Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

終戦の日~田中澄江さんの遺言

2017-08-15 11:28:58 | 国際・政治

本日 8/15は、72回目の「終戦の日」。まずは、計300万超の、戦没並びに戦災犠牲各位に、心よりの弔意を表し、又、原爆被害を含む、多くの戦傷病被害の方々にも、併せてお見舞いの意を申したい。もう一つ、折々拝聴する「英霊に感謝を」の言葉にも、改めて、謙虚に向き合って参りたいものであります。

もう随分前、拙者が学生の頃だったか、当時まだ働き盛りだった女流作家 田中澄江さん(2000=平成12年ご逝去)が、終戦の日の所感を、某新聞に載せられた事があった。同女史の記事の主題は、まず「心静かに、謙虚にして冷静に、先の大戦の事共を振り返り、向き合うべき」との趣旨だったと記憶している。若い頃の拙者は、その表現に少し引っかかりを覚えたものだが、齢を重ねて振り返ると、至極当然の事を無理なく述べられただけだったとの理解ができるのだ。

微かな記憶で恐縮なのだが、田中さんはその折、「平和への祈りが、それを希求する動きが、一部勢力の売名や、権勢収奪の為などに、利用される事がない様」各方面を厳しく戒める内容だったと記憶している。戦後70余年、同女史のご懸念は、年毎に目立っている様に感じられるのは拙者だけか。

戦後、連合国進駐軍GHQ内部は、旧ソビエト連邦側にも通じる、左派容共勢力が強く、東京裁判こと極東国際軍事裁判の方向や、対日占領政策のあり様にも影響力があったとされる。その落とし子の大きな一が、日共以下、国内左派容共勢力向けの「甘過ぎる」解放策だったのではないか。戦前戦中の、治安維持法などに基づく、対左派抑圧策は、それは行き過ぎの面もあったろうが、戦後は一転、GHQ左派勢力により「極端から極端」の移ろいを描いた様だ。

戦後の、平和との向き合いは、左派容共勢力のペースに主導された所が多くあり、終戦から数年を経た朝鮮動乱の折、GHQの方針変更による「赤狩り(レッド・パージ)」に伴う同軍左派勢力の放逐後も、我国の左派容共勢力が温存された為、そうした事に関する疑問や問題提起は、タブー視されたりスルーされる事が多かった様だ。歴史学者 会田雄次さん(1997=平成9年ご逝去)や文学者 福田恆在(ふくだ・つねあり)さん(1994=平成6年ご逝去)らは、こうした動向を疑問視され、著書などでその不良をアピールもされたのだが、流れは大きくは変わらなかった。東西冷戦期に入り、戦後の日米関係を深める必要が大きくあったその時期に、大きな阻害要因が残されてしまい、その事が、60年、70年の両安保闘争などを含め、現在まて悪影響を及ぼす事となる。

広く知られている様に、日共・社民(当初は社会党・社会主義協会派であった)以下左派容共勢力は、詐欺的なまでに政治情宣プロパガンダが上手い。田中さんは、或いはその辺りも看破されていた事だろう。「権勢収奪や売名などに利用させるな!」との厳しい姿勢は、その事を裏付けるものだろう。勿論、自衛力を巡る、その理解把握が適切とは言えない所は、自由民主党など保守側にも一定は存在し、我々国民市民は、そうした所は強い信念を持って、是々非々で臨まなければならない。

折しも、米合衆国と北鮮が緊張関係に入ったとされ、我国本土近辺にも、「北」の大陸間弾道弾の飛来が懸念される状況が生じている。そうした事にも、過分な感情的反応を抑え「正しく警戒」し、冷静に向き合う事が大切と言う事だろう。勿論、前述の懸念に対する自衛隊の迎撃準備などの対応は、適切なものであり、それは、彼の地の田中さんも、ご理解を下さっている事と思う。

先日付の、ある知人の記事を拝読したら「終戦の日」は、記念日ではないとの事。本来、慶事のあった日を「記念日」と呼ぶに、敗戦により、国内外に甚大なダメージを生じ、多くの教訓を学ぶべきこの日は、記念日と呼ぶに相応しくないのは当然の事。これからは「終戦の日」に呼称統一すべき。今回画像は、先日、当地北郊の一宮市郊外、JR東海道線沿いの田園の模様。実りを待つ、豊かな稲、傍らを抜ける、豊かな物資を運ぶ貨物便。これぞ、戦中の方々が夢に描いた、平和の一風景ではないでしょうか。それを日常の事として見られる、今に、感謝・・

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