納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
開幕絶望の淵から見事蘇ったサブマリンに拍手!
4月6日、西宮球場での開幕カードの南海戦でこれぞ山田投手という所をその右腕で実証してみせた。この日から遡ること70日余りの1月30日、アンダースロー投手には致命傷ともいえる左膝半月板損傷の診断を下された。翌日のスポーツ紙には『山田開幕絶望』『選手生命の危機』の見出しが躍った。ところがどうだ。ミスターサブマリンは見事に蘇った。南海打線を6回まで2安打零封。7回表の守備でナイマン選手の投ゴロを処理する際にマウンドの窪みに足を取られて転倒し左膝を痛めてしまい無念の降板となってしまったが、継投した山沖投手が好投しチームに開幕戦白星をもたらした。まさにエース・山田ここにありの存在感だった。
強烈な痛みが残っていたに違いないのに試合後の山田は「お粗末な守備でお恥ずかしい限り」と途中降板を恥じた。更に「投手は一人で投げ切るもの。チームに迷惑をかけた」と持論を展開し、いかにもエースらしいコメントを残した。ひと口に70日といっても紆余曲折があった。医師は完治を早め、4月の開幕に間に合わせるには手術を勧めたが山田は固辞。春季キャンプ迄は注射治療と水泳トレーニングで筋肉強化に努めてキャンプイン。しかし痛みが再発し入院、リハビリトレーニングを余儀なくされた。「あの頃は本当にもうダメかと諦めかけたこともあった(山田)」と。上田監督も一時は球宴明けの復帰を覚悟し、今季前半戦は山田不在の先発ローテーションに頭を悩ませていた。
どん底から奇跡の復活を4月6日の開幕戦で見せてくれた。一時は山田に代わって開幕投手候補の一人だった今井投手は「最悪の場合は自分が開幕戦に投げなければと覚悟してました。でも山田さんのことだから調整して必ず開幕に間に合うと思ってました。いつもそうなんですよ、何があっても必ず自分の仕事はキッチリやる人ですから山田さんは」と胸中を明かした。開幕には間に合ったが今季は1年を通して膝痛との戦いが続いた。気持ちでカバーするのも限界がある。何度もリタイアしそうになったが終わってみれば18勝10敗、7月10日のロッテ戦で完投勝利し史上9人目の通算250勝を達成した。今オフは膝痛の完治に向けて入院治療に専念している。
イザという時、ダンゼン頼りになる " つのひろし "
7勝10敗・防御率4.42(14位)は若きエースと期待された本人としては不本意な成績だろうが開幕投手に抜擢され勝利したり、チームの連敗を「8」で止めるなど印象度はナンバーワンだ。4月6日、川崎球場でのロッテとの今季開幕戦で先発した津野投手はプロ2年目の19歳。大方の予想では昨季チーム最多の8勝した田中富投手だった。だが高田新監督は昨季最下位という屈辱を晴らす為に文字通り新たなスタートを若き津野に託したのだ。津野はその期待に見事に応え、坂巻投手の救援を仰いだものの6回2/3 を6安打・2失点に抑えて昭和42年の鈴木啓投手(近鉄)以来18年ぶりの10代での開幕戦勝利投手という偉業を成し遂げた。
「開幕試合と日本シリーズで投げるのが夢でしたから嬉しいどころじゃないですよ。もう最高です!」とハンサムな童顔に涙さえ浮かべて喜びを爆発させた。実は開幕の3日前から重圧で神経性胃炎を発症して注射と投薬を続けていたのだ。津野の奮闘で開幕戦勝利を挙げたがチームは9日の西武戦から19日の近鉄戦まで悪夢の8連敗を喫した。3連敗くらいまでは高田監督も悠然と構えていたが6連敗あたりから「とにかく元気よく声を出して…やるしかない(高田監督)」と同じ話を呪文のように繰り返すのみだった。その連敗を止めたのも津野だった。4月21日の近鉄戦(後楽園)で若きエースは7安打を許したものの1失点で完投勝利してチームを連敗地獄から救った。
「やるしかなかったですからね。たとえ打たれて走者を出しても点を与えなければいいと考えてました。とにかく気持ちで負けないようにと」。この8連敗を止めた完投勝利は今季初の監督賞(金10万円也)となった。選手・監督・スタッフは勿論、日ハム担当記者までもが喜んだ勝利だった。今季5位に沈んだ日ハムにとって開幕戦とこの連敗を止めた試合の勝利の印象が最も強烈だった。また津野は私生活でも目立った。新車のソアラ2000GT(300万円)を購入したり、刈り上げヘアに最新のファッションで身を包んだりと地味な選手が多い日ハムに入団2年目にして多大な影響を与えている。
サインプレーはお手の物。 " ワザ師 " 湯上谷
レギュラークラスが目立った活躍を見せることが出来なかったのも今季南海が低迷した一つの原因。そんなチームに彗星の如く現れたのがルーキー・湯上谷選手。高卒プロ1年目ながらシーズン後半戦に一軍に昇格するとメキメキと実力を発揮した。一軍昇格は8月20日、実はその前日に湯上谷は二軍の中モズ球場で倒れていた。「イヤというほど練習してフラフラだったんです。それでもコーチからティーを叩いておけ、と言われて室内でやっていたら途中で手足が動かなくなってしまって…」と脱水症状で倒れてしまったが、幸い症状は1日で回復し予定通り一軍に昇格した。昇格後はバスター、エンドラン、スクイズなど新人とは思えぬプレーを無難にこなした。
37試合・打率.262 (122打数32安打) ・1本塁打・6盗塁など高卒1年目として充分な結果を残した。この活躍に球団は12月6日に契約更改交渉で73%アップの五百二十万円を提示したが本人は「六百万円は欲しい」と渋い表情。だがペナントレースの1/4しか出場できていないからと「大幅アップは来年のお楽しみ(湯上谷)」とあっさりサインした。「来年は開幕からショートのレギュラーを獲ってフル出場します。来年は言いたいことを言わせてもらいますよ」と不敵な笑顔に球団側も苦笑い。二軍で盗塁王(33個)になった俊足を生かしてスイッチヒッターをマスターすべく秋季練習では猛練習に励み、「ある程度の手応えは掴みました。来季は足でも目立っていきたい」と意気込みを語る。
だが慢心は禁物。先輩の中尾選手は苦言を呈した。中尾は広島に在籍していた頃、高橋慶選手がスイッチヒッターを特訓していた当時の苦労を目の当たりにしていて、「湯上谷は本当に良い選手。それは認める。器用さやセンスは慶彦より上かもしれない。でもそれに胡坐をかいていたらダメ。レギュラーになると相手投手もそれなりの投球をしてくる。今年は1年生で他チームもお客さん扱いだった。でも来年からは厳しくインコースを攻められるだろう。それをどう克服するか。今の湯上谷は少し物足りなさを感じます。慶彦は血の滲むような練習をしてましたから(中尾)」と。夏場の練習で倒れたのもまだまだ本当の体力がついていない証拠だろう。先輩の心配が杞憂で終わるよう練習に励んで欲しい。
小さい体でデッカイプレー。金森永時は球界の宝
2年ぶりにV奪還したレオ軍団。今季は数多くのプレーにファンは熱狂しただろうが、違う意味で最もファンが熱くなったのは金森選手のあのプレー??だったのでは?とレオ番記者が印象度ナンバーワンに推すのが金森だ。昭和57年に金森がプリンスホテルから西武に入団した時に当時の広岡監督は「ウチのスカウトの能力を疑うよ。あの選手がプロで通用すると本気で思っているのだろうか?」と嘆いた。更に身長173cm(自称)のチビっ子で足も短く " ドンガメ " の愛称だった金森を見てこうも囁いた。「(足が短いから)捕手ならパスボールは少ないかな」と。とにかく広岡監督の金森評は散々だった。
過去3年間で143試合・打率.272・43打点・5本塁打の男が今季は129試合に出場し、打率.312・55打点・12本塁打と一気に開花した。打率は打撃10傑の8位にランクイン。今季は中日から田尾選手が移籍して外野の定位置争いは激化し、それを勝ち抜いての活躍に広岡監督も脱帽だ。そんな金森を有名にしたのが某スポーツニュースの " 珍プレー特集 " 。死球を喰らって『ワォ~』と絶叫し、悶絶する様を見たファンは大笑い。一種の死球パフォーマンスですっかり有名人になってしまった。「最近はあの番組のお蔭でファンレターも増えちゃって(笑)『痛いでしょうけどもっと当たってください』だって。本当に痛いんですから。笑えないっスよ!(金森)」と名前が売れるのも痛し痒し。
今季15死球のうち負けた試合は1試合のみ。「ドンちゃんが当たれば勝てる」とチーム内には新たな伝説も生まれた。昨季は65試合で12死球と2年連続で死球王だが勿論、打撃の方もチームに貢献している。4月25日のロッテ5回戦では延長10回裏に深沢投手からサヨナラ1号。5月5日の阪急5回戦では10対11とリードされた9回裏に山沖投手から逆転サヨナラ3号3ランを放つなど、打って当たってファンを熱狂させた今季だった。12月6日の契約更改では今季の九百万円から二千六百万円に大幅アップを勝ち取った。更改交渉では観客へのアピール度も球団に認められ「来季も僕に出来る野球をやるだけです」と決意を新たにした。もうスター不足なんて言わせない!
周囲に笑いを巻き起こしたカツオくん。あんたが " 大賞 " です
台湾時代からライバルだった西武・郭投手と共に来日して台湾旋風を巻き起こし、見事に2桁勝利した荘投手。陽気で茶目っ気たっぷりの荘は覚えたての日本語で♪きた~の、さかばど~りに~は~♪と細川たかしの『北酒場』を歌ったり、カムバック賞を受賞した村田投手や仁科投手の投球フォームを真似してナインの爆笑を誘ったり今やすっかりチーム内の人気者だ。春季キャンプで同室だった袴田選手は「めちゃめちゃ明るい性格だよ。日本語を教えてくれと言われて俺が教えると直ぐに覚えて、今度は歌を教えてくれと言ってくる。とにかく歌が好きで風呂の中でも何曲も歌ってた。まぁ上手いかどうかは別にして(笑)」と証言する。
面白いだけではなく野球の方もしっかり結果を残した。4月13日の西武戦(川崎)では同点で迎えた9回表から土屋投手の後を受けて登板し、11回まで無失点に抑えた。試合は芦岡選手のサヨナラ安打で勝利し荘が来日初勝利を飾った。3日後の近鉄戦(日生)では初先発して得意のシュート、ナックル、大小のカーブを駆使し猛牛打線を抑えて1失点・8奪三振の好投で完投勝利を挙げた。試合後のインタビューで「郭(西武)には負けたくないし、リリーフは嫌いだからこれからも先発で頑張りたい」と来日当時から世間で騒がれていた郭に対してライバル意識を剥き出しにし、自らの存在を大々的にアピールした。
自信を持って投げた球を「ボール」と判定されると右手で帽子のツバをちょいと持ち上げて天を仰ぐポーズをよくするが、このアクションがロッテファンの間で大流行。そして三振を奪った時は白い歯をこぼしながら笑顔でガッツポーズして喝采を浴びた。「投手陣では兆治(村田)の次に目立った。平和台での近鉄戦みたいな印象に残る投球をしたね。とにかく明るくハツラツとしているからマウンドでも映える」と稲尾監督の評価も高い。投手陣のリーダー村田投手も「カツオはよくやったよ。表情が豊か?ああいうユーモラスな仕草は日本人には出来ないね。来年も今年以上に頑張って欲しいね」とエールを送る。ファンを楽しませた荘は「郭より多く勝ててよかった。俺の勝ちね」とウインクして台湾へ帰って行った。
失敗を恐れず GOING MY WAY こいつはタダモノじゃない
勝負強い打撃と派手なファインプレー。かと思えば何でもないゴロをポロリ。近鉄の内野陣に大石選手とはまた別タイプのニュースターの誕生である。「ボク、自分では皆さんが言うほど守備が下手だとは思っていませんよ」と口を尖らす村上選手。だが今季35失策は2位の石毛選手(西武)の10失策を大きく離して断トツの " エラー王 " だ。しかし村上は屁とも思っていない。9月18日の南海戦は4対25という歴史に残る大敗だった。この試合で村上は3失策を喫したが臆することなく4打数4安打と打ちまくって気を吐いた。これには相手ベンチの穴吹監督も「奴はエエ選手になるで」と思わず呟いた。
契約更改交渉でも「彼はエラーのマイナス査定も多いけどチームへの貢献度は高い(フロント幹部)」と来季は3倍増の九百八十万円に跳ね上がった。また岡本監督は村上と大石との共通点を指摘する。「あの2人はエラーをしたり三振してベンチに帰って来ても一言『スンマセン』と言うと後は他人事のようにふんぞり返ってる。こっちも呆れて何も言う気になれんのよ。あの度胸は大したもんや」と。近鉄には栗橋選手や仲根選手のように考え過ぎて落ち込んでしまう選手がこれまでは多かった。そこに登場したのが " 長嶋タイプ " の陽気で切り替えの早いタイプの2人。村上が順調に成長すれば来季以降の近鉄には大石・村上の陽気で明るい楽しみな金看板が誕生する。
私生活での目立ち方も相当なもので20歳になりたての食べ盛り・育ち盛りだけに人一倍食べて " 寝る子は育つ " の格言通り豪放磊落に生活していた。今オフに合宿所を卒業した先輩の佐々木選手は「デーゲームの時なんか村上の部屋のドアをドンドン叩いて起こすのが僕の役目でした。来年からはその役目から解放されてホッとしています」と胸を撫で下ろしたくらいだ。先輩を目覚まし時計代わりにする神経も並みではない。またシーズン中からマスコミを賑わせてきた外野コンバート説について「せっかくここまでショートを守ってきたんですから絶対に嫌です(村上)」と自分の意見を臆することなくハッキリと言える骨っぽさも持ち合わせている。実質 " 2年目のジンクス " となる来年こそ真価が問われる年になる。
コイと恋でお金も来い!オレ、エンターテイナー欠端だ
今季はカープキラーの名を欲しいままにし、チーム二番目の9勝をマークした欠端投手。周囲から " ザ・カケハタ " と呼ばれるエンターテイナーに「お願いだから黙っていて欲しい」と懇願されたことがある。クジラ番記者が合宿所の部屋を訪ねた時、乱雑に散らかった机の上にポツンと写真立てが置かれてあった。無類の親孝行で毎月10万円を両親に送っている欠端なので家族の写真かなと目をやると、そこにはニッコリと微笑む可愛い女性が写っていた。事情を察した記者は無粋な質問はせず欠端を見ると顔を真っ赤にしていた。結婚もしていないので内助の功というのもおかしいが今季の欠端の活躍とその女性は無縁のものではないと直ぐに分かった。
今季はプロ入り最高の9勝をマークし、そのうち5勝を広島戦で稼いだカープキラー。恋とコイの両手に花の1年だった。「自分の投球をすれば打たれない、という事じゃないですかね。広島だからと意識はしてませんよ」と勝つたびに欠端は繰り返し言っていた。特に7月10日の試合は見事だった。この東北遠征シリーズではご当地の盛岡で故郷に錦を飾った。この前日の試合でエース・遠藤投手が延長10回を投げ抜いたが打撃陣の拙攻もあって1対1の引き分けに終わり、「今季で最も頭に血が昇った試合だった」と近藤監督が振り返る翌日の試合に欠端は登板して勝利した。「欠端のお蔭であの引き分けが無駄にならなくて済んだ。欠端サマ・サマだよ」と近藤監督は話す。
試合には欠端が生まれ育った岩手県福岡町からバス20台を連ねて大応援団が駆けつけた。人口2千人の町のほぼ半数近くが欠端を応援しにやって来たのである。一塁側スタンドからオラが町の英雄に大声援を送る風景は甲子園球場の高校野球のような大騒ぎだった。結果は完投勝ち。スタンド以上に欠端も興奮し、花束を格好よくスタンドへ投げ入れて渾身のガッツポーズを決めた姿は今季印象度ナンバーワンに相応しい。時は過ぎ、いま欠端は球団と来季の年俸を巡って熱き戦いの真っ最中だ。希望は倍増の一千四百万円。「球団には倍増は難しいと言われました。 " 難しい " けど可能性はゼロですか?と聞いたら、そういう言葉尻を取るのはヤメロと怒られました。でも諦めませんよ(欠端)」と今度は粘投宣言だ。
主砲・谷沢を慌てさせた実力者。今季大活躍した川又の背中には努力の文字がキラリと輝く
12月3日、川又選手の結婚披露宴の会場で挨拶に立った谷沢選手は「今シーズンの川又君の活躍は二度も怪我をして欠場した僕のお蔭です」と自嘲気味に笑った。同様の言葉は同じく怪我に悩まされた大島選手からも出た。鈴木球団代表は昨年の契約更改でチーム唯一の減俸となった川又を引き合いに出し「給料を下げられた川又君が意地と努力で今季の好成績を残した。感無量です」と思わず絶句した。開幕前は川又に注目する人は少なかった。一塁には谷沢がデンと鎮座し、西武へ移籍した田尾選手の後釜には藤王選手が事実上決まっていた。" 王二世 " と呼ばれていた川又だったが、多くの二世候補選手のように川又もいつの間にか騒がれなくなっていた。
そんな川又が一気にブレークした。確かに谷沢の故障欠場や藤王の伸び悩みなど外部の要因に助けられた印象もあるが、本人に活躍できる実力があったことは間違いない。6月頃から右翼の定位置を確保し7月に谷沢が倒れると一塁も兼任した。怪我で定位置を明け渡した谷沢は「一時の好調さでレギュラーが務まるほどこの世界は甘くない。必ず試合に出続ける苦しさを味わうことになる。まぁ俺が戻って来るまで頑張って欲しいね」と当初は余裕を見せていた。山内監督も「(川又の)課題は持続力」と3割2分を超す打率がいずれは落ちてくると考えていた。好調さは長くは持たないと思っていたのは現場首脳や同僚、更にはフロント陣にもあっただけに、披露宴で賞賛祝辞が続出したのだ。
周囲の懸念をよそに9月4日にはプロ入り初めて規定打席に到達し打率.314 で打撃10傑の7位にランクインした。遅れて来た " 王二世 " はその後も好調を維持しシーズン終盤まで打率3割台をキープしたが最終的に2割9分台に落としてしまいシーズン終了。最後の最後にプロの厳しさ、悔しさを痛感することになる。当初は余裕を見せていた谷沢だが「来年は川又を追い抜かなければレギュラーに戻れないと覚悟している。プロ野球とはそういう世界」と今では川又をライバルと認識している。昨年の契約更改で唯ひとり減俸となった川又は見事に蘇った。絵に描いたような復活劇の裏には、月並みだが川又自身の努力が存在していたのは間違いない。
男は黙って勝負した八っちゃん。ベストナインを手土産に故郷に錦を飾ります
プロ入り16年目にして金字塔を打ち建てた男がいる。プロ入り初の打率3割、ベストナインにも選ばれた八重樫幸雄・38歳。12月4日の契約更改で一千八百万円から二千九百五十万円にアップ。控え選手以外のレギュラークラスでは上昇率はトップだった。打率.302・13本塁打に相応しい金額だった。春先の4・5月は右肩痛に悩まされたが誰にも言わず身体にムチ打って出場し続けた。その甲斐あって2年連続で球宴出場も果たした。「古葉監督が推薦してくれて出場できた。やっと16年目にして僕の力が認められた気がする」と八重樫は訥々と振り返った。東北・宮城の出身で朴訥とした喋り方で派手な仕種もない。地味だが一歩一歩、牛歩の如く着実に力を付けてきた。
お馴染みのバッターボックスで体を思いっきり開く変則打法は近視性乱視という左右両眼のハンデを克服する為に自身で考えた末の苦肉の策だったが、今ではそのユーモラスな打撃フォーム姿を見に来る多くのファンを楽しませている。オープンスタンスで大きなお尻をブルンッと振って相手投手を威嚇する八重樫を土橋監督は「ハチは勝負強い。一発もあるし頼もしい」と絶賛する。広島遠征の時、連敗中とあって誰一人として夜の街に出かける選手はいなかった。そんな暗いムードを一掃するのはいつも八重樫だった。「さぁクヨクヨしたって仕方ない。パァ~と呑みに行こうぜ」と仲間を誘い、選手会長としてチームの気分転換に一役買った。
苦節16年。大矢明彦氏の陰に隠れてなかなか活躍できずにいたが一気に開花した。本人は「今がピークだと思うよ。でもね俺は40歳まで現役を続けるつもりだよ。若い連中には負けんよ」と分厚い胸板を叩く。正捕手の座を争う芦沢選手や秦選手は「八重樫さんは若い。気迫も凄くて…」とお手上げ状態。ヤクルト捕手陣で審判に注文をつけるのも八重樫が一番多い。大声で「おいっアンパイア、どこに目がついてるんだ!」「◆◆(相手打者)に気を使ってるのか!」など毒つく事もしばしば。気性も激しいが優しい家族思いな所も勿論ある。家に帰れば2人の娘の優しいパパだ。また今でも宮城の実家への仕送りも欠かさない心優しい八っちゃんである。
「巨人戦は僕の生き甲斐」派手な舞台で完全燃焼するタイガーマスク
木戸選手の活躍はバース選手や掛布選手ほどの派手さはなかったが、とにかくチームへの貢献度は大きかった。プロローグは4月10日の対巨人1回戦。4回裏に阪神は一挙7点を奪う猛攻をみせ巨人を粉砕した。この回の木戸の1号2ランが効いた。河埜選手が何でもないフライを落球し気落ちした加藤投手から一発。木戸は更に8回裏にも2ランと大暴れだった。ちなみに河埜はその後二軍落ちしてオフの契約更改では五百万円の減俸の憂き目に。「あの時、木戸に打たれなかったら俺も違ったシーズンだったかも…(河埜)」と更改後の会見で嘆いた。とにかく木戸は巨人戦になると打ちまくる。1・2号の後も5月19日(後楽園)に加藤投手から3号、6月4日(甲子園)に江川投手から4号、翌5日には西本投手から5号。何と6月5日時点で5本塁打全てを巨人戦で放っていた。
そのせいでこの頃の木戸は「巨人戦以外じゃサッパリなのに全国放送がある巨人戦だけ張り切りおって目立ちたがり屋が」と同僚の平田選手に盛んに冷やかされていた。それに対して木戸は「俺は働き所を心得ているんじゃ」と阪神の漫才コンビの掛け合いはチームのムードを盛り上げていた。打撃以外でも巨人戦でハッスルしていた。ある試合で頭部近辺にビーンボールまがいの投球をされると山倉捕手とあわや取っ組み合いの場面となり、両軍ベンチから選手が飛び出し乱闘寸前となった際も主役を演じた。首脳陣からの信頼も厚い。8月にファールチップを右手小指に当てて登録抹消になったが当時を振り返って吉田監督は「アイツが怪我をした時は拙いと思った」と。攻守ともに印象度はNo,1だ。
多忙のオフが今季の川端の活躍度を象徴している
選手がどれくらい活躍したか分かるのがシーズンオフ。色々な所からお声が掛かるのだ。その点で昨季の1勝から今季は11勝7敗7Sと活躍し、引っ張りダコなのが2年目の川端投手で暮れの12月末までスケジュールがビッシリ。昨年のオフはプロ野球選手の歌合戦に呼ばれたのが唯一の仕事。しかも本人によれば「お情け」の出演だったそうで、家にいてもやることがなく暇を持て余したので友人たちと長野県にスキーをしに行ったら貸しスキー店で「29cm」の靴は無いと言われ、仕方がないので子供用のソリで遊んでいたとか。ところが今年は一転してまるで別人のような忙しさで東奔西走の毎日を送っている。
「忙しいということは本当に素晴らしいことですねぇ(川端)」充実した1年だった。入団時は即戦力と言われて10勝は出来ると期待されたが僅か1勝に終わり、大学もプロ入りも同期で「負けたくない(川端)」とライバル視していた池田投手(阪神)に大きく水を開けられた。今季も必ずしも平坦な道のりではなかった。シーズン序盤は二軍落ちし、一軍昇格は5月になってからだった。二軍にいた間にカムストック投手(巨人)のスクリューボールを自分なりに研究して体得したり、同僚の小林投手のパームボールを軸にした投球を参考に " バタボール " を開発して5月6日の大洋戦でプロ初完投勝利に繋げた。以降はトントン拍子で11勝7Sの働きで古葉監督に「200%の働き」と評価された。
昨年、法大の後輩でもある小早川選手が新人王に選ばれた時は「彼には華があるけど僕にはない。新人王なんてとてもとても(川端)」と言っていたが見事に新人王を掌中にした。「今日(新人王発表日)はゴルフをしていましたけど正直、気になってプレーに集中できず散々なスコアでした」と発表当日のコメントは川端の一見穏やかそうな表情の裏にある秘めたる闘志を表していた。今季の広島の重大ニュースのトップが古葉監督の勇退ならば2位は川端の躍進だろう。12月27日に故郷の徳島にある新聞社が主催するパーティーが仕事納めとなる予定だったが急遽30日にも仕事が入るお忙氏ぶり。「年俸がグンとアップするんだから何か奢れって言ったら『OK任せとけ』だって」と川端と同期入団の伊藤選手は明かした。
来季へパワーアップ!吉村の成長こそがカド番王巨人のカギを握る
公約の130試合出場こそ逃したが初の規定打席に到達し打撃10傑入りの3位(3割2分8厘)、出塁率も最後の最後でバース選手(阪神)に抜かれたものの2位になるなど文句なしのシーズンだった吉村選手。来季の年俸も87%アップの二千八百五十万円で更改し、後楽園MVPに選ばれ百万円のボーナスをゲットするなどバラ色のオフを送っている。実績を残せば朗報も付いてくる。合宿所からの独立が球団史上最速で認められて世田谷区内にマンションを購入し、愛車もベンツに乗り換えた。更には来季から背番号が『7』になる。「来季こそ130試合出場を果たしたい。そして夢はでっかく首位打者です(吉村)」と早くも目標を掲げるあたりは自信の表れだろう。
その自信にはしっかりとした裏付けがある。今季の吉村は時間の許す限り後楽園球場で早出の特打ちをしてきた。勿論、合宿組の若手選手に課せられたノルマやよみうりランド室内練習場での打ち込みを終えてから更に自分に課した練習だ。また神宮や横浜などビジター試合の時は多摩川の室内練習場でチームメイトも呆れるほどの打ち込みをしてきた。それらが今日の吉村を支えている。「入団した頃は手のひらから血が噴き出して風呂に入れない時もあった(吉村)」そうで手のひらにテーピングをして入浴した逸話も残っている。高卒4年目にして巨人のレギュラーを確保した裏にはそれだけの努力があったのだ。
来季はPL学園の後輩の桑田投手も同じ巨人のユニフォームを着る。「彼は彼。僕は僕です」と一見突き放しているようだがそうではない。巨人のみならず球界の最高峰を目指す吉村にとってこれからが正念場であることを自覚しての言葉である。「課題だった左投手に対しても段々自信がついてきた。体が開かないように、ボールに向かっていけるようになってきた(吉村)」と頼もしい。原選手の伸び悩み、中畑選手の限界、そしてクロマティ選手も来季で契約が切れる。いよいよ吉村の時代がやって来る。「ホームランは最低20本は打ちたい」とパワーアップも自分自身への課題として挙げる吉村に欲は尽きない。吉村の成長こそがカド番・王巨人のカギを握る。
3年間の大赤字を一気に解消した " サンデー兆治 " 株は今や特定銘柄
奇跡の復活を果たした村田投手(ロッテ)にとって1985年のシーズンは生涯忘れられない年となったに違いない。「実はオールスターまでに1勝も出来なかったらユニフォームを脱ぐつもりだった。今ごろ職探しをしてたかもね(村田)」と今となってはジョーク交じりの笑い話に。村田投手から " 村田氏 " になっていたかもしれないピンチから脱したのは4月14日の対西武戦だった。今季初先発した村田は西武打線相手に155球を投げ抜き2失点ながら完投勝利で復活した。主治医のジョーブ博士から「君の右肘はまだベイビーだ。もしもあと1球でパーフェクトゲームを達成できる場面でも球数が100球を超えたらマウンドを降りなさい」と忠告を受けていた。それを無視しての復活勝利だった。
しかしその代償は直ぐに現れた。試合後から3日間は右肘の張りが取れず球を投げられなかった。幸いなことに大事には至らず、中6日の間隔があれば投げられる目途が立った。また復活勝利はこれまで頑固一徹だった村田の考え方も変えた。「以前なら点を取られると頭に血がカァッと昇ってムキになって墓穴を掘ることが多かったけど今は冷静に最少失点に抑えようと思うようになった。少しは大人になったのかな。気づくのが少々遅かった気もするけどね(笑)」と。この1勝で村田は速球派短気型から軟投派我慢型へ方向転換した。35歳という年齢から考えても力投一辺倒では通用しなくなりつつあり、今回の方向転換はまさに怪我の功名であった。
その後の村田は毎週日曜日にマウンドへ上がり7連勝をマークした。どんなに頑張っても中6日の間隔が必須で日曜日ごとに勝ち星を重ねる村田はいつからか " サンデー兆治 " と呼ばれるようになる。稲尾監督が命名したサンデー兆治を村田自身も「良い呼び名だよね、気に入ってるよ」と満足げ。ところがこの呼び名が定着し始めると村田は「いつまでも週1回の登板じゃ情けない。早く中4日くらいで投げられるようにならないと本当の完全復活にはならない」と複雑な表情も見せる。なにせチビっ子のファンからも「頑張れサンデー兆治」と応援コールが起きるなど、売れっ子芸能人並みのモテようだ。結局、6月12日(水)の南海戦からサンデー兆治とはサヨナラしたが連勝は自己最高の『11』まで伸ばした。
連勝は7月14日の西武戦で5回途中6失点で降板し途切れた。しかしその後もコンスタントに勝ち続けて今季は17勝5敗で見事にカムバック賞に輝いた。これで父親の威厳も回復した。昭和57年5月17日の近鉄戦で右肘痛を発症し、以降はマウンドから遠ざかり息子にとっては毎日家にいるパパはプロ野球のスター選手ではなかったが周りの声で自分の父親の凄さを改めて認識したようだ。ただ村田にとっての心残りは二度目のファン投票で選ばれたオールスター戦で思い描いていたような活躍を見せられなかった事。とはいえ今季の村田の収支決算はプラスばかり。「今年はプラスだらけだって?この3年間はマイナスばかりだったからトータルすればトントンじゃないの(村田)」と控え目。念願の200勝まであと27勝。村田の視線は既に来季に向けられている。
前半、酷使に耐えたのは何の為だったのか…公傷か否かで球団と対立
12月6日の契約更改の席を蹴って報道陣の前に姿を現した遠藤投手(大洋)は「僕の怪我は公傷とは明確に認められませんでした。必死にプレーした結果がこれですよ。これじゃあ野球選手は怪我を恐れるあまり思い切ったプレーでファンにアピールすることも出来なくなる」と主張した。このコメントには怪我をした経緯を説明する必要がある。8月11日の広島戦の7回裏、走者を一・二塁に置いて長嶋選手の打球は一・二塁間へ。一塁手の田代選手が飛び出して捕球しベースカバーに入った遠藤にトス。何の変哲もないプレーだったが一塁ベースカバーに入った遠藤が右足大腿屈筋挫傷で全治10日の怪我をしてしまった。
それでも遠藤は8月23日の中日戦に再度先発するが僅か10球を投げて同じ箇所を痛めて降板した。話は契約更改の日に戻る。「球団が公傷と認めない理由は怪我は僕の体調管理に問題があるからと言うんです。野球選手として当たり前のプレーをして怪我をするのは選手に問題があると」と遠藤は口を尖らせる。球団の提示額は現状維持。今季の遠藤は前半戦は7連勝や6試合連続完投などチームに貢献したが後半戦は怪我の影響もあって尻つぼみで1年をトータルすると現状維持が精一杯で年俸アップは厳しいと判断した。しかし遠藤は納得しない。遠藤の言い分は8月11日の怪我はその試合だけのプレーが原因ではなく、その試合までに蓄積された疲労が原因であると主張する。
7月9日の広島戦に遠藤は中3日で先発し延長10回・134球も投げたが味方の拙攻で惜しくもドロー。次の登板は中4日で中日戦(仙台)。真夏を思わせる東北遠征は炎天下のデーゲームだったが138球を投げて11勝目をあげた。「バテました・・疲れました(遠藤)」マウンドを降りた遠藤に勝者の面影は微塵も見られなかった。更に中3日で巨人戦に先発。遠征帰りでまだ疲労が残る身体にムチ打って投げたが5回・6失点で降板した。これで自身の連勝も「7」でストップしてしまった。オールスター戦を前にした前半戦の終盤に何故こんな登板過多とも思える酷使を強いられたのか?そこには近藤監督のオールスター戦までに借金をゼロにしておきたいという思惑があった。
投手陣に最大の弱点がある大洋にとって最後の切り札が遠藤。傍から見たら無謀としか思えないローテーションは結果を残したい新監督としての思惑と、遠藤自身の何としても史上初となる3年連続最多勝を獲りたいという思惑が合致した所産だ。その結果、大洋は28勝29敗5分けとほぼ勝率5割でペナントレースを折り返すことが出来た。しかしその代償は大きかった。8月11日の怪我にはこうした伏線があったのだ。10月14日のヤクルト戦で遠藤は14勝目をあげて小松投手(中日)と北別府投手(広島)と肩を並べハーラーダービーのトップに立った。しかしこのヤクルト戦の前も中3日で中日戦に先発して延長13回・今季最多の169球を投げており遠藤の右肘は限界を越えていた。
たて続けての中3日登板、8月11日の右足大腿屈筋挫傷の遠因とも言える7月9日の広島戦も中3日で延長戦ドロー。味方の援護もなく孤軍奮闘で投げ抜いた後の疲労感は心身ともに想像を絶するものだったに違いない。14勝目をあげた後も遠藤は「チャンスがあればこれからもドンドン投げる」と意欲を見せ、近藤監督も最多勝獲得へ協力を惜しまないと援護を表明したが、とうとう遠藤の右肘はパンクした。前半戦は新監督の星勘定。後半戦は遠藤自身の最多勝への執念が異常とも言える登板過多を生んだ。公傷の解釈を巡って遠藤と球団側の溝は大きく今年中の契約更改は難しく越年は必至である。両者の対立は収まりそうもないが、ただ一つ遠藤の奮闘がなかったら大洋の4位は有り得なかった事だけは確かである。
悪夢の8連敗が爽やか男を信念の男に変えた。収支は大黒字!
日ハム・高田新監督にとってこんなに長く辛い1年はなかったに違いない。前年最下位球団を引き受けたとはいえ、想像を超えた苦しみだったろう。開幕のロッテ戦こそ勝利したものの、2戦目からドン底の8連敗。現役時代から午後10時には寝てしまう男が深夜2時、3時まで寝つけなかった。この11日間が高田監督が抱く監督像なるものを決定づけたのではないだろうか。4月28日のロッテ戦では打撃不振の柏原選手を四番から外して一番に置いた。「気分転換もあるが一番の方が積極的になるだろう(高田)」と判断したからだ。しかしこの試合でも4打数無安打に終わったことで遂に翌29日から柏原をスタメンから外す決断を下した。
チームの主砲をベンチに下げるのは生易しいことではない。柏原の打撃不振は数年前からだが植村前監督も大沢元監督も決断できなかった。後に「高田監督は1年生ながら大したもんだ。今までの監督には出来なかった決断で勇気がいっただろう」と小島球団代表を唸らせたのがこの柏原の処遇だった。高田監督の厳しい決断には続きがある。スタメンこそ外れた柏原だったが途中出場して717試合連続出場の記録は続いたが遂に5月10日の西武戦で途切れた。足掛け7年かけて広島の衣笠選手に次ぐ現役選手最多記録だったが「1点差ゲームで使うチャンスが無かったから仕方ない(高田)」と個人記録よりチームの勝利を優先した。これを機に高田監督と柏原の亀裂は決定的となり「監督は何を考えているか分からない(柏原)」とトレード志願へと繋がっていく。
結局、柏原は阪神と金銭トレードが成立して移籍したが小島代表は「交換トレードは成立せず戦力ダウンにはなるが監督にはいい勉強となった筈」と高田監督を責めることはなかった。高田監督は今回の一連の動きについて「大前提として選手を好き嫌いで起用するわけない。監督も選手も誰だって試合に勝ちたい。勝つ為に力のある選手を使うのは当たり前。柏原も最初から外したわけではなく、起用し続けても結果を出せないから外しただけ(高田)」と信念で動いていた。良い例が古屋選手だ。古屋も足掛け6年で646試合連続出場を続けていたが8月14日の南海戦で右足かかとを痛め、以降の3試合はスタメンから外れて代打として途中出場していた。
そして8月18日の近鉄戦、3対4とリードされた9回裏一死の場面で柏原が四球で歩き打者は二村選手。もし柏原が倒れていたら古屋を代打に送る予定だった。二村が打席に入ると古屋がネクストバッターズサークルで素振りを繰り返していた。結果は二村がサヨナラ本塁打を放ちゲームセット。古屋の連続出場は途切れた。本塁打はともかくゲッツーを考えたら二村の場面で古屋を代打に出すべきだろうが高田監督はチームの勝利を優先した。監督として至極当然の采配だった。レギュラーを外された選手が反発するのは高田監督が人心掌握が出来ていないのでは、との声があるがそれは違う。無風状態だったレギュラー争いに選手が甘えていたに過ぎない。そこにメスを入れた高田監督はなかなかの人物だ。
'85年シーズン、順調に乗り切った人もあればまるで不本意な成績に終わった人もいる。それぞれの収支決算は直接的には来季の年俸となって現れるわけだが、ここに登場の5人はその決算が非常に難しい男たち。見方の違いによってプラスにもマイナスにもなる厄介な人々だ。ということは山あり谷ありのシーズンだったことを意味する。あなたはこの男たちの収支決算をどう見る?
野球以外の " ヘディング " で散々の1年。それでもファンは喜んだ
その昔、空白の1日という言葉があった。宇野選手(中日)は「空白の1年なんて言葉はありませんかね」と溜め息交じりに話す。今季、こと野球だけをを見れば41本塁打、フルイニング出場など充実した1年であり空白とするにはもったいないシーズンだった筈。しかし野球以外で世間を騒がしトータルすると本人としては「空白」にしたいようだ。野球以外・・今年は女性とお金にまつわる話が多かった。開幕前の4月に3年間連れ添った栄子夫人と協議離婚。「離婚すれば普通なら問題解決ですよね。ところが宇野の場合はここから問題を背負うことになったから気の毒だったよね」と事情を知る大越球団総務は当時を振り返る。
離婚した宇野の元には前夫人が残した三千万円もの借金が残った。仲人を務め離婚の調停にも一役かった大越総務は残務整理も手伝い最後は呆れた。「だってそうでしょう、宇野といえば曲がりなりにも年俸三千九百万円のプロ野球選手。それが奥さんの借金を肩代わりして今年は月二十万円で生活してきたわけだから」と。少しでも足しになればと11月には『ヘディング男のハチャメチャ人生』という告白本まで出した。「今シーズン41本塁打できたのは打つと貰える賞金があったから」と宇野は著書の中でも書いているくらい懐具合は寂しかった。これで一件落着しないのがウ~やんらしい。これも本に書かれているが「離婚してからはモテモテだった(宇野)」だそうで身軽で自由な独身になると、ついつい脇も甘くなる。
9月中旬、後楽園球場での巨人戦を終えると知り合いの女性が待つマンションへ足を運んだ。部屋でくつろいでいると突然ドカドカと恐ろしげな数人が乱入してきた。彼らは部屋に入ると「そのまま動かない!」と一喝。なんと麻薬捜査官だった。知り合いの女性は覚醒剤常習者だったのだ。状況を把握できず茫然とする宇野は身元確認を終えると解放された。宿舎に戻るとようやく事の重大さに気がついた。後の捜査で身の潔白は証明されたが、一つ間違えれば野球生命どころか日常生活をも断たれかねない重大事件で「もう女性はこりごり」と著書で告白している。「なんかね野球をしたのは30試合くらいで100試合は女性とお金と戦った1年だったような気がする」と宇野は今季を振り返った。
その野球でもやっぱりウ~やんはやってくれた。9月下旬の甲子園球場での阪神戦、「あんなジャッジが許せるか!」と審判の判定に激怒した山内監督が「おい、選手はベンチから出るな」と言って抗議に向かい放棄試合も辞さない構えだ。ところが監督が抗議の真っ最中にもかかわらず三塁側ベンチから一人の選手が自分のポジションに向かって俯きながら小走りしている。宇野である。遊撃付近の土を足で均し、ようやく顔を上げて周りをキョロキョロ。そして状況を察したのか顔を真っ赤にしてベンチに戻って来た。「監督が抗議してるなんて全然気がつかなかったよ。誰も注意してくれないし、ベンチの皆は大笑いしてるし参ったよ」と頭をポリポリ。
10月の大洋戦ではアウトカウントを間違えるチョンボも。一死一・三塁の場面で中尾選手は三振。その間に一塁走者の川又選手が一・二塁間に飛び出して挟まれた。それを見た宇野は何故か離塁して今度は宇野が挟まれた。その間、宇野は一塁走者の川又に向かって二塁へ行けと合図を送る。タッチアウトとなった宇野は井出三塁コーチに「井出さん川又を叱ってよ。せっかく俺が挟まれているのに奴はボーと見てるだけだった」と不満を漏らした。井出コーチは呆れて「中尾の三振でツーアウトだぞ。ウ~やんがアウトになったらチェンジだよ。そもそも二塁走者が残っても三塁走者が挟殺されたら意味ないだろ」と。宇野勝27歳。確かに今季を「空白の1年」にしたい気持ちは理解できる。
「オレ、今年1年すごい人生送っちゃったもんな」この人の場合決算不能です
ちゃんと分かっている。「オレ自身も今季の成績は内容が薄いなぁと自分でも知ってるよ。けどオレなりに精一杯やったつもりだけどね。まぁ来年やり返すよ」と中畑選手(巨人)は今季を振り返る。490打数144安打・打率.294・18本塁打。可もなく不可もなく、そんな数字だ。中畑は常日頃から " 三・三 が 九 " が目標だと公言している。つまり3割・30本・90打点を最低ノルマとし、特に打撃三部門うち打点を最も重視している。「打点は確実にチームにプラスになる。だから打点王が俺の目標(中畑)」と話す。その打点が今季は62打点に終わりクロマティ選手の112打点はもとより、チャンスに弱いと酷評された原選手の92打点にも遠く及ばない。
野球評論家の野村克也氏が中畑に関してあるデータを示した。今季セ・リーグで5勝以上あげた投手に対して中畑は打率2割そこそこしか打ててない。他方でいわゆる " 二線級 " 相手だと3割5分以上。「う~ん、いい投手を打ててない・・また一つ克服すべき来年の課題が増えたね(中畑)」と渋い顔。そう、中畑は自身のウイークポイントを素直に認める前向きな性格なのだ。その性格は多くのファンに支持されている。後楽園球場のライトスタンドでは歌番組のスクールメイツみたい、と言われるくらい歓喜・狂喜の大騒ぎなのだが、最高潮に達するのは中畑の打席の時。「あの応援は震えるほど嬉しい。でも今季は空回りしちゃったみたい(中畑)」と。
そして来年を見据える。「チャンスに弱い。データに表れている。俺なりに考えるとその瞬間にカァーと熱くなって力んじゃう癖が抜けない。熱くなるのは俺の長所でもあり短所でもある。良い投手に対してもそうで負けてたまるか、と力が入っちゃう。来年は意識的に力を抜くことが課題だな」と語った。今季は125試合に出場した。欠場した5試合は怪我が原因。7月16日の大洋戦で本塁突入した際に右足股関節を痛めた。「今年こそフル出場を狙っていたけどダメだった。これも来年の目標だね(中畑)」。ただし来季は自身の体調だけでなく若手の台頭というハードルも。駒田選手の成長が著しく、中畑が欠場していた間は一塁手として無難に代役を果たした。
中畑にはもう一つ別の顔がある。野球機構側が最も恐れていた選手会の労働組合結成に関して中心人物としての顔だ。単なる親睦団体だった選手会をストライキも辞さない強力な組織に変えた。数年来に渡り東京地方労働委員会に申請したが遂に労働組合として認定された。中畑はその初代委員長に就任した。「本音を言えば労働組合の委員長として目立つのは嫌。俺はグラウンドで " 中畑選手 " として目立っていたい。それにしても今年1年は個人的にもすごい人生だった。阪神の優勝を見て来年はジャイアンツの一員として心から優勝したいと思った。是非とも王監督を胴上げしたいね」と。駒田の成長で一時はトレード候補に挙げられ今オフは騒がしかったがそれも一段落。来季の捲土重来を誓う中畑だった。
熱しやすく冷めやすきはトラフィーバー
「お祭りは来年4月までお休み」というこの割り切りが大阪流
ザッと見積もっても250億円。何の数字かと言えば阪神が日本一になったお蔭で阪神グループが手にした額である。リーグ優勝と日本シリーズ勝利の二度に渡るバーゲンで阪神百貨店は約50万人を集客し104億円を売り上げた。これが阪神フィーバーの最高潮だったといえる。かつて「もしも阪神が優勝したら大阪の街は大変なことになるで」と冗談半分に囁かれていたが現実となった。ただ幸いだったのがペナントレースも日本シリーズも優勝を決定したのがいずれも甲子園ではなく敵地だったので、狂喜したファンが道頓堀川にダイビングする程度で済み当初予想された程の大混乱には至らなかった。
さて、フィーバーとは熱を意味するからいつかは自然と冷める。日本一の瞬間がフィーバーの絶頂で、それを境に予想外に早く大阪の街は普段の顔に戻った。「今年の阪神はお祭りやった。来年の開幕まで祭はお休みや」と熱心なトラキチはこう表現した。21年ぶりの優勝、しかもその勝ち方が型破りとあって未曾有の大フィーバーとなった。阪神球団の念願だった観客動員数200万人を優に超える260万人を記録し、巨人に追いつき追い越す勢いを見せた。しかし中村球団管理部課長は「来年は厳しいちゃいますか」と苦笑した。ホクホク顔の球団が何故そんな心配を?「今年は何もかも特別なんです。地に足が着いた人気ではない。今年のような首位争いを4~5年続けられれば本物の人気球団になれる(中村)」と。
森新監督を選んだ西武の㊙事情
堤オーナーのサゼスションと戸田社長の決断が全てだった
西武球団の三代目監督に森昌彦氏(48)の就任が決まり、12月5日に正式発表された。広岡前監督の突然の退団から約1ヶ月で下馬評では高くなかった森氏になぜ白羽の矢が立ったのであろうか?この間、様々な人物の名前が浮かび消えていった。広島の監督を辞した古葉竹識氏。元巨人軍監督で常に去就が注目されている長嶋茂雄氏。昨季で現役を引退した際には堤オーナーから「いずれ西武の監督に」との約束手形を得た田淵幸一氏。はては大リーグの名物監督でニューヨーク・ヤンキースの前監督のビリー・マーチン氏の名前などが並んだ。こうした大物の名前が列挙された背景には広岡氏という名将の後釜に相応しい人物をという思いがあった。
4年間で三度のリーグ優勝、二度の日本一という実績を残しながら人気という点で球団として広岡監督では満足できなかった。なので次期監督には人気のある人を求めた。前述の候補者の中でビリー・マーチンは噴飯ものだが他の3人の可能性は無くはなかった。古葉氏には昨年来、幾度も接触した形跡がある。東京進出を狙う古葉氏にとって願ってもない話だったが、広島の監督を辞した直後でもあり道義的にも受けられる話ではなかった。田淵氏にも確かに交渉している。しかし返事は「ノー」だった。ネット裏での勉強も1年では不足であり、自宅を埼玉・小手指から東京・杉並に移したばかりで経済的にも副業を自由に出来る評論家生活の続行を希望。長嶋氏には接触した形跡はなくマスコミの希望的観測だった。
マスコミ報道が過熱し始めると「人気云々はマスコミさんが騒いでいるだけ。我々は勝てる人を望んでいる」と戸田球団社長が発言し彼らの名前は消えた。和田博美・土井正博両コーチの内部昇格説が台頭してくる中、西武球団内では森氏に一本化しつつあった。森氏に絞る決め手となったのは退団が決まった広岡前監督と堤オーナーが会談した11月13日に堤オーナーが発した「次の監督は広岡野球を継承できる人」という発言。戸田社長・坂井球団代表・根本管理部長が連日協議を重ね「広岡野球を継承・若手育成」の観点から、日頃から森氏の頭脳を活かせないかと考えていた戸田社長のイニシアチブのもと、広岡野球の事実上の推進役だった森氏に決定したのである。
草魂から魂が抜ける時・・・
それにしてもこんなにアッケラカンとした引退でいいのかな、鈴木さん
「ワシに記念のボールがいるとしたら、それは最後の登板の時のボールだけでええ」と常々口にしていた鈴木啓志氏。通算300勝の記念ボールもあっさりとスタンドへ投げ込んでいた鈴木氏。その " 鈴木投手 " が7月3日のボールは誰にも気づかれないようにグローブに隠してロッカールームへと持ち帰った。つまりそれは引退を決意した事を意味していた。後楽園球場での対日ハム11回戦は実に3週間ぶりの登板だった。万全の調整をして云わば満を持して、いや背水の陣での登板だったが結果は惨めなKOだった。実際はその3週間前に既に気持ちは切れていたのを本人も感じていたが、なんとか修復しようと努力したが無駄だった。
その一週間後、大阪・上本町の近鉄本社で佐伯オーナーに引退の決意を報告、そのまま記者会見に臨んだ。投げたらアカンって言うてたのは誰や!もっと投げて欲しい・・全国からファンの声が殺到した。また目前に迫ったオールスター戦には全パ・上田監督の粋な計らいで監督推薦で出場が決まっていて、多くのファンが球宴での登板を花道に、と願ったが本人は「草魂から魂が抜けたらただの草。戦いの場に魂の抜けた人間は相応しくない」と球宴出場を辞退した。ストイックなまでの厳しさ、己に対する厳しさがあっての現役20年、通算317勝だったのかもしれない。結局、近鉄球団初の引退試合までも断り、自分の美学を最後まで貫き通した。
あれから5ヶ月余り、鈴木氏は講演・評論活動に全国を飛び回り目が回るような忙しい毎日を送っている。「引退して体を動かさなくなったら食欲が落ちて体重が減ってしまった。お腹まわりも引っ込んでズボンが緩くなってしまったよ」という笑顔にも屈託がない。「未練?全くないよ。やり残した事はないと思ったから引退したんや。現役の選手を見る度にようあんな怖いことをしとったな、と体が震えるくらいや(笑)」と。未練があるのはむしろ鈴木氏の周囲を取り巻く人たちの方かもしれない。看板選手を失って観客動員がガタ減りの近鉄であり、記事になるスターの穴を埋めるべく四苦八苦するマスコミであり・・・。しかし近い将来、鈴木氏の近鉄監督就任のニュースが世の中を駆け巡るのも間違いはなさそうでる。
あぁ、コミッショナー不在・・・
野球協約も知らない一部オーナーの専横がプロ野球をダメにする
下田武三前コミッショナーは職を辞す意向を明らかにしてもなお精力的に仕事を続けた。非公式に来日した大リーグの新コミッショナーのピーター・ユべロス氏とも会談し、今後も日米野球界は強力な連携を取ることを確認し合った。その会談の中で下田氏はメジャーリーグ選手組合の幹部とユべロス氏が食事を共にしていることを知り驚いた。「かつてのようなお互いを敵視することなく話し合いの場を設けているユべロス氏はさすがだ。考え方が若い(下田)」と感心した。それを聞いたユべロス氏は「日本の野球は正直言ってまだメジャーリーグに追いついてはいない。しかしアメリカが日本に学ばなければならないこともある。それはチームに対する忠誠心だ。自分が所属するチームへの熱い思いこそ日本球界の財産だ」と。
日米間の緊密な関係維持の約束を取りつけて下田氏はコミッショナー職を辞した。「プロ野球界は独特な縦割り社会。もっと横の連絡を密にして視野を世界に向けなくてはならない。第三者の意見を聞く耳を持って欲しい」この発言はプロ野球創立50周年記念式典で、今日の繁栄を築いた先人の苦労を称えた後に呈した苦言である。プロ野球界の閉鎖性を危惧して任期満了で下田氏が辞してから1年、プロ野球界は未だに新たなコミッショナーを選定していない。この間、「コミッショナーなんて必要ない。いなくたって日本のプロ野球機構は問題なく機能してるじゃないか」という何とも無責任な発言をする " 妖怪たち " の声がプロ野球界を支配してきた。
そんな妖怪について某球団代表が「コミッショナーの座を空白にしておくのはおかしい、との意見は正論ですよ。でも現実問題として『俺たちに意見するようなコミッショナーなんて必要ない』と発言するオーナーが1人や2人じゃないんですよ」とこっそり教えてくれた。お金は我々が出している。何をやるにも自分たちが出した資金がなければ動けない。なのに我々の言動を縛るとは何事だ。コミッショナーは事務的な処理をする番頭役でいいんだ、これが一部オーナーの言い分だ。しかし時代は動いている。オーナーたちには寝耳の水の選手会による労働組合への動きに対応できず、代わりに川島・福島両セ・パ会長が仕切る。それを良い事に一部オーナーは「コミッショナー不在でも問題ない」とうそぶく。もはや末期状態だ。
落合二度目の三冠王の本当の価値
誰も言わないけれどこの人はON、そして張本よりエライのだ
今シーズン開幕前に「今年は三冠王になってカミさんの御披露目をやろうと思っているんだ」とブチ上げていた落合選手。終わってみればその言葉通り三冠王に輝いた。打率.367 は広瀬叔功(南海)の打率を1厘上回る右打者として最高打率。また52本塁打は野村克也(南海)と並ぶタイ記録。更に146打点はパ・リーグ新記録で王選手と並ぶ二度目の三冠王に花を添えた。ちなみに昭和48年に王が達成した三冠(打率.355・51本塁打・114打点)の数字ををいずれも上回った。そして去る12月12日に東京・港区白金台の八芳園で三冠王を祝う会が催され予告通りに信子夫人を御披露目し「来年は三度目の三冠王を獲らせてもらいます」と高らかに宣言した。
ひょっとしたら打つことにかけては、あのONや張本を凌ぐ打者かもしれない。いいやONと張本の良い所を足して「3」で割ったのが落合なのかも。そう思わせるほどの怪物なのだ。落合の怪物たる所以は右打者という " ハンデ " を乗り越え四度も首位打者に輝き二度も三冠王を獲ってしまったこと。日本最高打率は張本が昭和43年にマークした3割8分3厘だが、落合に言わせれば右打者は左打者に比べると一塁までの距離が遠く損をしていると。また単に距離だけではなく左打者はスイングの一連の流れで一塁まで走れるが右打者はスイングした後に改めて一塁方向に走らなければならず時間のロスも大きい。よって内野安打を稼ぐには明らかに左打者の方が有利だという。
「左打者は一塁方向へ走りながら打てるからね。右打者は打った瞬間に三塁方向へ身体のベクトルが向く。そこから体勢を立て直して一塁方向へ走るんだから左打者との差は1歩や2歩じゃ済まない。打率にしたら左打者のほうが2~3分は得なんじゃないかな。本塁打数は減らないけど打率はアッという間に落ちるからね(落合)」と。これは至極もっともな意見で、プロ野球がセ・パ2リーグ分裂後の首位打者を見れば一目瞭然。首位打者のタイトルを二度以上獲得したのは川上・王・張本・谷沢ら左打者が8人なのに対し右打者は長嶋・中西・落合の3人だけ。つまり落合は右打者としては文句なくナンバーワンなのだ。打率に関してはあのミスターも及ばない選手なのである。
大阪で嫌われた !? バース
ナニワっ子は岡田びいき。外人はしょせん外人だった
バース選手がプロスポーツ大賞に選ばれた。シーズンと日本シリーズのMVPなど一人で賞を独占した格好になったバースだが、その極めつきがこのプロスポーツ大賞だ。野球に限らず全てのスポーツ選手の中からナンバーワン選手のお墨付きを得た。ちなみに次点は阪神・吉田監督だった。バースの活躍はこの受賞で全て言い尽くされたといって良いだろう。バースがいなければ日本中を沸かせた阪神フィーバーは生まれなかった。巨人と並ぶ人気球団を初の日本一に導いた男は球界の発展に寄与した貢献者と言っても過言ではない。猛虎ファンが「神様・仏様・バース様」と仰いだ優勝の立役者。その人気はシーズンオフになっても衰えるどころか増すばかりだ。
「これでようやく静かに暮らせるよ」とMVPの連盟表彰式を終えたバースは帰国する際に本音を漏らした。行く先々で神様のサインを貰おうとファンが群がり大騒ぎとなる。また滞在先を写真週刊誌にマークされるなど過剰気味な人気に少々ナーバスになっていただけに、やっと日本を離れられるとホッとしたようだ。そのバースが最近「来年は阪神でプレーするけどその先はアメリカでプレーしたい」と話したと伝えられた。足と守りに不安はあるものの今季の活躍が複数の大リーグ球団の目に留まり、代理人を通して接触があったようでバース本人もその気になって、大リーグ復帰を本気で考えているようだ。
神様・仏様・バース様と拝まれたところで所詮は出稼ぎ外人。特にオクラホマでそれほど裕福な少年時代を過ごした訳ではないバースはハングリー精神が旺盛。医者一家で恵まれた環境で育ったゲイル投手は常に朗らかでナインから親しまれているのに対し、バースは野球をビジネスと割り切り、同僚とも距離を置いていて対照的だ。大阪は排他的な一面がある土地柄。実績では劣る岡田選手が掛布選手と同列に扱われるのも岡田が大阪の下町育ちだから。千葉出身の掛布も一時はそんな大阪気質に悩んだほどだ。「外人のお蔭で阪神はやっとこさ優勝できた、と言われるのが悔しい。来年は岡田がMVPを獲って連覇して欲しい」が浪花のトラキチの代表的な声である。
広岡サンと根本サンの大喧嘩の " 真実 "
「あんた頭おかしいんやないか」 vs 「それは退団の捨てセリフだな」
11月6日の昼下がり、療養先の長野県諏訪市にある諏訪長生館を発った広岡氏は愛車のBMWを中央高速へと走らせた。9日に予定されていたスタッフミーティングまで戻らないつもりだったが、急遽東京に戻る事となった。理由はかねてから球団に求めていた戸田博之球団社長との会談が組まれた為であった。来季以降のチーム作りに対する自分の考えを堤オーナーまたは戸田社長に訴えたい機会を求めていた広岡氏の願いをやっと球団側が了承したのである。会談の場は港区の新高輪ホテル。広岡氏は自宅へも寄らずホテルに勇んで直行したが戸田社長の反応は冷ややかだった。「球団の事は全て(管理部長の)根本に任せてある。話は根本にしてくれ」とにべもなくあしらわれた。
西武球団には " 堤 - 戸田 - 根本 " の厳然たるヒエラルキーが確立されている。堤オーナーの全権を受けて根本管理部長が球団編成にあたっている。何びとたりともこの指揮命令系統を侵す事は許されず、それを無視しようとした広岡氏に戸田社長が企業論理のイロハを説いたのは至極当然の事であった。広岡氏は翌7日に池袋のサンシャインビル54階の球団事務所に場所を改めて根本部長との会談に臨んだ。午前10時から始まった会談は1時間で終了し「来季に向けて前向きな話し合いをした(根本)」、「忌憚なく話し合った。有意義な会談だった(広岡)」と二人は口を揃えて円満な会談だった事を強調した。成り行きを注目していた報道陣は肩透かしを喰らい、一斉に『広岡監督続投』のニュースが流れた。
ところが実際は全く逆だった。両者は会談の冒頭から対立し、時には激高し怒鳴りあう場面もあった。チーム編成権における監督権限の拡大を要求する広岡氏に対し根本部長は全面的に拒否。加えて広岡氏が夕刊紙の記者を使ってフロント批判を繰り広げた真意を問い質すなどして対立は決定的となり話し合いは決裂した。遂に広岡氏は根本部長に向かって「あんた頭がおかしいんやないか」と毒つき、対する根本部長も「そこまで言うのは退団するという事だな」と返した。明けて8日、広岡氏は辞表を提出し球団は受理した。表向きの理由は体調不良だが実際は企業論理を逸脱した事への懲罰的解任だった。西武球団は広岡氏へ功労金五千万円を贈ったが来季は他球団のユニフォームは着ない、特定球団と関わりを持たないとの一筆を入れさせた。
定岡クンに舐められ切った?球界
本人も予想しなかった退団後のモテぶりにポスト江本を狙うんだってサ
巨人のユニフォームを脱いだらただの人。退団が決まった当時は定岡氏は球界内外からそう評されていた。だが意外や意外、モデルやタレントとしての勧誘・照会が後を断たない状態が現在も続いている。「現役の時より毎日が忙しい。色々な分野の人から引き合いがあって話を聞くだけで1日が過ぎてしまう」と定岡氏本人も驚いている。トレードを拒否しての引退は単なる我が儘で球界内部には巨人はもとより相手球団にも迷惑をかけた、との批判は多い。当初は定岡氏もそんな視線を意識して「もう球界と関わる仕事はしません」と宣言していたが、12月に入りハワイでの休暇を終えた後には「野球と関係のある仕事を主にしていきたい。解説者の話も来ています」と前言を翻した。
予想外のモテモテぶりに定岡氏は意を強くして「別に僕が後ろめたい思いをする必要はない」と開き直った感じである。「サダはお金についてもホントにしっかりしているよ。着るモノも安い服を着こなしで高級そうに見せるのも上手いし、ホテルとかレストランも一流どころは利用しないし無駄遣いはしないね」というのが巨人ナインの定評だ。したがって「方々の貯金を集めたら結構な額になった(定岡)」そうで、1億円くらい?の問いかけには笑顔で否定しなかった。また一時は売りに出すと言われていた東京・瀬田の1億円豪邸も「今月中に引っ越して来年からは『定岡企画』の事務所を兼ねる事になります」と経済的にも全く心配する必要はないようだ。
テレビのクイズ番組の出演やインタビュアーの依頼が次々と来る。最終的には江本孟紀氏のようなマルチタレントの座を視野に入れているようだ。恥をかかされた形となった巨人軍の某フロントは当初は「定岡のキャリアでは解説の仕事は無理。話術が必要なインタビュアーも難しいでしょう」と言い放っていたが実際は違う様相を呈している。「今は時代が変わってきた」と話すのは2年前に巨人を退団した中井康之氏だ。「僕クラスでも野球教室やインタビュアーの仕事の依頼がある。その道を究めた大物より気軽に使えて素人の発想に近い人間の方が視聴者受けが良いと局側も考えていると思う(中井)」と。定岡氏も江本氏や板東英二氏に次いでテレビや雑誌に登場する機会が増えそうだ。
'85年のプロ野球、全く色々なことがありました。トラが21年ぶりに優勝したと思ったら巨人が " 桑田ジャック " 。三冠王が同時に誕生したのもビックリだった。古葉ちゃんがシーズン中に引退表明したら広岡サンもシーズン後にケンカ別れで続いた。全くもってドラマティックな1年だった。そんな '85年をちょっぴり意地悪な目で振り返ってみると・・・
桑田・清原が最大話題という球界の貧困
巨人がしっかりしないから高校生たちが主役になってしまうのだ
ぶっちゃけた話をすれば週刊ベースボール編集部は巨人が桑田を指名してくれて「シメタ!」と小躍りした。「事件だ!これで賑やかになる」が本音だった。ついでと言ってはなんだが清原を指名したのが西武だったのも良かった。失礼ながらこれがロッテや南海だとちっとも面白くない。球界の盟主の座を争う両球団だからこそ話題に事欠かない。その期待通り今オフはKKコンビの話が本誌のみならず各スポーツ紙やテレビを賑わせた。なんでこんな事になったのか?そう、全ては巨人のせいなのだ。球界最大の主役であり同時に最大の仇役が勝てない、選手にやる気がないでは応援する方もアンチも面白くない。せっかくライバル・阪神が優勝したのに巨人があの体たらくでは片手落ちなのだ。
しかしまぁ、阪神以外に目立った話題がなかった今年の球界を賑やかにしてくれたKKコンビには編集部としては感謝しないと。桑田は12月3日に契約金六千五百万円・年俸四百八十万円(金額は推定)で巨人入りが内定した。巨人の高卒新人としては球団史上最高額の条件だった。加えて堀内前コーチの背番号『18』が用意されているという厚遇ぶり。球団としてはドラフトで強行指名し、その後の騒動で迷惑をかけた罪滅ぼしといったところだろうか。ただし、これだけの厚遇にも桑田はあくまでもクール。どんな選手が目標か、と問われると「西武の東尾投手です」と答え、あえて江川や西本の名前を挙げないところが桑田らしい。
一方の清原は12月12日に西武入団発表。こちらは桑田を上回る契約金八千万円・年俸四百八十万円で契約。契約金八千万円は昭和56年の原と並んで球界最高額である。背番号は憧れのミスターと同じ『3』に決まった。「ポジションはどこでもいい。与えられた場所でベストを尽くします。とにかく怪我をしないよう気をつけて開幕一軍は勿論、レギュラーを目指します(清原)」と意欲充分。シーズン中は宿敵・阪神の後塵を拝し、Aクラスぎりぎりの3位に終わり、シーズンオフも定岡投手のトレードを巡って不手際を露呈し球界内外から苦言を呈され続けた今シーズンの巨人。良くも悪くも巨人が目立たないとプロ野球は面白くない。
吉田監督の " 成功 " と王監督の " 失敗 "
阪神も巨人も選手の体質は中小企業。吉田はそれを知り、王は知らなかった
「我々はチャレンジャー。全員一丸となって・・・」これは吉田監督がよく口にする台詞だが、そのまま中小企業の社長の台詞にも当てはまる凡庸なものだが日本一の監督が口にすると一気に深遠かつ高級な台詞に生まれ変わった。こういう一種の芸当が出来るところが吉田監督の秀でたところだ。阪神の主力選手がシーズン中に「毎日毎日、チャレンジャーだ全員一丸だと聞かされ続けるとそんな気がするようになる。ヨッシャやってやろうという気になるから不思議」とよく話していた。阪神にはこれまで幾多の監督が就任したが、本当の意味での管理能力を備えた監督は藤本定義氏以降はいないに等しかった。
吉田監督が " 成功 " を重ねれば重ねるほど対照的な話題として引っ張り出されたのが " 失敗 " した巨人・王監督。巨人の選手も阪神の選手同様に体質はトップダウン命令式の中小企業体質なのだが、王監督は選手を大人として扱い細かな事まで管理しなかった。王監督は本誌12月2日号の中で「吉田監督もここまでの好結果が出るとは驚いているのでは?」と冗談めかしていたが、本心は「ひょっとしたら吉田監督のやり方が正しいのかも」と思っているのではないか。来季の王監督の変貌にも期待したい。それにしても本来なら選手が主役であり、裏方であるはずの監督が目立つようではプロ野球界の正しい姿であるとは言えない。
1985年の甲子園は春・夏ともに主役はPL学園だった。今春のセンバツ大会のクライマックスは準決勝のPL学園と伊野商(高知)戦。渡辺智男投手と清原和博選手の対決は見応えがあった。最初の対決は2回裏、フルカウント2-3から外角速球で空振り三振。スピードガンの数字は136km とそう速くはないが外角いっぱいの制球が素晴らしかった。2打席目は4回裏、一塁に走者がいて渡辺投手は慎重になりボールカウントは0-3。が、ここからが凄かった。インロー、アウトロー、最後はド真ん中に3球全て直球を投げ込み空振り三振に仕留めた。6回裏の3打席目は「気負い過ぎちゃって(渡辺)」と四球。そして迎えた8回裏の4打席目で清原選手は2打席目以上のショックと屈辱を味わうことになる。
渡辺投手は初球のカーブで空振り、2球目の外角速球で空振り、そして3球勝負で遊ばず外角低めに速球をズドン。茫然と見送った清原は三振に倒れ、続く9回裏も抑えられたPL学園は伊野商の軍門に下った。PL学園はセンバツ大会でも優勝候補の筆頭に挙げられていた。桑田・清原を擁し優勝しないとおかしいと思われていたくらいチーム力は充実していた。事実、1回戦の浜松商(静岡)を11対1の大差で下し、2回戦も注目左腕・田上投手率いる宇部商(山口)も6対2で下し順調に勝ち進んだ。この試合で桑田投手は春夏通算14勝を記録し石井投手(箕島高)と並んだ。準々決勝の天理(奈良)も7対0で粉砕し桑田投手は甲子園最多勝利投手となった。
そして準決勝戦で前述の伊野商と対戦する。戦前の予想では投打ともに盤石のPL学園に対し初陣の伊野商相手ではPL学園に分があると見られていた。準々決勝まで力投してきた渡辺投手だが強打を誇るPL打線を抑えるのは難しいと考えられていた。しかし渡辺投手は自信があったそうだ。それも打線の中心である清原選手を無安打どころか全打席三振を奪うことを考え徹底的に研究し試合に臨んだ。どのような攻略法だったかは夏の大会が残っていたので明らかにはされなかったが結果的にほぼ渡辺投手の思惑通りになった。清原選手が抑えられて分断してしまったPL打線は沈黙し敗れた。渡辺投手の快投でPL学園時代の終焉を迎えるかもしれないと感じたセンバツ大会であった。
池田高(徳島)の躍進など四国黄金時代に終止符を打ったのが報徳学園やPL学園の近畿勢。そして伊野商によって再び四国勢の復活か、と注目が集まった高知県と大阪府の夏の予選。参加校が25校の高知県に対し大阪府は167校。7月中旬から始まった地区予選で伊野商は順調に勝ち進み高知商との決勝戦に臨んだ。伊野商は初回に1点を先制したが渡辺投手が8回に逆転され、1対5で敗れ甲子園出場の夢は断たれた。伊野商に勝った高知商のエース・中山投手は渡辺投手に負けず劣らずの好投手で、打倒PL学園の一番手になる逸材だとの期待が大きかった。一方のPL学園は決勝戦で東海大仰星を17対0と撃破し予選を突破、KKコンビにとって最後の甲子園出場を決めた。
波乱も予想された夏の大会だったが終わってみればPL学園の強さを再認識させられた大会だった。伊野商を倒して甲子園にやって来た高知商は準々決勝でPL学園と対戦した。渡辺投手以上と評価された中山投手だったが、桑田&清原にアベックアーチを打たれて粉砕された。決勝戦はPL学園と宇部商(山口)。宇部商のエース・田上投手が不調に陥り代わりに古谷投手がPL学園戦に先発した。試合は宇部商の四番・藤井選手の猛打で一度はリードしたがPL学園がサヨナラ勝ちで優勝した。今大会で桑田投手は春夏甲子園通算20勝、清原選手は3本塁打、通算では13本塁打を記録。このKKコンビの記録を今後破る選手の出現は恐らく不可能と思われる。
ウチの監督、なんぼでもおもろいとこあるで
聞き手…それは日本シリーズでも変わらず?
川 藤…西武には余計に負けたくなかった。なにが管理野球や!ベンチが選手を " 管理 " なんてクソ喰らえじゃ。
ズボラでええんじゃ、ズボラで。シリーズ中もベンチから皆で「玄米は美味しいのう」と野次とったわ
聞き手…西武ベンチの反応は?
川 藤…シラ~としてたわ(笑)
聞き手…今年の阪神は管理とは程遠くノビノビと大らかだったね
川 藤…みんな大人だしな。最近は西武が勝っているから管理野球がモテはやされているけど、このままじゃ野球がつまらなくなる。
真面目にやったって面白くもなんともない。高校野球じゃないんだから。ワシらプロは野球の面白さを伝えるのが役目だと
思うとる。玄米を食えとか、酒はやめろとか、門限を守れとか大きなお世話じゃ
聞き手…美味いもんを食わず酒も呑まずじゃ川藤幸三に死ねと言うとるに等しいね
川 藤…そうよ。でもな、いくらワシでも年がら年中ばかばか喰うとる訳じゃないよ
聞き手…でも4年前に広岡さんが西武じゃなくて阪神の監督になっていたかもしれんのよ
川 藤…ワシの悪運が上回ったちゅう事やね(笑)
聞き手…監督と言えば吉田監督はどうだった?
川 藤…前の時と比べて我慢する事を覚えたというか自分を殺すようになったね。かなり変わったと思う
聞き手…大人になった?
川 藤…でも昔のように一本気なところもある。熱くなって周りが手綱を引くこともあった
聞き手…野球に対して生真面目な人だから夢中になるのかな?
川 藤…ベンチで観察してるとなんぼでもおもろい事がある。投手コーチに「交代させる」と言ってからマウンドへ行ってもそのまま
続投させて戻って来たのも一度や二度じゃない
聞き手…選手の意思とか感覚を大事にする人だから臨機応変なんだろうな。後楽園で福間投手が原選手にサヨナラ本塁打を
喰らった翌日の試合で敢えて原に対して福間を投げさせたのもそういう事だったんでしょうね
川 藤…あの時も「交代や」と言ってマウンドへ行ったんや。でも代えずに戻って来た。オッと思ったね。なかなか味な事をするなと。
結果、原を抑えたからな。選手は自分が信頼されてると意気に感じてやる気が出るわな
引退はせんよ。どこまでやれるか挑戦するわ
聞き手…今年の勝因は何だったと思う?
川 藤…節目、節目で勝てたことが大きかったね
聞き手…負ける悔しさを知っているからかな?
川 藤…今までが負け過ぎていたのよ。これまでは負けてもマンネリというか、慣れてしまっていた。それが今年は勝つ味を知った。
勝ちに飢えていた分、いっぺんに爆発したんじゃないかな
聞き手…いま振り返ってみて、勝つ為には何が必要だと思う?これまで勝てないチームにいたんだから分かるんじゃないの?
川 藤…勝つ為には、か…。難しいな。ワシが考えるにやっぱり闘争心やな。あぁもうアカンと諦めてしまうか、まだ大丈夫と考えるか。
今年のウチは負けてたまるか、まだいけるという気持ちが監督・選手・スタッフ全員にあったと感じた
聞き手…いわゆるダメ虎と言われていた頃と何が違ったの?
川 藤…あの頃は試合が始まる以前にチーム内がガタガタだった。なんか知らんうちに負けてた。自滅やね。負けても悔しくないというか
負け癖がついていた。今年は負けが込んできても歯止めが効いて、そうこうしているうちに勝ち星を拾えるようになった
聞き手…何が歯止めになったの?
川 藤…オカ(岡田選手)の存在が大きいね。奴はチーム内をよう見とる。そろそろチームがおかしくなりそうになると首脳陣と
話し合いをしとった。そういうのを見てた選手らに一目置かれるようになっていった。ここで負けたらズルズル行ってまうと
思った時があったんや。その時に「一回集まろう」と音頭を取ったのもオカ。オカに相談されたワシがカケ(掛布選手)に
話したら「ヨシッ、皆に伝える」と言ってくれた。もしもあの時にカケが渋っていたらチームは空中分解していたかもしれん。
なんやかんや言うてもやっぱりカケがウチの象徴やからね
聞き手…なるほどね。監督も言ってるけど今年の優勝を来年以降にも繋げていかないとね
川 藤…そや、もういっぺんやりたい。でも正直マークが厳しくなるだろうし甘くはないかな
聞き手…そうそう来年と言えば6日の契約更改の席で今回の優勝を花道に引退の話が出たようだけど?
川 藤…辞めへんで(笑)。ワシはな、はっきり言うて今年は野球をやった感じないねん。だからこのまま辞められへん言うた
聞き手…年俸が25%減になっても続けると
川 藤…優勝を花道に引退なんて格好良すぎる。正直言うて来年はより厳しくなるのは自分でも分かっとる。もしも自分が監督なら
川藤幸三を一軍ベンチに置いとかんやろ。それでもいいからとことんやってみたいのや。どこまでやれるか、それでケジメを
つけたい。その為なら例え給料が半分になろうが構わない。金やない。ワシには野球とタイガースしかないんや。だから
球団には感謝してる。ほんまワシは幸せもんや
聞き手…人生は一度きり。後悔のないように頑張って下さい
川 藤…そや、挑戦したるわ
阪神一筋19年。酒を愛し、野球を愛し、ダメ虎を愛し続けた男が今しみじみと1985年タイガース優勝を振り返る。掛布が岡田がバースが、その生き様の意気に感じた猛虎ナイン全員が心をひとつにしてこの男を夜空に放り上げた。誰が呼んだか猛虎の春団治。12月6日の涙の残留劇はこの一念が生んだものであった。
耐える時はずっと耐えなアカン思うた
聞き手…契約更改の話は後でするとして、先ずは21年ぶりの優勝の話から。あの胴上げは見てるこっちもジーンときたよ
川 藤…ワシはホンマに幸せモンや。今年は大した仕事も出来ず、他にも活躍した連中がぎょうさんおるのに皆に感謝せんと
聞き手…どんな感じだった?
川 藤…あの時の気持ちは、何ちゅうか今までのものが全部パ~と吹き飛んで行きおった感じ。今まで優勝経験が無くて、よく優勝の味は
味わった人間にしか分からんと聞かされてきたけど、ホンマにその通りやった。言葉では表現できん感じやと思うたわ
聞き手…体で感じるモノ?
川 藤…あれはホンマに子供に帰るな。四つ、五つの子供みたいにはしゃぎ回ってた。だから余計にジョー(真弓)や仙ちゃん(佐野)に
申し訳なかった。一通り胴上げが済んで、アレッ、ジョーは?仙ちゃんは?ワシだけ胴上げされてスマンと
聞き手…いやいや、平田や木戸が言ってたけど首脳陣と選手とのオイルみたいな緩衝剤の役割をしてくれたと感謝していたよ
川 藤…ワシなんか何もしてないよ。皆もワシも優勝したかった、それだけよ。首脳陣がカッカしてる時に「イチさん(一枝コーチ)、
いらんとこでイライラしてもしゃーないやろ」とか「上がイライラしたら選手が委縮してしまうで」と言うくらいよ
聞き手…そういう事が大事なんじゃないかな
川 藤…でもワシも言いたいことは我慢しなかったからオイルはオイルでも発火剤みたいなもんや(笑)
聞き手…具体的には?
川 藤…ベンチの中でヘッド(土井ヘッドコーチ)に対して「ボケッとすんな。声を出せ」とか言うてた。若い連中は
ビックリしとった(笑)
聞き手…そりゃ若手でなくても驚くわ(笑)
川 藤…でもな、ヘッドがニヤリと笑って「スマン、スマン」と。それでベンチ内は爆笑よ
聞き手…改めて野球を辞めなくて良かったと?
川 藤…ああ、一昨年の契約更改ね
聞き手…引退勧告されて給料が半分になってもいいから現役を続けたいと申し出た。でもその価値はあったね
川 藤…あった、あった。この経験はお金では買えんよ
聞き手…あの時に頭に血が昇って辞めてたら今は無いもんね
川 藤…ホンマに。一時の感情で行動したらいかんと改めて思った。耐える時はずっと耐えなアカンね
この商売、聖人君子の生活で勝てると思わん
聞き手…ところで今シーズンはこれ迄で一番呑んだ1年だったんじゃないの?
川 藤…よう呑んだわ、ホンマ。実はな昨シーズンはさっきの契約更改の件があったから女房に言っといたんよ。一切、家のことは
手をださんゾと。とにかく自分の好きなようにさせてもらう。覚悟しておけと
聞き手…今年は?
川 藤…今年はちょっと違って、俺が俺が…という気持ちは無かった。自分は一歩引いて他の選手を押し出して自分のことは後回し。
その鬱憤を酒で発散していた。門限なんかクソ喰らえで、酒あり、何あり、かにありよ(笑)
聞き手…落語家の桂春団治じゃないけど、芸の為なら・・ってやつね
川 藤…家に帰るのはいつも朝帰り。女房の職場は小学校やから朝が早いんや。家を出る女房が帰って来たワシと顔を合わす度に
「お早いお帰りで」と呆れとったわ
聞き手…でも優勝して亭主の夢も叶ったし奥さんも喜んだんじゃない?
川 藤…家では小言ばかり言うとるけど腹の中では喜んどるやろな
聞き手…聞くところによると奥さんは野球に興味がないそうだけど?
川 藤…はっきり言って野球嫌い。というより野球をやってる亭主が鬱陶しいらしい(笑)。そのカミさんが今年は違った。自分から
テレビの野球中継にチャンネルを合わせていた。でも、どうやらワシが出てくるとチャンネルを変えてたそうだ
聞き手…心配で見ていられない?
川 藤…単に亭主に興味がないだけかな(笑)
聞き手…酒に限らず勝負事には羽目を外すのも必要?
川 藤…絶対にそう。ワシはこの商売は聖人君子の生活をしとったら精神が持たんと思うとる。羽目を外す時は中途半端じゃアカンのよ。
どのくらい呑んだら翌日の試合に影響が出るかを知っとけばエエ。それが出来る奴がこの世界で生き残れる
聞き手…実は自分も最近はそれに近い考えなんだ。キャンプ中に夜間練習を9時、10時までやるくらいなら皆で一緒に酒でも呑んだ方が
良い気がする。酒の席に女性がいなけりゃ、どうせ野球の話になるんだから
川 藤…そや。今年も酒を呑むといつの間にか野球の話になっとる。初めは女の話をしていてもな(笑)。結局みんな野球好きなのよ
無念の最下位。だが若手の活躍に光
なんと三塁手が年間9人も
杉浦新監督は就任早々、ドカベン香川選手の三塁コンバートを発表し、秋季キャンプではミットをグラブに替えて練習に明け暮れた。正捕手の座を吉田選手に奪われた香川の打棒をベンチに置いておくのは勿体ないと判断してのコンバートだったが、それはつまり南海の三塁手の人材不足を物語っていた。今季の南海は三塁手に9人の選手を起用した。しかし " 帯に短し襷に長し " で池之上選手の73試合が最多。以下、中尾65・山村52・立石13・藤本博6・河埜5・定岡4・小川2・ナイマン1と規定試合数(86試合)に達した選手はいなかった。しかも24失策はリーグ最多で踏んだり蹴ったりだった。
左腕投手不足に泣かされ続けて今季は遂に0勝に終わる
左腕不足は今季も続いた。過去5年の左腕投手の成績は昭和55年・5勝1敗、56年・1勝2敗、57年・1勝3敗、58年・2勝3敗、59年・2勝4敗、今年は遂に0勝2敗に終わった。今季は巨人から移籍した中条投手やオープン戦で3勝したプロ8年目の竹口投手に今季こそは左腕不足解消かと期待したが本番では勝てなかった。竹口は4月10日の近鉄戦に先発したが2回、5月5日のロッテ戦は初回で、いずれもKOされた。また中条は10月12日の阪急戦に先発したが初回4人の打者に4連続安打されてワンアウトも取れず降板した。
名門・南海の復活は新鋭の台頭にある!
打撃10傑を見ても南海の選手の名前は見当たらない。ようやく17位に打率.285 でナイマン選手が現れる。門田選手も打率.272・23本塁打と往年の姿からは見る影もない。だが穴吹前監督がベテラン選手に見切りをつけて、結果を度外視して若手選手を起用し続けてきた成果がようやく出始めてきた。規定打席不足ながらも5年目の山田選手は打率.296 、2年目の佐々木選手は打率.291 、同じく2年目の岸川選手は初めてのスタメン出場で初本塁打を放つなど結果を出した。また新人の湯上谷選手は遊撃手として打率.262 をマークした。彼ら若手が順調に育てば南海の復活も見えてくる。
番記者が選ぶベストゲーム
4月18日、対西武3回戦(西武)。先発は山内孝投手と西武が郭投手。山内はスライダー、シュートを駆使して左右を揺さぶり打たせて取り、一方の郭は持ち前の快速球でグイグイ攻めてお互いに相手打線を抑えて0対0のまま試合は9回へと進んだ。9回表、南海が二死満塁のチャンスで打者は高柳選手。しかし捕ゴロで無得点。その裏、山内は西武の攻撃を三者凡退に抑えて9回時間切れで引き分けとなった。山内は127球、郭は137球と両者譲らず投手戦にピリオドが打たれた。試合後「生涯最高のピッチング」と山内が晴れ晴れとした表情で語ったのが印象に残る試合だった。
ドジで呑気で慌て者。加藤クンは本当に困った若殿様
周囲から若殿と呼ばれている加藤投手。端正なマスクで時代劇を演じさせたら万事に有能な若侍役がピッタリと似合いそう。しかし実際の加藤は意外とドジなのである。7月7日の日ハム戦(後楽園)に先発した加藤は矢野投手の救援を仰いだが8回1/3を12安打・6失点ながら4勝目をマークした。実はこの試合で加藤が履いていたスパイクは打撃投手の川根さんのものだった。宿舎を出る際に自分のスパイクを忘れてきたのだ。試合前のウォームアップはスパイクは履かないので気がついたのはブルペンに入ってからだった。用具係の金岡さんに宿舎まで取りに行ってもらったが試合開始には間に合わず、自分のスパイクを履けたのは2回裏のマウンドからだった。
他にもベンチ裏にグローブを置き忘れて河村投手コーチに「商売道具を粗末にする奴は大成しないゾ」と叱責された事も二度三度。スミマセン…と謝るが反省しているとは思えない。またベンチ前で円陣を組んでミーティングをするのが試合前の決め事なのだが、加藤はノンビリとトイレで用を足していた。ミーティングが終わる頃に何食わぬ顔で円陣に加わり事なきを得た。だがこの世の中、いつも上手くいく訳ではない。7月5日、ロッテ戦のため大分への移動中に体調が悪くなった。数日前から風邪気味で加えて飛行機嫌いもあって胃炎になってしまった。このロッテ戦で登板する予定だったので首脳陣に報告しなければならず、恐る恐る穴吹監督に体調不良を告げると大目玉を喰らってしまった。
「お前はプロ野球選手としての自覚がなってない。体調の維持管理は我々の基本中の基本だ」と一喝され先発を剥奪された。そして次の登板機会が前述の日ハム戦だったのだが、その試合でも失態を演じてしまったのだ。その後も悪いことが重なる。初めてオールスター戦に選ばれ、良い所を見せようと普段以上に力を入れて投げたのが原因で右肩を痛めてしまった。周囲の心配をヨソに本人はそれほど深刻なものではないと楽観視していたが、球宴明けから日にちが経っても右肩痛は癒えず勝ち星は伸びなくなった。結局、今季は9勝11敗1S・防御率4.09 で高卒プロ2年目にすれば充分合格点だが、右肩さえ痛めなければもっと勝てた筈である。本物のお殿様になるにはもう少ししっかりしてもらわないと困ります。