Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 410 黄金ルーキーの1年後 ①

2016年01月20日 | 1984 年 



斎藤雅樹(巨人)…1月中旬の多摩川グラウンドでは若手ファーム組の自主トレが既に始まっていたが2年目の斎藤の姿はなかった。「斎藤?奴はいい所に行ってるんだ」と国松二軍監督。いい所とは東京・大手町にある球団事務所。1月28日からのグアムキャンプ参加候補に抜擢された斎藤はパスポートの申請手続きの為に球団事務所に呼び出されていた。「まだ正式決定ではないですがこの時点で一軍候補に入っている事でやる気が全然違います。何の実績のない自分に関心を持ってくれた首脳陣に感謝です」と最終的にグアム行きの切符を手にするかどうかは問題ではなく、ちゃんと自分を見てくれているという事に感謝する斎藤であった。

実は本当ならグアムキャンプより一足先に斎藤はアメリカに出発している筈だった。昨年、アメリカのナッシュビルで開催されたウインターミーティングで巨人軍はSF・ジャイアンツと業務提携を結び、その第一弾として巨人から若手選手を留学生として派遣する事となり斎藤もその一人に選ばれ1月初旬には旅立つ事になっていたが諸事情により直前で中止となった。巨人が獲得した新助っ人のW・クロマティ選手を実はSF・ジャイアンツも狙っていて獲得寸前で巨人が横槍を入れて掻っ攫ってしまった。これにSF・ジャイアンツのハーラー会長が激怒し巨人との業務提携を解消した事で留学プランも頓挫してしまった。しかし斎藤には幸いだった。あのまま事が進んでいたら今年1年はアメリカに滞在する事となりグアムキャンプはもとより一軍昇格のチャンスも無かった筈。

斎藤は今、昨秋のキャンプで堀内コーチに言われた事を思い出している。「いいか、俺が引退して一軍メンバーの1枠が空いてチャンスだぞ。実力さえ有れば歳なんか関係ない。ぼやぼやしてると水野(池田高→巨人)に奪われちまうゾ」と。更に新浦が韓国プロ野球の三星ライオンズに移籍した事でもう1枠空きが増えた。「アメリカに行かなくて本当に良かった。本気で一軍入りを狙ってますよ。マキさん(槙原)だって2年目に昇格して大活躍しましたからね。僕にはマキさん程のスピードは無いけど根性で一軍に喰らいつきます」とやる気マンマン。2月16日にやっと19歳になる。年齢的にはまだまだ子供だが1月16日に水野が初めて多摩川グラウンドに姿を見せた時、「凄い騒ぎですね。彼も大変でしょうね」と話していたがそれは奇しくも昨年の今頃に槙原が新人だった斎藤に投げかけた言葉と同じだった。斎藤は先輩の槙原の背中を1年遅れで追いかけていく。



荒木大輔(ヤクルト)…静かである。とても信じられない程の静けさが周囲にある。「ホントに最高です。やっと野球をやる環境になったと実感しています」・・1年前の喧騒から解き放たれた荒木の表情は心底からの明るさを反映しているように見える。甲子園のアイドルとしてヤクルトに入団した昨年の今頃は自主トレ初日に100人を超す新聞記者、テレビ局が5社、女性週刊誌や写真誌のカメラマンでごった返して練習どころではなかった。今年も注目ルーキーの高野(東海大→ヤクルト)の周辺を多くのマスコミが取り囲んでいるが荒木の場合は高野の比ではなかった。しかし今年は一転して静岡県伊東市で行われた自主トレ初日に駆けつけた記者は12人でテレビ局はゼロだった。この1年を振り返って荒木は「余りに騒がれて何をどうしていいのかすら分からなかった。でもそれは言い訳で結局は自分が甘かった」と反省する。

だからと言って手を抜いていた訳ではない。シーズン後半には傍目にも野球に取り組む姿勢が変わったのが分かった。その点を聞かれると荒木は「投手の基本、野球の基本が体力強化にあると改めて分かったんです。走り込みや筋トレをしっかりやって体力をつけなくちゃ」と。事実、昨秋から合同自主トレを迎えるまでの間、荒木を越えるランニング量をこなした選手はいない。トレーニングの成果は数字に表れている(入団前→後)

   ・身長 180cm → 180cm    ・体重 75kg → 80kg    ・大腿部 57cm → 59cm   ・胸囲 94cm → 98cm

   ・ウエスト 83cm → 82cm   ・ヒップ 96cm → 97cm   ・背筋力 155kg → 223kg

身体は引き締まり胸や尻など張るべき所は張りパワーアップした荒木の肉体。自主トレを視察した武上監督は「オイ、随分と目立つようになったな。悪い意味じゃなく良い意味でだ。大きくなったし動きも機敏で柔らかい。この1年でだいぶプロらしくなった」と声をかけた。余りの人気ぶりに無理やり一軍に置かれた感が否めなかった昨年と違い今年は実力で一軍にいられるレベルに近づきつつある。「今の目標ですか?先ずはユマキャンプのメンバーに入る事です。その後の事はその時に考えます」とプロの世界を知ったせいかその口調は謙虚。一歩ずつ足元を固めようという姿勢こそが成長の証でもある。




畠山 準(南海)…大阪・中百舌鳥にある中モズ球場では練習後にその日の収穫、課題、反省を大声で叫ぶのが恒例となっていてそれぞれが思い思いの丈を発した。畠山の番が来た。「皆さん昨年は野球では勝ち星ゼロ、年末の歌番組では音痴ぶりを披露してしまい申し訳ありませんでした。今年は歌も上手くなり野球もどんどん勝ち星を挙げますので期待して下さいッ!!」 内気で引っ込み思案だった畠山が照れる事なく胸を張って堂々と宣言した。畠山は確かに変身した。ひ弱さが消え逞しい戦う若鷹になっていた。たった1年の歳月がこうも若者を変えるものなのか・・畠山は着実にエースへの道を歩んでいる。昨年の今頃の畠山は四国から大阪にやって来て自主トレに参加したが予想以上にプロの練習は厳しく「もうダメ…死ぬ」と言ってグラウンドにへたり込んだ。その姿からはドラフト1位指名選手のプライドは微塵も感じられなかった。

だが今は昔である。「そうでした、昨年を思えば月とスッポンですよ。今は練習していてヘバる事は無いし自分でも体力がついたと感じます。でも当たり前ですよね。変わらなかったら1年間何をしていたんだ、となりますから」と話しぶりから変わった。モジモジしていた昨年から一変し口調もすっかりプロらしくなった。そんな畠山を河村投手コーチは先発ローテーションの5番手に指名している。若返りを図る投手陣の先頭を切る一角と考えているのだ。「日に日に力をつけている。先発完投投手としての条件を揃え大きく育っている」と河村コーチの目尻は下がりっ放し。今季畠山に課されたノルマは「8勝」、昨季は結局勝ち星はゼロだったが、そんな「実績」は関係ないと河村コーチは言う。畠山本人も「余り大きな事は言えないですけど自信はあります。ここまで順調ですのでこの調子を維持出来れば何とかなる、と思っています」と。

課せられたノルマを達成出来れば自ずと「新人王」も狙える。首脳陣の配慮で昨季の登板回数は29回 1/3 に留まり新人王の資格は残されたが畠山は「新人王?本音を言えば1年目に獲ってこその賞だと思うので特に欲しいとは思わない。それより信頼される投手になる事の方が大事」と。甲子園のライバルでもあり、一足先にプロ初勝利を挙げた荒木(ヤクルト)についても「正直、昨年までは意識していましたが今は自分の事で精一杯です」と他人の事を考える余裕は今の畠山にはない。自分の置かれた立場を見つめ、前へ前へ進む事しか考えていない。「昨年は開幕するのが不安だったけど今年は楽しみです」と1年の歳月は気弱な若者を逞しい男に変えた。夢のプロ初勝利へ向け2年目のスタートを切った。「初勝利?目標はもっともっと勝つ事です」そう言い切る畠山の表情は紛れもなくプロ野球選手の顔になった。
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# 409 放任 or 管理

2016年01月13日 | 1984 年 



広岡西武の連覇で技術はもとより食生活まで立ち入る管理野球が持て囃されている現在のプロ野球界。昨年までは「(草食の)ヤギさんチーム」と白い目で見ていた大沢監督が退任した日ハムは " 反管理野球 " を継承するかと思いきや植村新監督は本家の西武の上を行く " 超 " が付く管理野球を導入する。一方でロッテの新監督に就任した稲尾監督は自らの豪放磊落なイメージ通り「管理野球なんぞ糞くらえ」とばかりの " 自主管理野球 " をブチ上げた。稲尾監督は「ワシらの時代の選手は自主管理が出来ていた。フトッさん(中西現ヤクルトコーチ)は酒を浴びるほど飲んでどんなに遅く帰っても宿舎での素振りは欠かさなかった。ヒロさん(広岡監督)が西武で厳しく管理するのは今の選手が自分で管理出来ないから。現に広岡イズムを理解している選手には調整を任せている」としロッテでも自己管理が出来る選手、例えば落合などには「彼は今のままで結構。あれで3年連続首位打者と結果を出している。周りでとやかく指図する必要はない」として放任を宣言した。

自主トレ真っ最中の1月12日、「アルコール、麻雀、ゴルフ、全てOK。ただし陽気にそして程々に」と所信表明した。「放任主義?そう思ってもらって結構です。ここ3年ほどでロッテには暗いイメージが付いてしまった。これで少しでも悪いイメージが払拭出来るのであれば放任だろうが何でもいい」と稲尾監督は熱く語る。監督として広岡監督に立ち向かう以上、同じ管理野球の後追いでは先頭を疾走する西武には勝てない。相手が管理野球なら正反対の野球で打倒西武を達成しようという訳だ。具体的にロッテが抱える問題への対処は先ず第一にチーム防御率の向上。被本塁打数と共に防御率はリーグ最悪で「球団が私に託したのは投手陣の再建だと認識している。新任の佐藤投手コーチと二人三脚で立て直したい」 幸い井辺、石川、トレードで大洋から獲得した右田など有望株は多く「一朝一夕にはいかないだろうが徐々にレベルアップを計りたい(稲尾監督)」と。

第二に有藤の再生。稲尾監督は「これこそウチの最大のテーマ」と強調する。守備力の低下を理由に有藤本人が外野へのコンバートを申し出た。稲尾監督は「本人と話し合う予定だが伝え聞く所によると我が儘によるものではないようだ。空いた三塁に落合、一塁に移籍して来た山本功をキャンプで試そうと考えている。チームリーダーとして有藤は欠かせない。外野で有藤が生き返るのなら断行する価値はある」と前向き。更にはまだ私案の域を越えないが野手転向を決めたばかりの愛甲を投手との二刀流を考えている。左腕投手の中継ぎ、ワンポイントが不足しているチーム事情から近鉄時代の三原監督が永淵を投打で起用して以来の珍事が再現される可能性がある。監督に就任したのが11月10日、その後の26日の納会に出席し選手達と顔を会わせた際に有藤や水上らが口を揃えて「監督、勝ちましょう」「僕らは肩身の狭い思いをしています。勝負事は勝たなくちゃ駄目、是非とも優勝しましょう」と迫ってきた。

「コイツらは勝つ事に飢えている。勝ちたい意欲さえ失っていなければ見込みはある」と稲尾監督はロッテ再建に手応えを感じている。また「どう分析しても投手力が他球団と比較して劣っている。ならば今季のウチは " 攻撃は最大の防御なり " で、打撃陣で投手陣を育てていく策を取らざるを得ない。だから打者連中にはグラウンド以外では何も言わず自由にさせるが試合には実力がある選手しか使わない。持てる力の120%を出せ、そして明るく陽気に野球をやろう!それが今季のモットーだ」「正直言っていきなり優勝するのは難しいだろうが3年以内に優勝争いの輪に入れるだけの力を蓄えたい」と付け加えた。「打倒西武とかは対等に戦える力を得てから口にすべき事で今のロッテは他所様の事をあれこれ考えている場合ではない。ただ言えるのはどこぞのチームを真似た二番煎じをやる気は毛頭ない。ウチは独創的な野球をやるよ、これ以上負けても " 7位 " になる事はないしね」と明るく答えた。

片や日ハムの植村新監督は管理野球を掲げる。それも本家の広岡野球の上をいく超・管理野球だ。その引締めぶりは群を抜いている。球界中を驚かせたのが罰金の増額で、遅刻が5万円也。昨年までは5千円だったので一気に10倍に。他には門限破りが1万円から10万円に、サインの見落としは1万円、チームバッティング違反が2万円など軒並み増額した。1月8日に始まった合同自主トレでは初日の監督訓示に僅か3分ほど間に合わなかった岡持は練習自体には遅れなかったので5万円は逃れたものの昨年並みの5千円を徴収された。更に昨年の暮れに全選手に申告させたベスト体重をオーバーしている選手から「1kg につき1万円」を徴収するなど被害者が続出した。集められた罰金は首脳陣の監査の下、高代選手会長ら選手会三役が管理しオフに反省会を開催する事になっているが早くも「優勝しなくても皆でハワイ旅行が出来そう」と皮肉な期待を抱くナインもいる。

植村監督がこうした厳罰主義をはじめ徹底した管理野球を打ち出した裏には「西武という厳しい管理の下に置かれたチームが覇権を握っている事は事実。自由・放任主義で勝てれば文句は無いが勝負事は勝ってこそ官軍。西武に追いつき追い越すにはより厳しくするのは当然」との見解がある。もっとも罰金だけなら大した問題ではない。所詮は金銭でカタがつく。選手達を奈落の底へ突き落したのが自主トレから始まりキャンプの50日間ブッ通し休みなしのスケジュールだ。「ここ数年はスタートダッシュに失敗している。これを打破するにはキャンプの成否が決め手だ」という植村監督の考えから名護キャンプでは徹底したスパルタ主義を貫くと宣言した。先ず開始時刻は10時と決めているが終了時刻は未定。その為、夕食は各自が適宜摂るとしている。更に夜は名護球場内に照明付きのマシーン6基を常設して宿舎から送迎バスを手配している。参加は自由だが事実上の強制夜間練習である。

食事面にも植村監督の目が注がれて怪我防止の為にアルカリ性の体質に変える事を目指す。お茶やコーヒー・紅茶を禁止しウーロン茶を推奨。夕食にはワカメやジャコ・丸干し料理が並び、ビールではなくワインを飲む。日ハム本社からの毎日空輸される差し入れの肉を食べる際には必ず肉と同じ量の野菜を摂る事を義務付ける。選手に人気の鉄板焼きの脇にはマネージャーが立って目を光らせるなど徹底させる。肉だけのおかわりは許さないさしずめ病院並みだ。加えてタバコに関しても練習中は勿論厳禁だが朝食前に一服する事さえ禁止に。これまでおにぎりがメインだった昼食も今年はサンドイッチにスープといった軽食で済ませ、喉を潤す炭酸飲料水は排除しジューサーを球場に持ち込んで地元沖縄産新鮮果物の天然ジュースを飲ませるというから念が入っている。

極めつけが私生活の管理。キャンプ中の暇つぶしの定番のパチンコ、スロットマシン、麻雀、TVゲームは「熱中する余り長時間同じ姿勢のせいで腰痛や肩こりの原因になり得る」として時間制限される事に。実は過去にスロットに嵌り大事な利き腕を痛めた選手がいた。だからと言っていい歳の大人が私生活まで管理される事に「夜はどうすりゃいいんだ?」と茫然自失状態。広岡監督はもとより高校球児もビックリの超・管理野球に、これまで8年間も放任主義の大沢監督の下で好き勝手放題にやってきた選手から「天国から地獄だ」の嘆き節が聞こえて来る。しかし柔和な物腰ながら空手三段で嘗ては " 鬼 " との異名があった植村監督は「地獄だって?地獄の向こうには本当の天国が待っているんです」と委細構わず管理野球の道をひたすら突っ走る覚悟である。
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# 408 曲がり角

2016年01月06日 | 1984 年 



1984年のプロ野球シーズンが動き始めている。そこには様々な顔がある。新人もいれば中堅やベテランもいる。皆がそれぞれの思惑と成算を秘めてスタートする。「やるぞ!」の気持ちもその置かれた状況によって微妙なニュアンスをもって異なる。野球人生の曲がり角の男たち・・彼らもそれぞれが「気になる部分」を抱えて今シーズンにチャレンジする

羽田耕一(近鉄):眠れる猛牛にとってのすっかりプロらしくなった金村の存在
" 珍プレーの羽田選手 " と一夜にして有名人になってしまった。テレビ放映された「珍プレー・好プレー」のせいである。飲み屋に行く度に「あっ、珍プレーの羽田だ」と見知らぬ人達に声を掛けられる。「正直いい気分はしませんよ。あれだけエラーの場面を繰り返されたらイメージが付いちゃいますからね」とお人好しの羽田も少々おかんむりだ。そのせいか昨年のオフは外出する回数もめっきり減ったとか。確かに昨季は18失策と例年に比べて多く、加えてチームトップの78三振を喫する散々なシーズンだった。かつてはダイヤモンドグラブ賞を受賞した男なのだがどうしたのか?仰木ヘッドコーチは「打球に対して攻める姿勢が欠けていた。いつも一歩下がってヘッピリ腰で守っていた印象が強い」という。思い返せば一昨年は最高のシーズンだった。打率.277 ・85打点は自己最高で「やっと眠れる猛牛が目覚めた」と周囲も一人前と認めた。その陰には羽田を奮起させた幾つかの要因があった。それは黄金ルーキー・金村と新外人ウルフの加入だった。10年間に渡り不動の三塁手だった地位が危うくなった事が好成績に繋がったのだ。

それから一転して昨季は自己最低へと転落していく。シーズン半ばには真剣に一塁コンバートも考えていた。それもやはり仰木ヘッドコーチの言う逃げの姿勢の現れであったのかもしれない。しかし年が明けて心機一転、三重県の賢島で山籠もりをして「サード一本でやる」と考えを新たにした。今季から一塁は新外人のマネーが守る事が決まり羽田は三塁のレギュラーを金村と勝負する事となる。実績では羽田に軍配が上がるが金村には若さという大きな可能性がある。「金村がライバルなんて僕は思ってませんよ。奴も上手くはなったけどまだまだヒヨっ子」控え目な羽田にしては珍しく強気。自主トレ初日の羽田を見て「今迄と随分ちがう。顔から笑みが無くなっていた。相当に入れ込んでいるようや」と岡本監督の目にも羽田の変化が映った。一方の金村は昨年の秋季キャンプで特守に次ぐ特守で課題の守備を向上させ「やっと落ち着いて守れるようになった」と自信を深めた。身体も1年間で尻周りが4㌢大きくなるなどすっかりプロらしくなった。岡本監督も「羽田を脅かすくらいの力を付けてきた」と成長を認めている。今年の羽田を取り巻く状況は活躍した一昨年と似てきているが果たして今季は?




中尾孝義(中日):この2年、明から暗へと両極を見た男が挫折の中で学んだもの
セ・リーグ初の捕手のMVP受賞を果たし幸せの絶頂だった一昨年はまさに天国。僅か1年で地獄を味わった中尾。出場試合数も119から92に減り自慢の強肩も盗塁阻止率.430 から .305 にまで落ち込み、リーグ優勝から5位に終わったチームの戦犯として批判された。悪夢の昨季を振り返って中尾は「調整の失敗」と語る。元々身体能力は高く背筋力は300㌔、握力は左右共に80㌔以上と恵まれた資質を更に伸ばそうとして過剰なトレーニングに取り組んだ。優勝して連日多忙なオフを過ごし、ろくに休みを取らずに年が明けて始動した。球場でのトレーニングを終えると球場脇の市営プールで「プラスアルファを引き出すには日頃使っていない筋肉を強化するしかない。水泳で全身の筋トレをしてるんです」と語っていた。結果はどうだったか?言葉とは裏腹に3日目にして風邪を引き体調が万全でないまま串間キャンプに突入するとキャンプ中盤で腰痛を発症し満身創痍でシーズンイン。「冷静に振り返るとやっぱり僕が甘かったという事。オーバーホールを欠かせないオフに身体を過信して休ませなかった。シーズンに入ってからの怪我もそのツケだと思う。だから今回はしっかり休んだ」と。

ナゴヤ球場での自主トレで他の選手が午後の練習を始める頃になると中尾は一人球場を後にする。実は昨年痛めた右膝が完治しておらず病院に通っているのだ。「痛み自体は無いですが違和感は残っている(中尾)」ので慎重を期している。病院での治療後は全身マッサージに向かう。「怪我の予防の意味で通っています。目に見えない疲労が取れると安心感が生まれますね」と。このマッサージ通いには球団首脳陣も歓迎している。捕手という激務にありながら中尾は過去4年間、かかりつけの専門医を持たなかった。中尾は「球団からは治療院を紹介されたりもしましたが今一つ乗り気じゃなくて…」と断っていたがようやくその気になったようだ。これには球団首脳も「やっと本人に自覚が生まれたようで結構(大越球団総務)」と諸手を挙げて大歓迎だ。今季の中日は山内新監督を迎えてV奪回に挑む。それには中尾の復活が欠かせない。 " ガラスの王子 " と揶揄され反省しない男と言われた中尾が「MVPに選ばれたという事は生涯一流選手を義務づけられたも同じ。それを自分の無自覚で裏切ってしまった。二度と同じ轍は踏まない」とまで言う。昨年同時期の動きに比べると静かだが他球団は逆に脅威に感じている筈だ。




山本和行(阪神):投手陣の弱体化、年俸ダウンなど悪状況下での救援エースの身上
暮れから正月にかけて今年も山本はハワイ旅行を楽しんだ。夫人と2人の子供たち家族4人の家族旅行は今年で3年連続だ。「広い所でノンビリ。一度海外のスケールの大きさを知ったら忘れられなくてね」・・暮れの契約更改で22%減、金額にして9百万円の減俸(推定3千2百万円)提示を受け「これなら1年間丸々休んで(規定限度枠の)25%下げてもらう方がマシ」と二度に渡る交渉も決裂しモヤモヤした気分を一新する意味も兼ねたハワイ旅行だった。初めての海外キャンプ(昭和55年のテンピ)で広大なアメリカに圧倒されて以降、海外にはまり英会話の教材を手に入れて今では日常会話程度ならお手の物。今年のハワイ旅行ではオルセンの自宅を訪ね通訳なしで野球談議に花を咲かせた。「巨人に入ったクロマティを知っていて色々教えてもらった」との事。未更改のままの旅行だったが視線はしっかり今季に向かっている。それにしても昨季は惨めなシーズンだった。5月6日、原(巨人)にサヨナラ本塁打を浴びたのをきっかけに投げても投げてもガタガタの悪循環。守護神・山本の崩壊が即、チームの崩壊に繋がった。

「チームに迷惑をかけた、と口で言うのは簡単だけどね。今更(不調の)理由を言っても仕方ない…」 元々が無口で余り不調の原因について口を開かないがトレーナーによれば2年前の大車輪の働きで肩、肘、膝の負担が大きくパンク寸前状態で夏場には本人から二軍で再調整する希望が出されたが首脳陣は認めなかった。体調が整わないままシーズンを過ごした結果が先の22%ダウン提示となっただけに本人は納得していない。「監督やコーチもチーム全体のバランスを考慮して二軍へ行かせなかったんだろうけど、再調整していたら違った結果になっていたと思うだけにダウンは仕方ないが9百万円は下げ過ぎなんじゃないかな」と山本。表面は静かだが内面は一本筋が通った男であり、救援エースとしてのプライドが許さないのであろう。今季の山本には奮起せざるを得ない理由がある。小林投手の突然の引退である。「コバが抜けて阪神はボロボロになると言われて我々が黙っていられますか?コバの13勝の穴は勿論大きい。その穴を感じさせないくらい残された人間が働かんとね」 小林投手の引退が山本ら阪神投手陣の眠っていた部分を叩き起こした。




若菜嘉晴(大洋):アメリカで一度は死んだ男のカムバック元年へ向けての蘇生度
熊本県にある菊池温泉。車で4~5分も走れば通り過ぎてしまう小さな温泉街で若菜の新しいシーズンが始まった。1月5日から15日まで斎藤、田代の投打の主軸と共に身体を動かした。午前8時過ぎの散歩に始まりランニング、体操、バットスイングで汗を流す。「こんなに早い始動はいつ以来だろう?でも今年は大事な年。ここで働けなければ後はない」と決意を新たにした。関根監督が正捕手に課すノルマは打率.270 ・20本塁打と決して易しい数字ではない。辻や加藤といったベテラン捕手を越える若手が不在で長年に渡り悩ませてきた正捕手候補がようやく現れた。グラウンドに出れば監督の代理とも言われる捕手を一人が務めるのが強いチームの定石。若菜ならそれが可能であると期待しているだけに関根監督の要求も高くなる。昨年7月に若菜は突如、日本球界に復帰した。阪神をスキャンダラスな話題が元で退団。アメリカの3A・タイドウォーターでは選手というよりコーチ補佐の仕事に追われてクサッていた。そこに救いの手を差し伸べたのが大洋。若菜にとってまさに地獄に仏であった。

阪神時代には周りにチヤホヤされる余りに鼻持ちならない態度ものぞいたものだが今の若菜にはそんな昔の姿を見つけるのは難しい。「アメリカでは試合には出られなかったが野球は試合に出ていない選手を含めた全員で戦うものだと気づかされた。僕は一度は死んだ男。それだけに拾ってくれた関根監督や球団に恩返しする義務がある」とドン底まで落ちた若菜は再起を誓う。だが現実は厳しい。一昨年の夏頃から実戦から遠のき、大洋に入団する迄ほぼ1年間は野球らしい野球をやっておらず一軍でプレーするだけの体力や技術も鈍っていて先ずは実戦の勘を取り戻す必要がある。つまり大洋2年目に当たる今季に活躍してこそ本当のカムバックと言える。「昨秋の伊東キャンプで身体を絞り今はほぼベスト体重。初心を忘れない事を肝に銘じてプレーすればそれなりの成績を残す自信はある」 嘗ては球宴やベストナインの常連。元々は実力派だけに真摯なプレーを心掛ければ大洋にとって貴重な戦力になるのは間違いない。




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# 407 田淵を超える男

2015年12月30日 | 1984 年 



15年間保ち続けた記録が塗り替えられようとしている。法大・田淵(現西武)がマークした通算最多本塁打記録「22本」にあと7本と迫っている明大・広沢克己。同じく田淵が持っていた年間最多本塁打記録「9本」を更新する「10本」を記録した実績からしても通算記録更新の可能性は大だ。1984年一番のアマ球界注目の男に迫る。


巨体に秘められたパワーには途轍もないものがある。茨城県・結城市の結城小学校時代には子供相撲大会に出場して中学生相手に勝ち続け優勝、中学生になると柔道部に入り二段を獲得したパワーが現在の「田淵越え」の原動力となっている。腕っぷしも強く昭和58年の日米大学野球で選抜されたメンバーで広沢に勝てた選手はいなかった。生涯で唯一負けた相手が小山高校の先輩でもあり重量挙げ全日本のホープである砂岡良治(日体大)というから恐れ入る。「去年は納得出来る成績でした。これまで苦しんできたカーブを練習で徹底的に打ち込んだのが良かったみたい。今じゃカーブの方が打ち易いくらい」と課題を一つ克服した。今年の目標は?と問われると「先ずは小早川さんの16本を抜く事。その後は当然、22本を目指します。僕はヒットよりホームランこそ打者の勲章だと思っています」と普段は大きな体に似合わず蚊の啼くような声で話す広沢がこの時ばかりは力強く言い放った。田淵が力強い手首と天性のミート感覚で本塁打を量産したのに対して広沢は重量挙げ選手並みの220kg の背筋力を生かしたパワーでスタンドへ打球を運ぶ。「アイツはホームランを打つ為に生まれてきたような男」とライバルの山崎(法大)も一目置いている。

広沢には田淵を抜く為の3つの好条件が揃っている。先ずは本塁打の生産ペースで田淵の3年時終了時と比べると広沢の方が2本多い。1年生からベンチ入りしていた田淵に比べ広沢がレギュラーになったのは2年生の春。スタート時のハンデを物ともせず現時点で田淵の上を行く。2つ目はスランプ期間が短い点だ。昨秋のシーズン当初は絶不調だった。「右方向を狙い過ぎてフォームを崩してしまった…」と。だが「常に自分のベストフォームが頭にある(広沢)」ので修正も早く出来てスランプを脱するのも早い。最後は決して本塁打ばかりを狙っていない点。本人は本塁打を意識していると言っているが数字を見る限り広沢はアベレージヒッターである。昨春が打率 .450 、秋が .484 で連続首位打者になっている。過去2季連続で首位打者になったのは半世紀を越える東京六大学リーグの歴史の中で長崎慶一(法大→大洋)だけで右打者では広沢が初めてであり、本人も打率に関しては並々ならぬ自信を持っている。好調を維持出来れば昭和56年秋の小早川(法大)以来の三冠王も夢ではない。

しかし当の本人は首位打者や三冠王には興味がないようで「とにかく僕はホームランを打つ事が第一目標」とあっさりしている。というのも彼なりの打撃哲学があるからだ。「打率はポテンヒットでも上がる。どんな当たりを打つかは運・不運がモノをいう。それは打点も同じで走者がいる時に打席が回ってくるかどうかは運次第。その点でホームランは掛け値なしでフェンスを越えるか否かで分かれる実力だけが数字に現れる。だから僕は打者の凄味はホームランに出ると思うんです」とキッパリ。「そもそも僕は器用な打者じゃないんで三冠王なんて夢のまた夢。大ボラを吹いたら御大に叱られます」ととぼけて見せる。だが3つの利点を考えると田淵の記録を塗り替える事は可能だと思える。考えられる障害を挙げるなら四球攻めであろうか。本人も「多分今年は去年以上にマークが厳しくなるでしょうね。昨春に5本打ったら秋季は外角一辺倒でしたからね。記録更新が目前となったら勝負してくれないんじゃないですかね…」と気にしている。

1㍍85㌢、85㌔ の巨体からは動きが鈍そうなイメージしか浮かばないが実際は100㍍を11秒8で走り遠投は125㍍と見た目と正反対の俊敏さと高い運動能力を持っている。「間違いなく今年のドラフトの目玉でしょう。ポジションが一塁なのはマイナス点だがそれを補って余りある打撃は1巡目で消える逸材。田淵の記録を抜いて契約金が増すのは痛手だけどね(巨人・堀江スカウト)」とプロ側の視線も俄然ヒートアップしてきている。広沢もプロ志向が強く「いずれはプロに行きたい。柔道をしていましたがずっと野球が好きで家に帰ればバットとグローブを持って走り回ってました。好きな球団は巨人ですが今はリーグ戦の事で頭が一杯です。とにかく去年の優勝に続き今年も優勝して大学4年間の有終の美を飾りたい。その為にもガンガン打ちまくるつもりで、田淵さんの本塁打記録を結果として抜ければ最高です」 15年間破られずにいた大記録がとうとう抜かれる瞬間がやって来るかもしれない。
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# 406 新監督四人衆

2015年12月23日 | 1984 年 



山内一弘(中日)…愛知県一宮市の出身。与侍子夫人も名古屋市生まれで親戚連中も地元だらけ。プロ野球人として初めて地元球団のユニフォームに袖を通す事になった。監督就任直後のコメントは " 御祝儀 " もあったのか「もちろん1年目から優勝を狙います」と威勢が良かった。しかし秋季練習を終えると「投手次第では優勝できる」と微妙に変化。更に正月年頭には「本当に強いチームにする為にはやるべき事が沢山ある」と当初よりトーンダウンした。それもこれも現状の中日の本質を把握したからだ。チーム作りや選手育成には定評がる人物で一見地味で正直だがいかにも堅実である。自分が不得意とする投手に関しては恥じる事なく外部に指導者を求める。監督としては勇気のいる行動だ。一時は追われるようにチームを去った中日OBの杉下茂氏を中山投手コーチの指導役として招いた。周囲の顔色を伺う事なく良いと思った事は何の躊躇もなく実行に移すというこの事例は山内という人物を知るに最適の材料である。

現役時代は球界を代表する強打者であった事もあり「中日を強打のチームにしたい」と自信を見せたかと思えば「打つ方は俺が見るから大丈夫。むしろバッテリーを含めた守備力の向上が1年目の課題」と不安を吐露する。自分の専門外の弱点が目について仕方ないという理由からか。裏を返せば打撃に関しては大いなる自信を持っているという事。「藤王?キャンプで実物を見てからだけど先ずは二軍でじっくり鍛えた方が長い目で見れば本人の為」と大物新人も子供扱い。秋季練習から精力的な指導を続け、体も動かすが口の方はもっと動かし付いた綽名は " かっぱえびせん "。やめられない止まらない、という事だ。時には怒鳴られる事もあるが選手は笑顔で納得している。つまり山内監督には政治的な裏や駆け引きが無いのを選手達は肌で感じ取ったのだ。先ずは地道な基本プレーの徹底、大向こうを唸らせる高度なプレーは要求しない。「基本の練習の先に優勝が待っていると選手が感じてくれればいい」 発展途上にある選手を一本立ちさせ本当の野武士集団を実現させるのが山内監督の描く夢だ。



植村義信(日ハム)…「タフ・ツー・ジエンド」これが植村監督が掲げたキャッチフレーズだ。つまりは最後まで諦めないゾ!という事。それは植村監督自身が歩んで来た野球人生のモットーでもある。とにかくキッチリした野球を標榜し徹底練習主義で就任直後の秋季練習からオフモードを一掃。年明け1月8日から始まる自主トレ、春季キャンプでも無休を宣言した。キャンプでは練習中の喫煙を禁止し、マシンや鳥かごも増やして息をもつかせぬ地獄のメニューを用意するという。更に食事や生活面にも立ち入る管理主義はヤクルト時代に仕えた広岡監督以上に厳しい厳格主義を打ち出している。「広岡さんとは個人的に親しいがやり方までを踏襲する気はない」と言うが意識しているのは間違いない。監督就任以来、選手達に言い続けている事がある。それは「来年の西武は今年より更に強くなる」「巨人と熾烈な日本シリーズを戦い、勝った事で西武の選手は一回りも二回りも逞しくなる」と。

投手出身である事から周りは守りの野球を目指すと見ていた。だが本人はそういった見方に不満気だ。「野球を守り型だとか攻撃型かに分類する事自体ナンセンス。例え投手でも時には攻撃的な精神で攻めなければ勝負に勝てない」 開幕まで正月三が日以外は休み無しで練習を続けるというその徹底ぶりはこれ迄チームの悪しき体質となってしまっている " スロースターター " という弱点を克服する為の絶対条件だとも言う。例年チームの「残塁数」はリーグでも群を抜き日ハムの代名詞となっている。今季のチーム方針「何が何でもチームバッティング」が敢えてリーグナンバーワンのパワーヒッターと言われていたソレイタ選手を解雇してまでシュアな打撃をするブラント選手の加入に繋がった。「とにかく1点を確実に取る野球をしたい(植村監督)」の思いは強い。投手陣の指導は昨季同様引き続き自らが率先垂範で行なうという。「投手交代の時も僕が直接マウンドに行って指示するしブルペンにも顔を出す。もしもだらしない投球をしたらドヤシつけ即降板させます」と息巻く。そうした姿勢に早くも付けられた綽名は " 鬼 " だった。



岡本伊三美(近鉄)…岡本監督は今でもその夢を見るという。10年前、阪神のヘッドコーチをしていた昭和48年の巨人との熾烈な優勝争い。勝てば優勝という中日戦に敗れ、甲子園での巨人との直接対決も負けて巨人の九連覇を許した場面を。「あの試合に勝っていればプロ野球界の歴史は変わっていた。優勝していれば江夏や田淵も阪神を去る事は無かったかもしれない。改めて1勝、1点の大切さを思い知らされた」その思いが監督就任に際して " 1点を大事にする野球 " を掲げた。「たかが1点されど1点」リーグ最多の13引き分けだった今季の近鉄は1点を守れず、或いは1点を取る事が出来ずBクラスに沈んだ。岡本監督は球界では異例の1年契約を結んだ。その狙いは「この世界にはテスト生で入った。いつクビになるか分からず必死で練習した気持ちを忘れない為に1年契約を願い出た。選手諸君にもそうした危機感を持って練習して欲しい」と。

ギリギリに追い詰められる事で「1点」に対する執念が生まれると岡本監督は考えている。「昨年の選手達は正直言って野球に対する取り組み方が甘かったと思う。一日中野球の事を考えているような選手を一人でも多く作る事が自分の役目だと思う」と力を出し惜しみしている選手がいる事が我慢出来なかった。「テスト生は手を抜いていたら直ぐにクビになる。持てる力を全部出して練習しなければ生き残れなかった」という気持ちを全選手に植え付けたかったのである。更に1点を大事にする野球から派生するのが「全員野球」であり「ベンチにいる選手全員が試合に参加している意識を持って欲しい」と。岡本監督に課せられた使命は近鉄の新たな伝統を作る事。9回二死になっても諦めない執念、それを先輩から後輩へ継承していく事。現役時代は勝負強く " 見出しの岡本 " と呼ばれていた自分の姿をチーム作りに反映させようとしている。



稲尾和久(ロッテ)…「優勝するなんて大きな事は言えんがパ・リーグを面白くしてみせる。その為には西武イジメに徹する」と就任早々高らかに宣言した稲尾監督。単なる景気づけの打倒西武宣言ではなくちゃんと土台作りを着々と準備していた。先ず醍醐バッテリーコーチの招聘。醍醐コーチは引退後ずっとテレビ埼玉の野球解説者として西武をじっくり見続けて分析済み。「作戦や送りバントをする・しない、エンドランのサインを出すタイミングなど広岡監督や森コーチの癖はある程度分かりました」と醍醐コーチ。稲尾監督は早くも醍醐コーチの㊙メモを参考に西武の逆手を取る作戦を考案中だ。加えて投手担当には " ハッタリ野球 " が信条の佐藤道郎をコーチに抜擢した事も見逃せない。「俺は打者にぶつけても構わないから内角高目ゾーンぎりぎりに投げてこの世界を生き残ってきた。逃げ回って四球を連発するような奴はブッ飛ばす(佐藤コーチ)」と息巻く威勢のいい男の加入は大人しい投手陣に喝を入れる事間違いなしだ。

稲尾監督は醍醐コーチや佐藤コーチとのトロイカ体制でチーム防御率 5.12 の弱体投手陣を立て直し「今の戦力でも充分2位は狙える」と言ってのける裏には三宅投手との交換トレードで巨人から獲得した山本功の存在がある。昨季のロッテは西武の高橋直や松沼兄らのアンダースロー投手に弱かったが今季は山本の加入で対策はバッチリ。「リー、落合、山本のジグザグのクリーンアップを組める打線は西武にも見劣りしない。今季のロッテは台風の目になる(稲尾監督)」と意気込む。太平洋クラブ時代の稲尾監督は4位が2回、最下位が3回と惨憺たる結果に終わったが「自分にとって今回が監督を務める最後のチャンスだと思って全力でぶつかりたい」と誓いを新たにしていた。
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# 405 流浪の一匹狼

2015年12月16日 | 1984 年 



「江夏西武入り」・・強いチームを倒す事を生き甲斐にしてきた男がチャンピオンチームに加わる事となる。その感想を聞かれると「もう苦しむ事に疲れた」と。トレードを言い渡されて25日間、江夏は何を苦しみ悩み続けていたのか?一匹狼の胸の内は・・・


東京・六本木にある球団事務所で小島球団代表、大沢管理部長(前監督)との会談を終えた時点では「正式に西武との契約を済ませた訳ではないけど」と前置きしながらも「次が自分の最後の働き場になるだろう」「17年間の財産を森投手ら若手に伝授する」と意欲を見せた。広島から帰京した12月13日の羽田空港で報道陣から「西武入りが決まった」と聞かされ不快感を露わにしていた表情はもう無くサッパリとした顔つきだった。それは小島代表が一連の手順ミスを認め江夏に謝罪したからだった。「何度でも言うがトレードはもっとドライに行なうべき。何か悪い事をしているかのようにコソコソされるのは御免だ」と江夏は1ヶ月近くに及ぶ騒動に苦言を呈した。

「植村監督がいらないと言うなら仕方ない。それがこの世界の掟。ワシは日ハムに拾われて自分なりに恩返ししてきたつもりだがそれにしては余りにも冷たい」江夏放出を日ハムが決めてから25日間ずっと「これ以上晒し者にするのは勘弁してくれ」と江夏は言い続けていた。優勝請負人と呼ばれ抑え投手の記録を次々と塗り替えて800試合登板を記録した投手がまるで欠陥投手のように扱われる寂しさと悔しさで納会を欠席しようとも考えたがケジメをつける意味もあって出席した。その席で江夏は小島代表に「今回のようなやり方をしていたら球団が世間から笑われますよ」と忠告した。広島から日ハムに移籍する際には大沢監督(当時)と広島の球団フロントが水面下で交渉を続けて江夏のプライドを傷つける事なくトレードを成立させた。

ところが今回はどうだ。日ハムはどの球団とも根回しをせず江夏が言う " 晒し者 " にしたまま放置してきた。いきなり「江夏はどうですか?」と言われて「ハイ、そうですか」と応じる球団がある筈がない。年俸や交換選手の問題もあり簡単に手を挙げるとは考えられない。江夏にしてみれば自他共に認めるセーブ王のプライドを傷つける行為に映った。その怒りが頂点に達したのが12月13日の出来事だった。広島時代に知り合った友人と愉快な時間を過ごし帰京した羽田空港で報道陣から西武へのトレードが球団から発表された事を知らされた。確かに広島市内のホテルに大沢管理部長から「西武に絞って交渉中である」との連絡はあった。だが正式発表は自分が東京へ戻ってからだと思っていた。

先ずは今回のトレードの経緯の説明があって然るべきで次に来季の契約更改を済ませてから正式に発表するものと考えていた。野球協約上は来季の契約更改は新旧どちらの球団で行なっても構わないとされているが旧球団で更改を済ませるのが球界の慣例とされてきた。ところが日ハムは自分が飛行機で雲の上を飛んでいる最中に一方的にトレードを発表し来季の年俸は「どうぞあちらで」と言わんばかり。これが3年間チームに尽してきた選手に対する扱いかと思うとハラワタが煮えくり返った。「犬や猫じゃあるまいしポ~ンと放り出されたみたいじゃないか。俺だって血も涙もある人間なんだぜ」とポツリ。

一連の騒動の中で江夏自身は筋を通してきたと自覚している。それは「自分の身柄は大沢前監督に一任する」という約束を守ってきたからだ。江夏は自分を拾ってくれた大沢管理部長を「恩人」として立ててきた(ちなみに江夏は今でも " 前監督 " と呼んでいる)。江夏には人情を大事にする一徹な所があり、こうと決めたら方針を貫く。今回もそうだった。江夏は球界内に様々なツテを持っており自分に有利な方向に動こうと思えば動ける強力な人脈がありながらしなかった。大沢管理部長に一任した以上、自分が動き回れば大沢管理部長を裏切る事になるからだ。自分は約束を守り筋を通しているのに球団は次から次へと江夏のプライドを傷つけるような言動に出る。それが許せなかった。

江夏にはグラウンド以外でも日ハムに貢献してきた自負がある。入団して初めての選手会に参加した時の事、球団に対する要望書を各自が書いていたが殆どの選手が「ユニフォームをもう1着作って欲しい」と記していたのを見て驚いた。当時の日ハムでは試合用と練習用のそれぞれ1着しか支給されていなかったのだ。オールスター戦に出場した選手は他球団の選手が着ている綺麗なユニフォームと自分の継ぎ接ぎだらけのそれを見比べて恥ずかしい思いをしていた。選手会長の柏原選手に意見を求められた江夏は「今の時代はノンプロのチームだって2~3着は持っている。プロ球団が今頃そんな事を言ってるなんて考えられん。それは要求以前の問題」と切り捨て選手会として球団と直談判するよう提言した。

これを機に江夏は球団に対して「いいチーム」「強いチーム」になる為にズバズバと進言し続けた。「だから球団から見るとうるさい野郎と煙たがられる存在だったかもしれん(江夏)」と苦笑いする。しかし、まがりなりにも日ハムはプロ球団に相応しくなり初のリーグ優勝を果たす事が出来た。微力ながらも球団に貢献出来たとの思いをフロント陣に踏みにじられたという無念さを感じるのだ。当初、球団は交換選手が豊富な巨人とトレードしようとしていたフシがある。しかし巨人側が江夏獲りに乗り気でなく話が進展しないと判断すると後は手当たり次第に各球団に交換トレードを打診した。取り敢えず江夏を放出したいとの思いからだった。

江夏を同じリーグの西武に放出するのを最後まで渋った日ハムだったがセ・リーグで交換トレードに応じる球団はなく西武入りが決まった。複数のセ・リーグ球団から「金銭トレードで」との申し込みはあったが大沢管理部長が「金銭では江夏に失礼」と断っていた。ただでさえ豊富な西武投手陣に更に強力ストッパーが加わる事となり「これで来季のパ・リーグの灯は消えたも同然」と指摘する評論家も現れた。今後の注目は広岡監督との関係である。広岡監督は「ウチに来る以上、ウチのやり方に従ってもらう。それが嫌なら辞めてもらって結構」と早くも牽制球を投じる一方で「ワンポイントで1試合1球でもいい。その1球を投げるのにどう考え選択したのかを若い投手達に教えてもらえればいい」とシビアな歓迎の弁も。対する江夏は「自分なりの調整法がある。それは広岡監督とじっくり話し合えば解決できる」と。今後の2人から目が離せない。
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