
(長文です)
3月から4月にかけて、現代の絵画について考えさせられる3人展が二つ開かれた。
札幌の関係者なら必見であったと思うので、遅くなったが、ここで紹介したい。
ひとつは、末次弘明、林亨、大井敏恭の3氏が出品した展覧会で、正式名称は
北翔大学北方圏学術情報センタープロジェクト研究美術グループ研究報告作品展 Caustics :メディウムが光と出会うとき
もうひとつは、井桁雅臣、大古瀬和美、平向功一の3氏により、茶廊法邑で開かれた「Re-crossing それぞれの生きること、描くこと。」展である。
「Caustics」は、「絵画の場合」展に参画した塚崎美歩さんがキュレーティングを行っている。
展覧会に出品された絵画作品もさることながら、筆者には、3月28日に行われた「対話による鑑賞ワークショップ―みる人がアートを作る」が、とても興味深く感じられた。
ワークショップといっても、絵を前に参加者が自由に感想を語り合うという、じつにシンプルなもの。
ところが、それが非常に奥深く、絵というのはどのように見てもまったくさしつかえなく、自由なのだ、ということを、あらためて認識させられた。
ファシリテーター(進行役)の山崎正明さんは、どんな発言が出ても
「それはおもしろいですね」
と賛嘆し、つぎの発言を促す。
けっして、一部の小学校の教師のように、子供が自らの授業プランに沿わない発言をした場合にあっさり口にする
「そうだね、ほかには?」
というような受け流し方はしない。さすがである。
とくに抽象画の場合は「この絵は何に見えるか」という点に、一般の鑑賞者の話は、終始しがちである。
そういう話を、専門家はモダニスムの観点から、つい見下しがちではないだろうか。
もちろん、話がそこでとどまって、絵柄を何かに見たてておしまいになってしまっては、発展性に乏しい。
しかし、そこから話がさらに広がっていくのだとしたら、「何に見えるか」という観点は、決して無意味ではないだろう。
冒頭は、大井敏恭さんの作品だが、いちばん手前の、異なる絵を二つ横につなぎ合わせたように見える作品について、ワークショップ参加者が
「右側は、(吹雪のような斑点のなかに)3人の像が見える。親子ではないか」
と言ったら、それが図星であることを作者本人が認めたので、筆者は驚いた。
大井さんは、亡くなった父親が写真記者であり、多くのネガを残したことに着想を得た絵をいくつも残しているが、これも自分の過去に視線を向けたまましばらくの間放置していた作品なのだという。

唐草模様にも似た文様の上に浮かぶ本を描いた作品。
図と地の絡み合いがレイヤーの重なりを感じさせる。
本という題材は、魅力的だ。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」第2稿を思い出させる。つまり、それは、世界の暗喩なのである。
作品としても、村岡三郎の「アイアン・ブック」など筆者は大好きだ。
さいきん、大井さんは、脳の中の概念やイメージを視覚化したような絵も描いているから、そういうタイプの作品と思ったら、作者は「これから世界を変える本」だという。
世界を変えた本といえば「聖書」や「資本論」「社会契約論」などを思い出す。
筆者が思うに、一冊のイデオロギーが何千万、何億もの人を導く時代はもう来ないだろう。
世界を変える本は、わたしたちひとりひとりが自分のぶんをつづっていくしかあるまい。
そして、大井さんがそう云おうと、作者の言が絶対の正解ではなくて、見る側の自由に任されているのだから、芸術はおもしろい。
末次さんの作品は3点。

100年ほど前、ロシア=ソビエトの画家マレービッチは、白い地の上に白の四角形を描いたが、末次さんの新作は、赤の上の赤い円と、黒の上の黒い円だ。
地と円の間にはわずかな白の線が顔をのぞかせているが、円を一周する輪郭線はとくにひかれていない。
ただ、両者の間には、微妙な彩度や明度の差があるようにも見える。もっとも、いったん、円があると認識してしまうと見える差異なのかもしれない。
しかし、そういうめんどうなことを考えるより前に
「異世界への出入り口のようだ」
と感じ取ることが、この絵を理解する近道なのかもしれない。

春先の雪山から着想を得て描いた作。
ワークショップでは、ご飯茶碗を洗う時に水につける(北海道弁で「うるかす」)際の情景だ、と言った人がいて、しかも、それにうなずいている人が多かったのが、面白かった。
アートって、自由だなあ。
最後は林さん。
「心をうかべて」シリーズ。

中二階の下の、紫と緑の絵画がいちばん大きくて、目を引く。

これについても、ワークショップでは
「野菜のようだ」
「こっちはナスビ」
などとにぎやかに発言が出ていた。
筆者は、ストロークを強調した描法に注目した。なんだか、笠見康大さんの近作にも似ているし、もっとさかのぼると、ウィレム・デ・クーニングあたりを思い出させる。
林さんによれば、もっと色を重ねていくつもりだったらしいが、この時点で制作を止めてみたとのこと。

また、個人的に気になったのは、「心をうかべて」シリーズの特徴でもあった、画面に浮遊するように点在する絵の具の塊が、みられない作品がいくつか在ったこと。
この絵の具は、人間たちの魂のようにも見えるし、また、作品を見る人の視線を動かす働きを有してもいる。いわば、絵画の平面性と、物質性との、双方の役割を具現化する装置であるともいえる。
林さんもさまざまな試行を繰り返しているのだと思った(安直なまとめですみません)。
いずれにしても、美術教育の現場で、鑑賞教育について関心を抱いている先生などは、こんどこの種のワークショップがあったら、ぜひ参加したほうがよいと思う。おすすめです。
そして、見る側も、美術鑑賞の自由さに、あらためて感服することになるだろう。
2015年3月10日~31日(火)午前10時~午後6時、会期中無休
北翔大学北方圏学術情報センター ポルトギャラリー(札幌市中央区南1西22)
■Art in Progress 企画展「Timeless:時の肖像」 (2013)
【告知】絵画の場合2012 -最終章-
=3氏とも出品
■SAG INTRODUCTION(2009)
■絵画の場合(2007年1月)
■絵画の場合(2005年)
=以上、大井氏と林氏が出品
■林亨展(2004年)
■林亨展(2002年)
■林亨展(2000年)
■末次弘明のまとめ展 (2012年)
3月から4月にかけて、現代の絵画について考えさせられる3人展が二つ開かれた。
札幌の関係者なら必見であったと思うので、遅くなったが、ここで紹介したい。
ひとつは、末次弘明、林亨、大井敏恭の3氏が出品した展覧会で、正式名称は
北翔大学北方圏学術情報センタープロジェクト研究美術グループ研究報告作品展 Caustics :メディウムが光と出会うとき
もうひとつは、井桁雅臣、大古瀬和美、平向功一の3氏により、茶廊法邑で開かれた「Re-crossing それぞれの生きること、描くこと。」展である。
「Caustics」は、「絵画の場合」展に参画した塚崎美歩さんがキュレーティングを行っている。
展覧会に出品された絵画作品もさることながら、筆者には、3月28日に行われた「対話による鑑賞ワークショップ―みる人がアートを作る」が、とても興味深く感じられた。
ワークショップといっても、絵を前に参加者が自由に感想を語り合うという、じつにシンプルなもの。
ところが、それが非常に奥深く、絵というのはどのように見てもまったくさしつかえなく、自由なのだ、ということを、あらためて認識させられた。
ファシリテーター(進行役)の山崎正明さんは、どんな発言が出ても
「それはおもしろいですね」
と賛嘆し、つぎの発言を促す。
けっして、一部の小学校の教師のように、子供が自らの授業プランに沿わない発言をした場合にあっさり口にする
「そうだね、ほかには?」
というような受け流し方はしない。さすがである。
とくに抽象画の場合は「この絵は何に見えるか」という点に、一般の鑑賞者の話は、終始しがちである。
そういう話を、専門家はモダニスムの観点から、つい見下しがちではないだろうか。
もちろん、話がそこでとどまって、絵柄を何かに見たてておしまいになってしまっては、発展性に乏しい。
しかし、そこから話がさらに広がっていくのだとしたら、「何に見えるか」という観点は、決して無意味ではないだろう。
冒頭は、大井敏恭さんの作品だが、いちばん手前の、異なる絵を二つ横につなぎ合わせたように見える作品について、ワークショップ参加者が
「右側は、(吹雪のような斑点のなかに)3人の像が見える。親子ではないか」
と言ったら、それが図星であることを作者本人が認めたので、筆者は驚いた。
大井さんは、亡くなった父親が写真記者であり、多くのネガを残したことに着想を得た絵をいくつも残しているが、これも自分の過去に視線を向けたまましばらくの間放置していた作品なのだという。

唐草模様にも似た文様の上に浮かぶ本を描いた作品。
図と地の絡み合いがレイヤーの重なりを感じさせる。
本という題材は、魅力的だ。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」第2稿を思い出させる。つまり、それは、世界の暗喩なのである。
作品としても、村岡三郎の「アイアン・ブック」など筆者は大好きだ。
さいきん、大井さんは、脳の中の概念やイメージを視覚化したような絵も描いているから、そういうタイプの作品と思ったら、作者は「これから世界を変える本」だという。
世界を変えた本といえば「聖書」や「資本論」「社会契約論」などを思い出す。
筆者が思うに、一冊のイデオロギーが何千万、何億もの人を導く時代はもう来ないだろう。
世界を変える本は、わたしたちひとりひとりが自分のぶんをつづっていくしかあるまい。
そして、大井さんがそう云おうと、作者の言が絶対の正解ではなくて、見る側の自由に任されているのだから、芸術はおもしろい。
末次さんの作品は3点。

100年ほど前、ロシア=ソビエトの画家マレービッチは、白い地の上に白の四角形を描いたが、末次さんの新作は、赤の上の赤い円と、黒の上の黒い円だ。
地と円の間にはわずかな白の線が顔をのぞかせているが、円を一周する輪郭線はとくにひかれていない。
ただ、両者の間には、微妙な彩度や明度の差があるようにも見える。もっとも、いったん、円があると認識してしまうと見える差異なのかもしれない。
しかし、そういうめんどうなことを考えるより前に
「異世界への出入り口のようだ」
と感じ取ることが、この絵を理解する近道なのかもしれない。

春先の雪山から着想を得て描いた作。
ワークショップでは、ご飯茶碗を洗う時に水につける(北海道弁で「うるかす」)際の情景だ、と言った人がいて、しかも、それにうなずいている人が多かったのが、面白かった。
アートって、自由だなあ。
最後は林さん。
「心をうかべて」シリーズ。

中二階の下の、紫と緑の絵画がいちばん大きくて、目を引く。

これについても、ワークショップでは
「野菜のようだ」
「こっちはナスビ」
などとにぎやかに発言が出ていた。
筆者は、ストロークを強調した描法に注目した。なんだか、笠見康大さんの近作にも似ているし、もっとさかのぼると、ウィレム・デ・クーニングあたりを思い出させる。
林さんによれば、もっと色を重ねていくつもりだったらしいが、この時点で制作を止めてみたとのこと。

また、個人的に気になったのは、「心をうかべて」シリーズの特徴でもあった、画面に浮遊するように点在する絵の具の塊が、みられない作品がいくつか在ったこと。
この絵の具は、人間たちの魂のようにも見えるし、また、作品を見る人の視線を動かす働きを有してもいる。いわば、絵画の平面性と、物質性との、双方の役割を具現化する装置であるともいえる。
林さんもさまざまな試行を繰り返しているのだと思った(安直なまとめですみません)。
いずれにしても、美術教育の現場で、鑑賞教育について関心を抱いている先生などは、こんどこの種のワークショップがあったら、ぜひ参加したほうがよいと思う。おすすめです。
そして、見る側も、美術鑑賞の自由さに、あらためて感服することになるだろう。
2015年3月10日~31日(火)午前10時~午後6時、会期中無休
北翔大学北方圏学術情報センター ポルトギャラリー(札幌市中央区南1西22)
■Art in Progress 企画展「Timeless:時の肖像」 (2013)
【告知】絵画の場合2012 -最終章-
=3氏とも出品
■SAG INTRODUCTION(2009)
■絵画の場合(2007年1月)
■絵画の場合(2005年)
=以上、大井氏と林氏が出品
■林亨展(2004年)
■林亨展(2002年)
■林亨展(2000年)
■末次弘明のまとめ展 (2012年)