昭和44年の暮れから球界を襲った " 黒い霧事件 " で多くの選手らが追放処分され、他人事ながら「馬鹿な事をするもんや」と思っていた。年が明け新たなシーズンが始まっても火種は燻り続けていた。この年は初めての開幕投手を務めたが4月は肘の状態が思わしくなく調子が上がり始めたのは5月に入ってからだった。あれは6月中旬の事、いつも親しくしていた大阪の新聞記者が「球場前の喫茶店で待ってるからちょっと話を聞かせて欲しい」と言ってきた。日頃から冗談を言い合っている仲でもあり何の疑いもなく会った。「去年、Aさんから時計を貰ったやろ?」と聞かれ「ああ。それがどないした?」ファンから三振奪取記録(昭和44年)のお祝いに貰ったもので何らやましい事は無かったから素直に答えた。これが生涯忘れられない屈辱を味わうきっかけだった。翌日の新聞の見出しは『江夏に黒い交際。暴力団から時計を貰う』だった。記事を読み進むうちに怒りがこみ上げてきた。まるでワシが時計を貰って八百長をしたかのような内容だった。
Aさんと初めて会ったのは姫路でのオープン戦の最中だった。阪神の先輩選手に連れられて食事に行った店で紹介された。先輩らとは顔馴染みだったがワシはAさんの人となりは全く知らず単なるファンの一人だと思った。「三振記録おめでとう」と言うと自分の腕に巻いていた時計を外して「お祝いや、とっておいてくれ」と渡された。自分のファンに『おめでとう』と言われソッポを向くのも失礼かと思い受け取った。正直言ってファンから貰う花束や折り鶴を貰う感覚だった。そのAさんが野球賭博を資金源にしている暴力団員でその人から時計を貰った江夏は八百長をしている、と周りが騒ぎ始めた。「天地神明に誓って八百長などしていない」と叫んでみても誰も取り合ってくれない。そのうちに怒りが悲しみに変わっていく。Aさんを知っている選手は他にも大勢いるのに知らん顔。親しくしていた記者連中も手の平を返すように傍に寄って来ない。この時ワシは22歳。「人間は信用出来ない」という思いに包まれるようになった。
警察とリーグ関係者が調べた結果「江夏はシロ」という結論が出た。当たり前の事だ。何をどう調べたって八百長なんてやってないのだから。そもそもAさんは暴力団員ではない。3人兄弟の末っ子で長兄が暴力団関係者というだけなのだ。しかしワシの傷ついた心は回復しなかった。無実の人間をあたかも犯罪者かのように仕立て上げておいて「あ、違ったの?」で済まされては堪らない。しかも追い討ちをかけるように球団から「世間を騒がせたから10日間の謹慎」を言い渡され怒りは頂点に達した。 " 騒がせた " のは一体どっちや!ワシは最初からやましい事は何も無いと言い続けていたではないか。 " ない " ものを " ある " と言って騒いでいたのはどこのどいつだ。ワシを喫茶店に呼び出し記事にした記者はその後ワシの傍に来る事はなくなった。球場で遠くから見ている事はあっても決して目を合わせる事はなかった。卑怯な奴や、ワシが人間嫌いになったのはそれからである。
怒りはピッチングに乗り移った。こうなったら肩や肘が壊れようがどうでもいい、と怒りを球に込めて半ばヤケになって投げ続けた。謹慎空けの登板でプロ入り通算1千奪三振を達成。940 イニングでの達成は日本記録だった。甲子園での巨人戦で延長11回を1安打に抑え長嶋さんから3三振を奪って完封したり、村山さんが9回に走者を溜めてONを迎える場面に登板し打ち取ったり投げまくった。鬼になっていた。心が破裂しそうだったが悔しさと悲しみを打者にぶつけていた。中2日、1日で投げた事もあった。巨人戦では連投して連勝もした。今のように短いイニングのリリーフではなく先発して完投した翌日にピンチに登板しそのまま4~5回を投げきった。結果この年は 337 回 2/3 投げた。今年の最多登板は山内孝投手(南海)の 242回だった事と比較すれば如何に常軌を逸した登板だったかが分かる。
しかし本格的な夏が訪れる頃になると身体がとうとう悲鳴を上げる。マウンド上で急に血の気が引いてふらつき息苦しくなる。暫くジッとして深呼吸をすると治ったので深刻な病気だとは考えず投げ続けた。9月末の中日戦、2回に高木守道さんに内野安打を許しただけで0点に抑えていた。この頃の阪神はとにかく打てなかった。この日も両チーム無得点のまま延長戦へ突入した。3回以降は一人の走者も出さず延長13回、一死を取った所で目まいがしてマウンド上で蹲った。顔面蒼白となり冷や汗まみれの顔を見た村山監督は「無理だ、交代しろ」と命じたが「少し休めば大丈夫」と続投を志願し後続を抑えた。試合は延長14回へ。流石に限界だった。木俣さんに左翼席へ運ばれ負けた。10月になり 0.5ゲーム差で迎えた首位・巨人との " 甲子園決戦 " でワシは初戦に先発したがKO。中1日で再び先発した後で遂にドクターストップがかかった。医者曰く「いつ心臓が破裂してもおかしくない」と。今、振り返っても嫌な思いしかない年だった。