◆停電事件(昭和44年7月22日・平和台球場)…3対1で迎えた9回表二死から王が起死回生の2ランを放ち同点となり延長戦へ。13回表に高田(巨人)の右中間二塁打で1点を入れ、続く王が打席に入った時に「ボンッ」という鈍い音と共に球場の照明が一斉に消えた。消えたのは照明だけでなく、球場全体の電気系統がダウンした為に売店なども含めて真っ暗闇に。当初は運営委も楽観視していたが10分が経ち20分が過ぎても点灯する気配が無くようやく慌て始めた。「ヤバイ」運営委が真っ先に心配したのはスタンドのファンの動向だった。博多っ子ファンの気の短さには定評があってライオンズ史におけるトラブルの陰には少なからずファンの存在があったからだ。
場内マイクが駄目ならとハンドマイクを持って球場内を説明して回る事になったが悪い事は重なるものでこちらも故障で使えない。そうこうしている内に痺れを切らしたファン数名がグラウンドへ降り始めたのだ。両軍ベンチへ向かって選手達にサインの強要である。幸いな事に真っ暗であった為に多くのファンには気付かれる事はなく追随するファンも出ず混乱は避けられた。選手達も逃げようにもベンチ裏は、さらに暗闇であった為にベンチ内から動けずサイン攻めに応じざるを得なかった。「打ち切って没収試合にしてしまおうか」「いや、セ・リーグがリードしたまま打ち切ったら博多のファンが騒ぎ出して大混乱に成りかねない」 "小田原評定" が延々と繰り返されたが結論は出ずにスタンドのイライラもピークに差し掛かった50分過ぎにやっと電気系統が復旧した。
試合は再開され13回裏に阪本(阪急)の同点打で目出度く午後11時半、引き分けで博多っ子も満足して帰宅の途についた。そもそもこの試合はこんなに縺れずに終わっていた筈だった。パの4番手で登板した成田文男(ロッテ)は快調に7・8回を抑え、9回も続投する予定だったが8回裏に登板した金田(巨人)を見て西本監督のサービス心が動き9回は金田留広(東映)を登板させ兄弟対決を演出しようとした。だがこれが裏目となって王に同点2ランを浴びて延長戦に突入したのだ。「あのまま成田が投げてれば今頃は中洲で美味い酒を飲めてたろうに・・・」 暗闇で西本監督を見つめる選手達の視線は冷たかった。
◆組織票事件(昭和53年・日ハム)…この件の詳細は 1978年7月31日号 を参照して下さい。
◆コーチ辞退事件(昭和39年・大洋)…大洋・三原監督が病気を理由にコーチとしての出場を辞退した。しかし、選手や球団関係者から「監督が病気だって !?」「元気そうに動き回っているのは双子の弟か?」などと冷やかされるくらい本人はピンピンしていた。後に別所ヘッドコーチの暴露で事の真相が明らかになった。「監督はハナから出たくないの一点張り。監督に出てもらわないとウチの選手がやり難くて困る選手を無茶な使い方されても知りませんよ、と説得しても嫌だと言って首を縦に振らない。何で嫌なのか尋ねると『俺がテツの下でコーチなんぞやれるか!』ですと。もうダダをこねる子供ですよ」と苦笑い。
要するに川上監督より下の立場が気に入らないという事で結局出場を辞退してしまった。ただ川上監督もしたたかで、この年は移動日無しで3試合を行なう強行日程だったが3戦全てに大洋の投手が登板した。これが尾を引いたのか大洋は球宴まで2位阪神に6.5ゲーム差をつけていたが後半戦はアッサリ引っくり返されて優勝を阪神に許す醜態を演じてしまう。監督の我が儘の代償は余りにも大きかったのである。