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石井 毅(西武)…右に小野、左にはドラ1の野口の大柄投手に挟まれても172cm,70kg の小柄な石井は2人に負けないくらい活きの良い球を投げている。サイドスローから直球、カーブ、スライダー、シュート、シンカーを丁寧にコーナーに投げ分ける。「う~ん、小林(阪神)に似ているフォームだね。特に足の上げ方がソックリ」と見つめる八木沢投手コーチ。時折、クイックでズバッと速球を投げ込むかと思えば小林のように左足をゆっくり上げてタメを作りバックスイングで「くの字」に上半身を畳みホップする直球も投げるマウンド上の姿は実際よりも大きく見える。
「住金に入って1年目の夏場に調子を崩したんです。何をやってもダメで落ち込んでいた時にテレビで小林投手を見てピンと来て左足のタイミングの取り方を変えたらガラリと復調したんです」 参考にした小林投手と同じく社会人経由でエースに登りつめる覚悟だ。高校時代は箕島高のエースとして春夏連覇。社会人野球では昨夏の都市対抗大会で優勝し橋戸賞を手にした輝かしい経歴は今年の新人では他を寄せ付けない。安定して大崩しない投球は「完成品。即戦力です」と八木沢投手コーチも既に一軍切符を与えている。
2月6日にはフリー打撃ながら初めてプロの打者と対決した。相手は片平。昭和54年には3割打った事もある打者相手にホップする球と沈むシンカーで40打数8安打と翻弄した。内野ゴロと詰まった飛球が多く、柵越えはゼロだった。「エエ球を放りよる。好調時の仁科(ロッテ)のようだ」とベテラン打者も舌を巻いた。「西武には松沼兄さん、高橋直さん、小林さんと手本となる下手投げの先輩が多いですが負けるつもりはありません。一軍で10勝して新人王を狙います」と色黒の顔からは負けん気がほとばしる。小学生の時には「1等賞」、高校の時は「全国制覇」、社会人でも「日本一」を周囲に高らかに宣言して実現させた。プロでも有言実行となるか注目である。 【 8勝4敗4S 防御率 3.63 】
黒田真二・中本茂樹(ヤクルト)…荒木人気の陰に隠れているが首脳陣の間で確実に評価が高まって来ているのが黒田と中本の社会人出身の2人だ。黒田は昭和51年のセンバツ大会で広島・崇徳高校のエースとして全国制覇、その年の夏の甲子園大会では3回戦で怪物・酒井投手擁する長崎海星高に0対1で惜敗したもののドラフト会議で日ハムから1位指名される程の逸材だった。プロ入りはせず日本鋼管福山に就職し、更なる飛躍を期待されたが心臓病や気管支炎などを発症して入退院を繰り返し結局、昭和53年の春に退職した。
一旦は野球を諦めたが「もう一度マウンドに上りたい」と同年秋にリッカーに入社し復活を期す事となった。病み上がりの身体をイチから鍛え直して4年間で35勝をあげ、「社会人野球の顔」と評される存在にまで復活した。既に結婚し二女をもうけているだけに自分の夢だけを追う訳にもいかず幾つかのプロ球団から高い評価を受けていたがプロ入りに踏み込めずにいた。そうした事情を考慮して今回のドラフト会議でも指名する球団は無かったがヤクルトがドラフト外での入団を打診すると一念発起で遂にプロ入りを決意した。
二人一組の練習では荒木とペアを組む事が多く何かと比較されるが「荒木よりしっかりしてる?そりゃそうでしょ、6年間もサラリーマンで飯を喰ってきましたから。親子4人の生活がかかってますから必死です」 キレの良い速球に抜群の制球力は文句なしの即戦力。"人気の荒木・実力の黒田" のキャッチフレーズ通りの動きに武上監督も「先発ローテーション入りを計算している」と期待を寄せている。 【 0勝7敗2S 防御率 5.07 】
そして中本は四国の名門・徳島商から同志社大を通じてずっとエースの座を保ち大学3年生の時には明治神宮野球大会で優勝し大学選抜にも選ばれ、また日本生命入社後には全日本社会人にも選出されるなど黒田とは対照的に陽の当たる道を歩んで来た。年齢は黒田より1歳上とあって中本の覚悟も強く「歳を喰ってますから最初から一軍でバリバリ働かないとプロ入りした意味が無い。新人王を狙っています」と負けていない。
契約金のうちから100万円を友達との飲み代に一気に使った豪傑の武器はブレーキの効いたカーブ。100 m を11秒05 で走れるバネの効いた強靭な肉体は先輩選手らの中にいても目立つ。武上監督は中本を中継ぎで起用する腹づもりだ。「現代の野球は先発以上に中継ぎ・抑えの重要性が高い。試合を左右する中継ぎには中本のような試合を壊さないタイプが適任」と黒田以上の期待をかける。
ドラフト外でこの2人のヤクルト入りが決まった時には他球団のスカウト連中が「してやられた。荒木や新谷(入団拒否)より、こちらの方が真の1位&2位だ」と歯ぎしりしたのは有名な話だ。2人の実力を既に認めている首脳陣は投内連携練習では松岡や梶間といったエースと同じ組に入れている。見逃せないのは2人の加入で中堅・主力クラスが刺激を受けてチーム内に競争意識が芽生えて来た事。仲良しグループでぬるま湯的だったチームに変化が現れ始めている。即戦力はかく有りたい、という見本のような黒田や中本の加入がヤクルトを変えつつある。
【 21勝26敗33S 防御率 3.94 】
鹿島 忠・市村則紀(中日)…1月11日、ナゴヤ球場で始まった若手中心の自主トレ。しかし「若手」とは名ばかりで谷沢を筆頭に田尾や中尾も参加した。選手会の公用で初日こそ不参加だった三沢も2日目から合流して早くも全員が揃った。これまでの中日と言えば1月のこの時期はまだ御屠蘇気分が残り主力選手が身体を動かす事は皆無に等しかった。皆をその気にさせる要因は「連覇」である。過去2度の優勝、昭和29年・49年の翌年はいずれも下位に低迷している。それだけに「今度こそ連覇を」との意気込みの他に、鹿島と市村両投手の加入によるチーム内の競争意識の増大がある。鹿児島実業~鹿児島鉄道局を経てドラフト1位で中日入りした鹿島、片や30歳というドラフト史上最高齢で3位入団の市村。いずれも連覇の為に補強された即戦力だけにチーム内に与えたインパクトは強烈。実際に2人は自主トレ初日から飛ばしに飛ばしてつられるように他の選手たちの正月ムードは払拭され一気にピリピリとした雰囲気に包まれた。
鹿島は昭和53・54年の夏の甲子園に出場したが、いずれも初戦敗退。今は同僚となった牛島の雄姿をスタンドから眺める悔しさを味わい「プロでは先輩だけど絶対に負けたくない」と闘志を剥き出しにする。鹿島にはプロでの成功には不可欠と言われている根性とハングリー精神に関しても筋金入りの過去がある。父親・忠行さんは仕事で建築現場を転々とする間でも鹿島をプロ野球選手にする為のスパルタ教育を欠かさなかった。なんと鹿島は幼稚園児だった頃から毎朝自宅周辺のランニングやウサギ跳びのノルマを課せられ、やり終えないと食事を与えないマンガ『巨人の星』の星一徹ばりの親父に鍛えられた。「何をしているのか分からなかった。ただ朝御飯を食べたい一心で走り続けた」と鹿島は述懐する。建築現場を転々とする生活は決して豊かではなかった。「甘い事は言っていられない。今すぐ働いて稼がないと何の為にプロ入りしたか分からない」父親からのノルマからは解放されたが今度は1年目からのベンチ入りという新たなノルマが課せられる。 【 36勝28敗14S 防御率 3.95 】
もう1人、30歳というハンデを乗り越えてプロの道を選んだ市村の場合は鹿島以上に切実かもしれない。早い話、電電関東時代は家賃5千円の社宅住まいだったが名古屋での部屋探しで厳しい現実に直面する。安い家賃の所を探したが中々見つからず、年が明けて自主トレ目前になってようやく公団住宅の部屋を借りる事が出来た。それでも家賃は社宅時代の15倍の7万5千円と懐には厳しい。確かにプロは大金を稼げるチャンスを与えてくれるが恵子夫人と2人の娘を抱えた子連れルーキーには安定したサラリーマン生活を捨ててのプロ入りは掛け値なしの人生最大の挑戦なのだ。「女房もプロ入りに賛成くれたし思いきって勝負できる。歳は喰ってますけど身体年齢は24歳ですよ」と胸を張る。
【 5勝2敗1S 防御率 3.95 】