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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 740 記録の意外史 ①

2022年05月18日 | 1977 年 



滅私奉公でMVP
日米交流が盛んになった戦後のプロ野球に来日した外人選手は多いが、プロ野球界で最高の名誉であるMVP(最優秀選手)に選ばれた " 青い眼の助っ人 " は後にも先にも昭和39年のジョー・スタンカ投手(南海)ただ一人である(日系2世では与那嶺選手が昭和32年に受賞している)。この年は同じ南海の広瀬選手も打率 .366 で首位打者になっていたが、3名連記制度のMVP投票でスタンカへの1位票が圧倒的であった。総投票数140票のうちスタンカを1位とするのが101票もあった。スタンカ抜きでは考えられなかった南海の優勝だったのである。

首位を走る阪急との8月4日からの直接対決3連戦に南海は初戦にスタンカを起用して勝利しゲーム差なしに追いついた。翌5日も勝利した南海が1厘差で首位に立った。すると6日の3戦目に休養1日のスタンカを先発させて3連勝して、そのまま最後まで首位を譲ることなく優勝した。とかく利己主義的な振る舞いが目立つ外人選手だが、この年のスタンカは日本人的感覚の " 滅私奉公 " に徹していた。だからこそプロ野球記者会の圧倒的支持を得てMVPに選出されたのである。

セ・リーグを制した阪神との昭和39年の日本シリーズでは第6戦に先発したスタンカは被安打2で完封勝利して対戦成績を3勝3敗のタイに持ち込んだ。しかも翌日の第7戦にもスタンカは先発してまたしても被安打5で完封勝利して南海を日本一に導いた。2日連続の完封勝利は日本シリーズ史上でスタンカが唯一である。第1戦にも完封勝利しているスタンカは「1シリーズ・3完封勝利」という離れ業を演じ南海の日本一に貢献したのである。


4回退場の大記録?
スタンカはまた外人選手の退場記録の持ち主でもある。合計四度の退場処分を受けているが、そのうち二度は選手同士の乱闘がきっかけというのは珍しい。昭和39年9月3日の対近鉄戦ではスタンカの投球がチャック選手の頭部をかすめたことから2人が取っ組み合いを演じ2人とも退場になった。当時のスタンカは他球団の外人選手への対抗意識が強く打たれるのを嫌っていた。事実、対戦成績は打撃10傑・7位のブルーム選手(近鉄)を打率 .190 に抑え込み、スペンサー選手(阪急)も打率 .200 。パ・リーグに在籍していた外人選手に対して184打数39安打・打率 .212 に抑えた。

外人投手最多勝記録
熱血漢も家に帰れば一人の子煩悩なパパだった。それだけに昭和40年末に愛児をガス中毒で亡くすと精神的に落ち込んで引退宣言をして早々に帰国してしまった。翌年に大洋から入団要請があり再来日をしたが6勝に終わった。5月24日の阪神戦では6回二死までノーヒットピッチングをしていたが、2者連続で四球を出したところで交代を命じられた。リリーフした投手がボークを犯したり野手の失策が重なって2失点。スタンカは被安打ゼロながら敗戦投手になる珍記録。

9月27日の巨人戦で7回まで投げて勝利投手になり通算100勝を達成した。この勝利が日本における最後の勝ち星となった。外人投手の通算100勝は初めての記録で、昭和43年にバッキー投手(阪神)に追いつかれたがバッキーも100勝目が最後で記録更新とはならなかった。日本における外人投手最多勝記録は未だにスタンカとバッキーの100勝のままだ。

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