
過度の一般化は危険だということは承知の上で、ちょっとだけ気になったことを書いておく。
筆者が twitter にけっこうはまっていることはすでに何度も書いており、フォローしている人の数は2千人近くに上っている。
2千のうち、今も全員がコンスタントにつぶやいてわけではないだろうが、それにしても、全部のつぶやきを読むことはとうてい不可能だ。これは、新聞を全部読む人がいないのと同じことだ。
したがって、道内のアート関係者、道外のアート関係者など、「リスト」を別に作って、そちらでつぶやきを追って、読んでいることが多い。
(どちらのリストにも200人以上を入れている)
15日(日本時間は16日未明)、米国で行われたボストンマラソンのゴール地点で爆発があり、3人が死亡するというニュースがあった。
その日、道外のアート関係者のリストでは、この事件に関するつぶやきが過半数を占めた。
ところが、道内の美術関係者のリストは、身辺雑記的なツイートが、いつもと同じように続き、ボストン爆発関連のつぶやきはほぼ皆無だったのだ。
驚くほど鮮やかな対比であった。
この一事をもって「北海道の美術関係者は社会や世界の動きに無関心である」と決めつけるつもりはない。
たまたま筆者が捕捉している関係者のツイッターで、そういう傾向が出たということに過ぎないからだ。筆者がリストに入れていない関係者(美術家、美術館など)は、とくに道外のほうは、多いだろう。
また、ツイッターで発言しないからといって、社会的な関心がないと決めつけるわけにも行かない。作品やフェイスブック、ブログなどとツイッターを分けて、後者では日常の雑事をつぶやくことにしている人もいるかもしれない。
さらに言えば、ダマスカスやガザで何人殺されようとベタ記事にしかならないのに、3人死んでこれだけの大きな扱いをする日本の新聞(とくに、横凸版カットででかでかと報じた読売)には、大きな疑問を抱かざるを得なかったことも、附記しておきたい。
それにしても…。
これでいいのかよ、とは、やっぱり思ってしまうのだ。