なんとか投・3本柱で戦い抜いたが
エース級4人を除けば僅かに6勝
来季に向けて投手コーチ陣を刷新した。伸び悩む若手投手に業を煮やした球団が大ナタを振るったのだ。梶本コーチはフロント入りし後任には植村元日ハム監督が一軍投手コーチに就任。足立二軍コーチは退団し近鉄に移籍。昭和50年以降、阪急がドラフト会議で1位に指名した選手は全て投手(昭和50年・住友、55年・川村は入団拒否)というのに多くが育って来ない。昭和51年の佐藤投手、同56年の山沖投手ら大学出身投手は戦力になったが昭和57年の榎田投手ら高卒投手は一向に芽が出ない。その結果、今季の阪急は64勝のうち山田投手、今井投手、佐藤、山沖の4人で58勝とベテラン頼りが鮮明となった。4月18日から10月12日にかけてこの4人以外で勝ったのは7月29日の星野投手ただ一人というのは驚きだ。
打撃専門のDHが打率2割そこそことは
指名打者の人材不足も優勝を逃した一つの原因である。昭和58年には広島から移籍して来た水谷選手がDHで打率.291・34本塁打と活躍したが、翌58年の開幕戦でロッテの土屋投手に左側頭部に死球を受け長期に渡り欠場。今季は新外人のヒックス選手を起用したが打率.212 と期待に応えられなかった。球団別指名打者の成績はトップの日ハムと2位のロッテが共に打率3割以上、30本塁打前後であるのに対し阪急は本塁打は30本と遜色ないが打率が2割2分5厘。この打率は5位だった南海の2割6分3厘より4分近く低い数字だった。
" 足攻の阪急 " の伝統を守った松永らの足
阪急伝統の足技は今季も健在だった。松永選手は38盗塁で盗塁王。以下、弓岡選手28、福本選手23、岩本選手21など走る選手には事欠かなかった。チーム全体でも156盗塁は断トツの1位だった。また弓岡は46犠打とプロ野球歴代3位の記録を樹立した。これだけの犠牲バントをしながら空振りやファールを除いた失敗は8月16日の西武戦、1回表無死一塁の場面でバントが投手前の小フライになった一度だけで、成功率は驚異の9割7分9厘だった。
番記者が選ぶベストゲーム
7月2日、対西武12回戦(西武)。西武に大差をつけられ4位に甘んじた阪急だが、たった一度だけ強い西武を追い詰めた試合がこの日の一戦だった。6月の中盤から後半にかけて13勝2敗のハイペースで西武とのゲーム差を「6」にまで縮めての試合は郭投手と佐藤投手が先発して始まった。6月中の勢いのまま阪急が3回までに5点をあげ郭をKO。藤田選手が、松永選手が、ブーマー選手がそしてヒックス選手までもが一発を放ち10対0で勝利し、5ゲーム差とした。しかしその後は勢いは続かず優勝を逃した。
2つの" ユルフン事件 " に象徴される今季のダメ勇者ぶり
シーズン前後半を通じて二度の出来事を見れば今季の気の緩み具合が分かる。ひとつは5月21日の西武戦におけるブーマー選手。別に怠慢プレーをした訳ではない。この試合のブーマーは本来の背番号「44」ではなく「12」のユニフォーム姿でプレーをした。前夜、西宮でのナイターを終えると翌日に所沢に移動した。その際にブーマーは荷物にビジター用のユニフォームを入れ忘れ、球場に到着してから気がつくというお粗末ぶり。当初は巨漢のヒックス選手のユニフォームを拝借しようとしたが横幅は余り、縦は寸足らずとサイズが合わず断念。仕方なく身長が10cm低い山沖投手のユニフォームを借りて事なきを得た。
このような時は相手側の了承が得られれば問題なく出場する事は出来るが、やはりプロとして恥ずべき事態である。山沖はこの日は登板予定が無く、いわゆる「アガリ」だったから良かったものの、当のブーマーは「自分の背中は見えないけど、やっぱり変な気分」といつもと違う状況が影響したのかこの日は1安打に終わり試合も2対5で敗れた。来日3年目の今季は打率こそ3割をマークしたが上田監督曰く「集中力を欠いて、ここ一番という場面で期待に応えていない」と苦言を呈した。1年目の年俸(2千5百万円)が今では3倍以上になり周囲からは慢心や気の緩みを危惧されていたが、不安が的中してしまった。
もうひとつは9月1日の南海戦、この試合は西宮球場でのデーゲーム。何と同球場の売り物であったスコアボートのアストロビジョンが故障してしまい使用出来ないという珍事が。昭和57年に総工費10億円をかけて完成した自慢の設備だったのだが、選手の名前や得点、更にはボールカウントまでもが表示されず草野球のようだった。そのせいではないだろうが7回裏には二塁走者の松永選手がアウトカウントを勘違いして刺殺された。「ベンチにいてもいちいちスコアラーにボールカウントを確認したり妙な感じだった」と上田監督も渋い顔。試合もエース・山田投手が打たれて逆転負け。「投手はスコアボートに『0』が並ぶのを励みに頑張るものなのに、何か気が抜けちゃって…」と山田も意気消沈だった。