【球宴史上唯一の代打逆転サヨナラ本塁打】…阪急・高井保弘が放った代打本塁打26本は世界記録だ。そんな代打屋家業の男に球宴という桧舞台が巡ってきたのは昭和49年の第1戦(後楽園)9回裏・無死一塁の場面で代打に指名された。セの松岡(ヤクルト)は絶好調でパの打者は皆、振り遅れていた。0-1からの2球目「あれはスピンの効いた最高のストレート(松岡)」と振り返った快速球が内角低目を突いた。しかし高井は90㌔の巨体を柔らかく回転させると易々とこの球を掬い上げた。打球は綺麗な放物線を描き左中間スタンドに飛び込んだ。実は高井は球宴初出場に新人の様に緊張していて「俺みたいな日陰者がONや野村さんらと同じ舞台でプレーするなんて」と最高潮の緊張で臨んだ第1戦は雨で中止に。出鼻をくじかれた事が逆に高井の緊張を解いてくれたのだった。夢見心地でベースを一周し生還する高井を世界記録達成の御褒美で推薦してくれた全パ・野村監督が笑顔で迎えた。
【野球界初のガッツポーズ?】…今でも高校野球や大学野球においてガッツポーズは非紳士的行為として心証が良くないがプロ野球では頻繁に見られる光景。そんなガッツポーズの出現は意外と新しい。戦前の藤村(阪神)が本塁打を放ちベース一周する際に帽子を取って腕をグルグル回す光景は目にしたがガッツポーズを見た事はなかった。昭和31年7月3日・後楽園での第1戦。佃明忠(毎日)は捕手部門で初めてファン投票1位で球宴出場を果たした。8回裏、左中間に本塁打を打ち込んでベースを一周する間に4度もバンザイをした。右手で帽子を掴み何度も飛び上がりホームインした後もベンチ前で再びバンザイをした。この光景を目にしたNHKの志村正順アナウンサーは「佃選手は大変な喜びようです。両手を揚げ何度も何度も飛び跳ねています。そうです、これはバンザイホームランと名付けましょう」と絶叫した。新聞記者も「志村さん、そのフレーズ頂き」と飛びつき原稿を送ったが各社のデスクの反応はおしなべて「ウ~ン…」と悪かった。バンザイは戦時中の「バンザイ突撃」を連想させるからと却下されたのだ。終戦からまだ10年しか経っておらず戦争の傷跡はまだ消えていなかったのである。これといった成績は残さなかった佃だがこの一発で「元祖・ガッツポーズ男」として後世に銘記される事となった。
【勝ち星の荒稼ぎ】…昭和52年7月23日・26日の2試合で新人の梶間(ヤクルト)が2勝をあげる活躍を見せた。同じ投手が2勝するのも稀だが要した球数が僅か17球だったのも珍しい。第1戦6回裏、無死一塁で加藤(阪急)を迎えると全セ・長嶋監督は鈴木康(ヤクルト)を代えて梶間を起用した。加藤、門田(南海)と左打者が続くので左腕の安田(ヤクルト)の出番という大方の予想に反して長嶋監督は梶間を選択した。加藤、門田、島谷(阪急)を15球でいずれも外野フライに打ち取り涼しい顔でマウンドを降りた。試合は7回表にセが先制し勝利した事で梶間に球宴初勝利が転がり込んだ。第3戦では2対2の同点の5回表二死の場面に登板すると2球で打ち取った。その裏に若松(ヤクルト)の犠飛で勝ち越して逃げ切り勝ち投手は梶間で前代未聞の2勝の新人勝利投手が誕生した。これで運を使い果たしたのか後半戦に入ると1勝しか出来ず、斉藤明(大洋)に新人王をさらわれてしまった。
【球宴で活躍した助っ人】…過去30回の球宴に打者は41人、投手は5人が出場しMVPにも輝いた選手もいる。マーシャル(中日)は昭和38,39年と2年連続、スペンサー(南海)はペナントレース以上にハッスルし昭和40年にそれぞれMVPを獲得した。投手ではミケンズ(近鉄)とスタンカ(南海)が目立つ。ミケンズは通算3試合、8回1/3を無失点。昭和35年の第3戦では外人として初勝利投手になっている。スタンカは2試合、6回を1失点。昭和39年の第3戦でMVPになっている。過去の外人選手で最も強烈な印象を残したのはギャレット(広島)だろう。昭和53年の第1戦で、高橋直(日ハム)・藤田(南海)・柳田(近鉄)から3本塁打しMVPになっている。現役選手ではリー(ロッテ)が打率.350、4本塁打、6打点の好成績を残していて、特に本塁打・打点は歴代外人選手中トップである。