチケットってぇもんですよ。そこのアジアの観光客よぉ。

ガイドブックに書いておけえ。


そうそう、ここには十割の太打ちだってある。



 

 

ちょっと摘まんで塩でやるのもいいけど、もちろんつゆでも。

小気味よく啜るって芸当はこれはムリ。

啜ろうとすると、空気がうわっ滑りして、むせるね。

こいつはしっかり噛んでやることによって、食感と甘み風味が出て、蕎麦の香りが鼻から抜けて行く。

ぜひ一興だから、この太打ちは試してみることをお勧めしたい。



3月も終わり。いよいよ新年度かぁ、関係ないけど。

この3月で閉める店が4、5軒あって、事情はそれぞれ違うんだろうけど、

アベノミクスとやらの失策がつまりはジワジワ効いてきたということか。

ったく世知辛い世の中になったもんである。

キショーメ、もう一本!

 



 

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